01
そこには、深い闇があった。
「へ?」
誰かが間の抜けた声を上げた。その誰かが自分だと気づくのに、美佳は数瞬を要した。
手はドアノブを持ったまま、いやドアノブなど無い。それどころかドアが無い。
その手は色鮮やかに染まっていて、上を見れば精緻なステンドグラスが柔らかな色とりどりの光を美佳に落としている。慌てて振り向けばネオン豊かな駅前の風景は消えていた。代わりにわずかな蝋燭の明かりに照らされて世界遺産の本で見たようなこれまた細かな細工の施された壁が見えた。そこには蔓を思わせる青い線がいくつも描かれていてときおり光が走っている。
そしてそれより何より目を惹くのは、キラキラと煌めく雪の結晶だった。
視認出来るくらいの大きさの雪の結晶が、辺り一面に舞っている。
それがあまりに綺麗なので、美佳は思わず目の前の異変を忘れそうになる。
「魔女様」
現実に引き戻したのは鈴が鳴るような可愛らしい声だった。
いや、これは現実なのか。恐る恐る振り返れば薄闇の中、静かに佇む中世の貴族が着るようなドレスに身を包んだ少女が立っている。
そこだけスポットライトのように上から光が差し込んで、美佳は舞台でも見ているような気分になった。その瞳は嬉しそうに、それでいて悲壮感を漂わせてしっかりと美佳を見据えている。
「魔女様」
ステンドグラスの光を受けて輝く、緩やかに波打つ豪奢な金髪をふわりとゆらし、少女は再度口にした。
さっきも見たが、もう一度後ろを振り返る。他に該当しそうなものが無いのを確認して、おとなしく少女に向き直る。複雑な面持ちで、そっと息を吐く。
「あの、わたしのことでしょうか…。」
「はい、魔女様。貴女様でございます。」
三度呼ばれ、美佳はついさっきまでの有り様を思い出しちょっとへこんだ。まほーつかいでもまじょでも良いが、こんな見ず知らずの美少女にまで自分の遍歴は知れ渡っているのか。いやそうじゃない。
「えーと、ここはペットショップじゃ、ないですよね…。」
あり得ないと思いつつ、念のため確認する。我ながら本当に馬鹿らしい問いにも少女は嫌な顔ひとつせず、むしろすみませんと言った感じで答えた。
「申し訳ございません。おそらく、違うと思われます。」
ですよねー、と美佳は苦笑いする。というかこちらが申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「じゃあ、あなた…えーと、貴女様はどちら様でございましょうか…?」
おかしな言葉になったがご容赦願いたい。目の前にいるからこそわかる、この少女はどうみてもやんごとなきご身分にしか見えない。なんというかオーラ的な何かが見える、見えるのだ。
「申し遅れました、魔女様。私はフローゼン王国の王女、マリーガルド・T・フローゼンと申します。」
少女は誰何の言葉を受けて、ドレスの裾をつまみ優雅に一礼した。
「そしてここは貴女様のいらっしゃった日本とは遠く遠く離れた、異国の地ダイサウンドになります。」
つまりそれは…いわゆる異世界と言うやつではないだろうか。
美佳は昔、弟に借りた軽小説を思い出した。
ある日突然地球とは異なる世界に呼び出された少年少女が、大体王女様か聖女様…高い地位にある女性にこう言われるのだ。
「勇者様!どうか私達をお救いください!」
あれっ、いま完全にシチュエーション被ってませんか。
呼び名は違えど、このお姫様の言う「魔女」という響きには悪い意味が混じっているようには聞こえなかった。どちらかと言えば尊称として使われているようだ。様付けだし。
…弟よ、またもやごめんね。お姉ちゃん、先に異世界デビューを果たしてしまったみたいです。
美佳が遠い目をしていると、突如大きな音と共に王女の後ろから光が差した。
そこには扉があったらしい、現れた一人の男性が息を切らせて叫びをあげる。
「姫様っ、王妃様が…!!フリージア様のご容態が…!」
「!!」
王女はさっと顔を青ざめさせると、美佳に駆け寄り手を取った。
「え、え」
「申し訳ございません、説明は後で…!とにかくこちらへ!」
透き通るような白い肌の細腕で、力こそ強くないもののその勢いに押され、戸惑うのもそこそこに引っ張られる形で走り出す。
眩しさに目を細めつつ扉をくぐれば螺旋階段があるホールに出た。王女は美佳の手を放し、ドレスを持ち上げて先導した先程の男性を追うようにかけ上がって行く。
美佳もとりあえず後に続く。走りながら上を見た。
階段は幅は大人二人が並んで歩けるくらい、でも手すりは無い。先は長く霞んでみえて、え、これ昇るの?と考えてしまった。犬を運ぶ時転ぶと危ないからと踵の低い靴を履いてきたのがせめてもの救いだった。
しかし所詮は女性の足(日頃の運動不足の賜物とも言う)、なかなか先に進まない。ひぃひぃと息を吐く。王女もあのドレスではさぞかし走りにくいだろう。
すると彼女もそう考えたのか、立ち止まると声を上げた。
「ジャン…!パストラルは魔女様を!」
「承知」
「はっ…失礼します。」
耳元で声がした。
「っ!?!?」
ふいに足元が地を離れた感覚と共に、視界がぐるりと回る。まさか足を滑らせたのかと慌てて手足をばたつかせると、ぐいと何かに引き寄せられた。
「どうか落ち着いてください、魔女様。…落ちてしまいます。」
美佳は落ち着いた、というより動きを止めた。呼吸すら一時、忘れた。
定まった視界の斜め上、そこに端正な横顔があった。すらりと通った顎のラインが灯りに照らされ美佳の目に焼き付く。
彼…そう彼だ。いつの間にか側にいたその人は薄い金色の髪をゆらし、常緑樹の緑の瞳が気遣わしげにこちらをちらりと見ると、一瞬だけ柔らかく笑みを向けて前方を見据えた。美佳がおとなしくなったのを良しとしたか、スピードを上げて走り始める。
ぼんやりとつられるように前を見れば王女も同じように抱えあげられている。…同じように?
はぅあ、と奇声をあげかけて何とかこらえた。しかし胸中は大混乱である。
ちょちょちょ、これはまさかお姫様抱っこというやついやまて落ち着け。
また暴れかけたが、少しくらいでは美佳を支える腕は揺らぎもしなかった。それがまた羞恥を誘う。
お、降りたい。自力で頑張って昇るから、降ろしてください…!
当然心の声など届くわけもなく、彼は美佳を抱いたまま、階段を駆け昇っていく。せめてこの至近距離だけでもなんとかなるまいかと首を巡らせて、うっかり下を見てしまった。上の天窓から射すように光が落ちているせいでうっすらと階段が見えていて、否応なく高さを感じさせる。
美佳は高所が特に苦手というわけではなかったが、さすがに怯えが走る。思わず近くにいた彼にしがみついて、ええい、とひとまず恥ずかしさは脇に置いた。目をぎゅうと閉じる。これなら彼も周りも見えない。名案であった。
そうこうしている内に長かったのか短かったのかわからないまま、美佳たちは目的地らしき場所に着いた。
ようやくお姫様抱っこから解放され、降ろされるとそこはどこかの一室の前だった。
重厚な木製の扉には金で縁取られた細やかな細工が施されている。ホテルならルームプレートがあるあたりの位置には、花の彫り物があった。
王女が緊張した面持ちで扉を叩く。
「…マリーガルドです。お義姉様、失礼します。」
扉をあけると、まず目に入ったのは天蓋付きの大きなベッドだった。
それを取り囲むように、幾人かの人々。にわかに騒がしくなるが、美佳の耳には届かない。視線は一ヵ所に釘付けになった。ベッドの上、質素なドレスに身を包んだ一人の女性。
ひ、と音が喉から漏れた。
「お…お義姉様…!」
王女が強ばった声を上げ、ベッドに駆け寄った。横たわるその人に飛び付くようにすがりつく。
先程の話を聞く限りでは王妃様だという彼女の顔色は、白を通り越して蒼白だった。紫がかった唇がか細げに息を吐いている。かすかに上下する胸を見なければ、死んでいると思っただろう。
抜けるような白い手や足には禍々しいどす黒い紋様が生き物のように蠢いている。
これはなんだ。
怪我には見えない、ならば病か。
ざわざわと胸の奥から沸き上がる恐怖に身を固めていると、がくりと視界がぶれた。
鼻先に見知らぬ男性の顔が現れる。肩を捕まれているのに気付くのに少しかかった。
「そなたが魔女か…!?頼む!妃を…フリージアを助けてくれ!!」
「あ、え」
いきなり怒鳴りつけられ、美佳はすくんだ。男性は必死の形相で美佳を睨むように見つめてくる。ぎりぎりと捕まれた肩が痛んだ。
「頼む!早く…治してくれ!」
治す?誰が、何を。
美佳は混乱した。そんなことを言われてもには分からない。私は医者じゃない。そもそもあんな症状、知らない。見たこともない。
分からないのに、勢いに押され無理だと言うことも出来ない。美佳の胸中をよそに、男性は壊れた機械みたいに懇願を繰り返す。
「頼む!頼む!頼…!」
すぅ、と美佳の視野が急速に狭まる。
女の子の声が聞こえる。おねえさま、おねえさまと繰り返し呼んでいる。
目の前の男性がわめいている。
肩が痛い。知らない人「ねえさ」知らない場所「ま」「頼」助けて「む」うるさい。息が、上手く出来ない。苦しい。だれ「」か。
何かがぷつん、と切れそうな感覚。
そして、轟音が響いた。
しん、と一瞬にして室内が静まり返る。
ざわめきも、王女の義姉を呼ぶ声も、肩を掴む男性の声も、一切合切吹き飛んだ。
空気が余韻を残してびりびりと震えている。
その場の全員の視線を受けて、壁に拳を当てたその人は澄まし顔で腕を降ろした。
ここに至っては懐かしさすら感じる黒い髪をした長身の男性だった。確か、王女を抱えていた人だ、と美佳は思う。
へこんだ壁を背にして、彼は紫色の瞳を美佳の方に向けた。
「陛下、ご冷静に。魔女様が怯えておられます。」
「あ、ああ………すまない」
言われて美佳の肩を掴んでいた男性…陛下が慌てて手を離した。
「王女殿下、魔女様はまだ何も説明を受けておられません。それでは治癒も出来ますまい。」
「は、はいっ」
慌てて王女が立ち上がり、こちらに駆け寄ってくる。気を落ち着かせるように深呼吸している。美佳も早鐘を打つ心臓を抑えようとこっそりと息を吐いた。
…びっくりした。
一体どれだけ強く叩いたのか。頑丈そうに見えた壁はヒビが入り、一部は表層がはがれ落ちている。
かし効果はてきめんだった。少なくとも今は皆が多少なり落ち着きを取り戻したようだ。王も少し離れて若干遠巻きにこちらを見ている。
王女も幾分柔らかい声音で問いかけてくる。
「魔女様、周囲に雪の結晶のようなものは見えますでしょうか?」
「え?あ、はい。…あります。」
言われてようやく気づいたが、ここにも地下で見た結晶みたいなものはあたりにふわふわと漂っていた。触れようとすると、巧みに指先からするりと逃げていく。…もしかして生き物か何かなのか。
考えを後押しするように王女が口を開いた。
「それは光の精霊です。魔女様ならば精霊の力を借りて治癒魔法を使うことが出来ます。」
「光の…精霊?」
美佳の呟きに応えるように、無軌道にふわふわしていたそれらが差し出した手に寄ってきて、くるくると弧を描き始めた。行儀良くならんで号令を待つ子供たちのようだ。
「これを、どうすれば?」
「こちらへ…」
王女はベッドを指し示す。ゆっくりと近づくと、精霊たちも倣うようについてきた。横たわる女性は相変わらず苦しそうで、美佳は胸が痛んだ。治せるなら、治したい。私に、出来るなら。
「どうかこの方を癒して下さるように、精霊に請い願ってください。」
要するに、この子たちにお願いすると。そうしたら治るのか。何て言えばいいかな。美佳は考える。こういう時、それこそ弟とかなら小説みたいにカッコいい口上をすらすら言えるんだろうけど。
ええい、何でもいいや。とりあえず、
「お、お願いしますっ」
我ながら間抜けだなと思いつつ、美佳は声を上げた。
幸い精霊たちは気にしなかったようだ。ちか、と輝くと女性に集まり始めた。
結晶がさらに結晶になるように規則正しく並びながら、伸ばした手の先に広がっていく。その様はまるで精巧なレース細工のようだ。女性の手足に浮かび上がる紋様がじわじわと抵抗するようにもがいている。
…まだだ。もっと強く。もっと、もっと、もっと…!
美佳が心の中で思う度に光は増していき、ついに眩しくて周りが見えなくなるくらいになった時、唐突にばちんと、いう音と共に眼前が真っ暗になった。