番外編 「図書室の主」
13.75
世界は色で満ちている。
突き抜ける空の青、照りつける太陽の眩い光、木陰の緑、沈む夕日の赤、夜の星の金銀の輝き。
世界は音で満ちている。
さざめく草原の葉、虫の鳴き声、鳥の囀り、街の喧騒、曇天から落ちる雨。
世界は彼に手を伸ばす。
吹き付ける氷雪、焼き付いた砂つぶて、ごわついた動物の皮、研ぎ澄まされた金属の鋭さ、動かないかつて生きていたものたち。
世界は味を恵みに落とす。
暖かいスープ、熟れた果実の瑞々しさ、海水は塩辛く、汚泥は苦く、ねじ込まれた煎じ薬は渋い。
世界は彼の鼻腔をくすぐる。
咲き誇る花の香り、焼きたてのパン、野焼きの煙、焦げ付いた家、血を纏った死体。
彼は世界を記憶する。
余すことなく、残すことなく、零すことなく、掠れることはなく、忘れることもない。
世界に愛されたのだと人は言う。
彼の小さな身体に世界は大きすぎて、その重さに壊れかけたこともあった。
それが愛だと言うのなら、確かに彼は愛されたのだろう。
可哀想にと人は言う。
捨てられ拾われ、長い旅の果てに彼を壊さない小さな白い箱庭を与えられた。
元の世界の広大さを恐れないのなら、確かにここは狭すぎるだろう。
彼はその箱庭と、そこから続く望んだ時だけ触れる、文字でのみ語られる外の世界を好いていた。
昔よりは大きくなったその掌にのし掛かるのは、紙の重みだけだった。
愛は重いものだ。愛の形は人それぞれで、それをどう受け止めるかも人次第だと、書いてあった。
ならばと彼は箱庭を愛した。
誰も省みず、何の音もしない、触れもしない、味気も芳しい四季の訪れもないこの小さな世界を。
どれだけ彼が愛しても壊れない、この世界を。
例え他の誰に理解されなくとも。
例えこの世界が彼を愛さなくても。
それでも良いと思った。はずなのに。
彼女が一言、素敵だね、と言ったその時に。
彼の愛は終わりを告げた。
手から滑り落ちたティーカップが床に叩きつけられた。
軽い音を立てて粉々にくだけ散り、中の液体がぶちまけられる。
湯気を立てて広がっていく様は蜃気楼のようだ。
それが足元に届く前にテイワズは半歩身を引いたが、大して効果は無い。
すぐに靴の下に入り込み、歩みに沿って波紋を広げた。
二次災害を防ぐため、人を呼ぶことに決めた。
砂を踏むように破片と湯を踏みしめて入口の横に置かれたベルを手に取る。
それと同時に扉を叩く音が聞こえる。
描かれた魔法式が部屋全体に届くように声を拡張する。
いつものように気軽く響く魔女の声。
「ティズ、入って良い?」
「駄目だ。」
魔法式は声の主が息を飲む音まで伝えてきた。
しかしそれで意図しない伝わり方をしたのだと気付く。
言い方を間違えた。こういう場合はそう、こうだ。
「入らない方が良い。」
「…何かあった?」
予想と違う、心配そうな声音。
テイワズの最適解を導き出しているはずの記憶は彼女が来ると調子を崩す。
とりあえず入口がこの状態では入りようがない。
先に片付けさせようとベルを鳴らす。
これで魔法式で繋がった侍従の部屋に連絡がいくようになっている。
「ティズ?」
「少し待て。」
ややあって再度扉が叩かれる。
「参りました。ご用件は何でしょう?」
「カップが割れた。」
侍従に手短に告げると扉の鍵を開けるよう意識する。
小さく開いた扉の間から入ってきたのはなぜか魔女だった。
「大丈夫!?」
危ないと思う。止めなくてはと考えて、手を伸ばそうとした時にはもう彼女は床の液体を跳ねさせた後だった。
彼の身体はいつも愚鈍で不器用だ。
咄嗟に動けない自分を恨めしく腹立たしく思う。
現実にはその片鱗として柳眉が小さく動いただけだった。
彼女は気にせず汚れた床を踏み越えて、テイワズに詰め寄った。
ドレスの裾が風になびくカーテンのように翻る。身の軽さはまるで宵待鳥だ。
囀りのごとく矢継ぎ早に質問が繰り出される。
「怪我は?やけどとかしてない?あ、足!ズボン濡れてる!熱くなかったの?」
「怪我はしていない。…やけどは、している。…熱かった。」
「うん。…うん。…うん?」
少しずつ口に出していくのを、彼女は律儀にひとつずつ同じ速度で頷いてくれる。
最後のひとつで首を傾げられ、テイワズは胸中で同じように首を傾けた。
「えーと…やけど…。」
「している。」
テイワズは繰り返し答える。
言われてようやく身体が理解したようで、痛みを感じ始めた。
まったくもって愚鈍だ。救いようがない。
「ええ!?ちょ、え?あああえーとお願い!します!」
変わった掛け声とともに即座に痛みが引いた。
魔女の秘法は本当に便利だ。原理は教会に秘匿されているのでよく分からないが、世に広まればさぞ重用されるだろう。
「どう?」
「痛くなくなった。」
魔女は胸に手を当て、溜め息をついた。
呆れられたろうかと謝ろうとすると彼女は優しく微笑んだ。
魔女の表情は良く変わるので、対応が追い付かない。
「とりあえず着替えてきて。ここは片付けてもらうから。あ、着替え一人で出来る?」
人を幾つだと思っているのだろう。着替えくらい自分で出来る。
頷いてもなおも心配そうにこちらを伺う気配がした。
それはテイワズが彼の部屋に入るまで続く。
小さな部屋は彼を変わらず受け入れた。
衣装棚から替えを取り出し、着替える。
衣擦れの音だけが辺りに響く。
静かだ。
それはいつものことなのに、今日は何故か落ち着かない気がした。
こういった個人の感情の細かな揺れは彼の読む本にはほとんど載っていなかった。
だからテイワズにはその理由が分からない。
分からなくても困らないはずだった。
しかし最近は魔女にその手の話を振られることが多く、その度に彼は返事に窮するのだった。
答えられない彼は役立たずだ。
役に立てないとここにいられなくなる。
彼の世界を、奪われてしまう。
「ティズ?大丈夫?着替え終わった?」
控えめに叩かれた扉の音で彼は我に返った。
扉を開けば遠慮がちにこちらを見る魔女がいた。
下を見て、「ちゃんと出来てるね。」と彼女は言った。手を差し出す。
テイワズは首を傾げた。
今度は動きが追いつく程度には間が空いた。
「替えた服は?持っていってもらうから。」
どうせ翌日にはシーツや他の着替えたものもまとめて出すのだが。
そんなテイワズの胸中を気にすることもなく、何故か彼女は軽く顔をしかめて軽くその場で何回か跳んだ。
よく分からない。
「…中、入っても良い?」
神妙に呟かれたその言葉に何故か心臓が激しく跳ねた。
「ちゃんと掃除してる?まさかこっちみたいに本まみれなんてことは…。」
じとりとこちらを見上げる彼女にテイワズは安堵した。激しくなった動悸はあっさりと収まった。
それならば何も問題ない。
道を譲ると魔女は「お邪魔します」と彼の箱庭に足を踏み入れた。
細かく頭を左右に振り、部屋を眺めている。
寝台に衣装棚、魔女の書物を収めた書架。洗濯籠。
部屋と隣り合った小さな庭には椅子が一つ置かれている。
それだけだ。
いつも通りの、彼の小さな愛する世界。
だと言うのに、今日に限っては何故か味気なく感じられた。
花の一つでも置いてあれば良かったろうか。
そう思ってすぐさま否定する。そんなものがあっても彼はすぐ枯らしてしまうだろう。
テイワズには必要ないものだ。
魔女は一通り見終えたのか、振り返った。
黒い髪が白い壁に螺旋を描く。
「へえ。何だか、良いね。ティズの部屋って感じで。」
「…よく分からない。」
本当に分からない。
そう答えると、魔女は少しだけ考えるそぶりを見せた後、微笑んだ。
「んー。要するに、素敵だねってこと。わたし、ここ好きだな。」
その瞬間、世界が劇的に入れ替わった。
彼の美しい世界が、この小さな箱庭が、今までの比にならないくらいに輝いた。
いや、違う。
彼の頭ははっきりと、即座に否定してひとつの事実を弾き出した。
美しいのは、彼女だ。
彼女がいるから、輝いたのだ。
テイワズの愛は、今をもって明確に目の前の魔女に向き始めた。
「ティズ!?どうしたの?やっぱりまだ痛い?」
彼女が驚いたようにこちらを見ている。
「痛くない。」
テイワズは首を降る。いつの間にか頬を伝っていた暖かい雫が煌めいて空に散った。
「で、でも…。」
「…痛くない。」
テイワズは嘘をついた。
胸を締め付け苛むその感情を抑えるのに酷く苦慮した。
愛は重いものだ。
愛は人を壊す。彼はよく知っている。
この気持ちは、彼女を壊してしまう。
それは嫌だ。絶対に、嫌だ。
だからこれは仕舞っておこう。
忘れられない彼が忘れるくらい、深く深く奥の方へ。
未だこちらを気にかける美佳に顔を向けると、
望む記憶を引っ張り出す。
目尻を下げる。
口元を上げる。
ゆっくりと、出来る限り、落ち着いた声を出す。
「大丈夫だ。ありがとう…ミカ。」
テイワズは、優しく優しく、微笑んで。
初めてその美しい人の名を呼んだ。




