03
朝である。
朝になると、侍女がやってくる。
美佳はそれよりちょっとだけ早起きして、到着を待つ。うかうかしているとベッドから起きて後、止める間も無く身ぐるみ剥がれるところから始まる全自動朝支度コースが始まるのだ。一介の市民としては実に落ち着かないので頼み込んで最小限にしてもらった。
用意された桶に張られたちょうど良い温さの水で顔を洗い、寝巻きを脱いで服を着る。衣装部屋には彼女のために用意されたという沢山の服があるが、美佳が専ら着るのは魔女の為にしつらえられたという長衣だ。
黒を基調とした質素なつくりなのだが、よく見れば同色の艶糸で光の精霊を象った意匠が細かく縫い込まれている。光が当たる度にきらきらと本物の精霊のように輝くそれを美佳は気に入っていた。
光の精霊といえば、軽く意識しなければいるのを忘れそうになるが、とりたてて変わらずそこらに浮いている。じっと見れば目に焼き付くくらいの彼らも普段は意外と控えめなのであった。
鏡台の前で黒髪を櫛梳って寝癖が無いのを確認すると準備完了。扉を開けて声をかける。
「アル、アルー。」
廊下に立っていた美佳の騎士が、優しく微笑んで頭を下げる。
「お早うございます、ミカ様。」
「おはよう」
美佳もにっこり笑みを返す。余裕の表情である。散々イケメンぎゃーとか言っていた美佳はもういない。ここにいるのはアルフォートの忠義ぶりにうちの子偉い、とご満悦の一人の愛犬家であった。ある意味盛大に道を踏み外しているとも言える。
美佳が廊下に繰り出せば主の一歩後ろをキープし、つかず離れず黙して歩く。食堂までの道程は美佳的には朝のお散歩な位置付けになっているのだが、言わぬが花というやつであった。
「ミカ様」
「なにー?」
くるりと歩きながら振り向き視線を下から上へ動かす。彼の方が背が高いのだが、あの日美佳に傅き見上げた姿が頭に残っているようでついつい膝元を見てしまうのだった。
「今日は朝食後に、司祭長が面会を申し出ています。」
「司祭長?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。はい、とアルフォートは言った。
「名はチャーチル・ソードレス。魔女様に関わる祭事を担当する者たちの長になります。例えばミカ様を召還した儀式も彼が用意したものです。」
へー、と美佳は誰とは言わないが白い法衣に身を包んだしわくちゃのお爺さんを思い浮かべた。何となく偉い人なんだなと思う。
アルフォートはそんな美佳を見て苦笑した。
「私は、出来れば会って欲しくはないのですが…いえ、すみません。余計なことでした。」
おや珍しい、と目を見張る。
このいかにも人当たりよさそうな騎士がそんな評価をするとは一体如何なる人物なのか。顔に出ていたのか、美佳にアルフォートは気まずげに頬をかいて呟いた。
「まあ、会えば分かります。」
「ようこそ、魔女様。」
諸手を上げて白い歯を見せた男性は笑顔で美佳たちを出迎えた。 燃える赤毛を結わえ肩に流した彼は対照的な空色の瞳を面白そうに細めて、美佳の手を軽やかに取った。流れるように甲に口付けが落とされる。
「魔女様におかれてはご機嫌麗しく。眠る姿も可憐だったが、つぶらな瞳も何とも可愛らしい。」
…チャラい。
美佳は喉まで出かかった台詞を何とか飲み込んだ。
言動もさることながらあんまり似合っていない黒っぽい法衣が髪色を際立たせており、華やかな容姿と相まって優雅を通り越して軽さ倍増である。
異世界にもチャラ男っているのだなあ、といっそ感心してしまった。
「…ソードレス殿、ミカ様をからかうのは止めて頂きたい。」
頭の上からアルフォートの重低音が響く。見れば苦虫を噛み潰したような顔をしてかの人を睨まんばかりだ。美佳の耳には「がるるる」と威嚇する鳴き声が聞こえた。美佳の視線を受けるとはたと決まり悪そうに頭を下げる。どうやら相当に苦手というか、嫌いらしい。
しかしチャーチルはまったく意に介さず笑って見せた。むしろ嬉しそうに…というかアルフォートの反応を面白がっているようだ。
「からかってなんかいないよ、魔女の騎士。君の主殿が可愛らしいのは事実だからね。さ、こちらに。」
促されて椅子に座ると、チャーチルは取ったままの美佳の手を恭しく持ち上げた。手首に描かれた模様を指でなぞる。
くすぐったくて居心地悪げにむずがるとチャーチルはきょとんとした瞳をしてから、口角をつり上げた。
やばい、変態さんだ。
そして後ろからばりばりと冷気が漂ってきている気がする。アル、ステイステイ。
…そういえばこれが何なのか聞くのを忘れていた、と美佳は思う。
「あの、この模様って何なんですか?」
「ああ、説明がまだでしたか。これは魔法式ですよ。」
問われてチャーチルはにこりと美佳の目を見た。空色の瞳に鏡のように自分が映っている。
「貴女がこの世界に留まるのに必要な魔法がここには書かれています。例えば、いま、僕が何と言っているかお分かりでしょう?」
「はい」
「貴女の故郷の言葉は日本語でしたか。我々は日本語を話せるわけではありません。魔法で言葉が通じるようにしているんですよ。」
「あ」
言われて今更そんな単純なことに気付く。
同じ地球ですら言語の違いがあるというのに、異世界で日本語が通じるという方がおかしいのだ。今の今まで違和感を感じなかったのは、結局まだ動揺が残っていたのだろうかと美佳は思った。
あるいはこの世界や人々があまりにも彼女の世界と違っていたのなら気づいたのかも知れない。この世界の人たちは、そういった意味では地球人と見た目が変わらなすぎたから。
得心したというように呟いた美佳にチャーチルは鷹揚に頷いた。
「まあ、そういった諸々の魔法が掛かっている証だと思っていただければ結構です。というわけで、服を脱いで頂けますか?」
「あ、はい………はい!?」
思わず襟元を押さえて後ずさる。椅子が傾きそうになるが、がつ、と何かにぶつかって止まった。
いま、この人なんて言いました?
「法式が正しく機能しているか確認するんですよ。両手首と足首、あと心臓、計五ヵ所。もしかしてお気付きになってらっしゃらなかった?」
「いえ、胸になんかあるのは知ってましたけど…!」
初めて着替えた時に鏡を見て、見慣れないアザがあったのには気付いた。美佳もさすがに偶然できたものだとは思わなかったが、腕のものと似ている気がしたし、あの時は王様に呼ばれて急いでいたので棚上げしたのだ。
「僕はその魔法を手掛けた責任者なので、定期的に確認する義務があるんですけどやはり視認しないと分かりませんしね?」
ね?のあたりでものすごくいい笑顔を向けるチャーチル。手をわきわきと怪しげに動かしている。
美佳がひぃ、と悲鳴を上げそうになるより早く、絶対零度の声がそれを遮った。
「ソードレス、殿?」
恐る恐る見上げればアルフォートが同じく笑顔を浮かべている。だが目はまったく笑っていない。支えられていた美佳の座る椅子の背もたれが軋んでいる。それがみしみし、から、ばき、に変わった時今度こそ美佳は悲鳴を上げた。
「ま、待ってアル!落ち着いて!ステイ!ハウス!」
「恐れながら落ち着いておりますミカ様。」
「そう言いながら剣に手をかけるのは止めてー!」
慌てて振り向きざまにアルフォートにしがみつくと不服げに、しかし即座に大人しくなった。ふーと息を吐く。やだこの子ったら意外と沸点低い。
向き直るとチャーチルはにやけ面でやり取りを見ていた。大層面白そうなのを隠しもしないで横を指差す。
「冗談はさておき。そこの衝立の向こうに女性の助手が控えております。そちらへどうぞ。」
その声に応えて衝立の影からひょこりと女性が顔を出して一礼した。助手とか居たのなら是非この人を止めて頂きたい。それともこれが平常運転なのか、彼女からはなんの感情も伺い知れなかった。
ともあれそそくさとそちらへ向かい、服をはだける。
胸の辺りには拳大くらいの花のような模様があり、その花を形作る線の一本一本が小さい文字で構成されていた。
助手の女性はうっすら青黒く発光しているその一文字ずつを確認するかのようにゆっくりと観察している。
しかしこう、いくら相手が女性と言えどもあんまりじっくり見られると、段々恥ずかしくなってくる。かといって真剣そのものの女性の手前、下手に動くことも出来ない。
…もう少し大きかったら良かったのに。何が、とは言わないが。思わず眼前の女性の豊満なそれと比べてしまい気まずい気分でいると、衝立の向こうから助け船が出された。
「ところで魔女様。貴女の騎士がそうしているように、僕も是非その芳名を口にする権利を頂きたいものですね。」
「あ、はい。どうぞ。あの、敬語とかも必要ないですから。」
「それは光栄の至り。ではそうだな…ミカ君。時に君、恋人はいるのかい?」
ごほ、とむせる。助手さんが動くなとばかりにちらりと顔を上げた。いやこの場合は貴女の上司が悪くないですか?美佳は不本意に思いつつ、もしょもしょと答える。
「い、いません。」
「おやおや、向こうの世界の男どもはこんな可愛らしい人を差し置いて何を見ていたのやら。ああ、でもそうか。」
「?」
「こちらに来たのならいないのも頷ける。総じて魔女とは処」
「アル!ストップ!ストーップ!!斬っちゃ駄目!めっ!」
全然助け船じゃなかった!
勢いよく金属音がしたので、美佳は慌てて叫んだ。
重なるようにけらけらとチャーチルの笑い声が響く。最悪だこの人。
ほどなくして異常なしと結果を受けた美佳は早急に退出することにした。これ以上は色々と危ないと判断したのだった。主にアルフォートの耐久値が。
部屋を出る際に「これからも定期的に診るから、また来てね」と笑顔で言われ、辟易する。
ちらとアルフォートを見やれば、ぎりぎり奥歯を噛み締めつつチャーチルに胡乱げな瞳を向けていた。
…ああ、うちの子が荒んでいく。
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