20
ふわ、と美佳は欠伸を噛み殺した。
目を擦り、再び手元に視線を落とす。
今日は自室で一人きり、黙々とペンを動かしている。
テーブルには図書室から借りてきた、子供が使う文字の練習用の本が開かれ、それをひたすら書き移す作業に勤しんでいた。
模様にしか見えなかった文字も何十回と書けば慣れてくるもので、そして単調な作業というのは眠気を誘うものである。
アル、早く帰って来ないかな。
ぼんやりしかけた頭でそう思う。
彼女の騎士は今日も今日とて呼び出されており、永遠でない彼との時間を頻繁にとられることに美佳は不満を感じていた。
一体何を話しているのだろうか。
アルフォートに聞けば答えてくれるのかも知れないが、あまり踏みいるのも良くないと口を開けずにいる。
しかし相手はあの王弟殿下である。のんびりした団欒などでは決してないのは明白であって、もしかしたらわたしの素行でも聞いているのでは無いのかと心配になってきた。
戻って来たら勇気を出して聞いてみようか。
そんなことを考えていると、扉を叩く音がした。
アルフォートのそれより軽やかで特徴的な叩き方だった。
「はい。」
誰だろうと思えば意外な人物の声がする。
「魔女様。今少しよろしいでしょうか。」
「…えーと。助手さん?」
「はい。」
扉の前にはチャーチルの助手が立っていた。
いつもと変わらず冷めた表情で美佳に頷いて見せる。
「上司から魔女様をお呼びするよう仰せつかりました。ご足労願えますでしょうか。」
「あ、はい。構いませんけれど…。」
珍しいこともあるものだ。首肯してから、あ、と呟く。
「でも、アルが心配するかも。」
「それなら問題ありません。かの騎士には許可を得ています。」
「そうなんですか。じゃあ。」
廊下に一歩踏み出してから、助手が掌を向けてきた。
首を傾げるとひんやりとした口調で「お手を?」と言ってくる。
「え、え。」
「かの騎士はこうしているのでは、ないのですか。」
「い、いえ、そうでもないです。大丈夫です。」
「…そうですか。」
少しだけ眉根を寄せて助手は手を降ろした。
その様子は何となく不機嫌に見えて、きっとチャーチルがあらぬことを吹き込んだのだろうと分かってしまった。
連れられてやって来たのはいつもの部屋では無く、また見たことのない場所だった。
思わず周りを見回す美佳に構わず、助手は扉を叩いて中に声を掛けた。
「お連れしました。」
「入れ。」
何処かで聞いた声音だと思っていると、扉が開かれる。
促されるままに入り込むと、助手は頭を下げて扉を閉めた。
振り返れば、複数の視線を感じる。
その部屋はちょっとした広さがあり、奥の方に四、五人が固まって立っていた。
ほとんどは見慣れない顔だが、一人だけ、確かメトネルだったか、知った人がいた。
それはまだ良いとして、問題はその中央に置かれた一脚の椅子に座る人物だった。
美佳を黙って見据える冷たい瞳。冷銀の髪が組み直された足に合わせて揺れている。
ユスティン・フローゼン。
王弟殿下が、そこにいた。
何で?
思わず口にしそうなのをすんでのところで堪えた。
いや、もしかしたら実際はしようとしても出来なかったかも知れない。
相も変わらず怖いのだ。彼に対する得体の知れない恐怖感は続いている。
加えて周りの人々。
メトネル卿を含め、美佳に向ける眼差しあまり歓迎されるような感じではない。
あからさま過ぎるくらいの、値踏みするような眼。
「ご足労痛み入る。是非とも話しておかねばならぬことがあってな。」
促されるままに椅子に座り、真正面から対峙する形になる。
なるべく視線を合わせないようにして、首元あたりに位置を定めた。スカーフが揺れている。
「は、はい。」
本当は、アルと話してたんじゃないんですか、とかなぜ助手が呼びに来たのか、とか聞きたいのだが、到底無理そうだった。
余計な口を挟む余裕もないのだ。
前みたいにアルフォートはいない。ルドルフだって通りがからない。
「これはつい先だって入ったばかりの情報なのだが。」
また、機密情報か。
この人たちはどうしてこうもわたしにそう言ったことを話したがるのか。
ユスティンは胸中を意に介さず、優雅に足を組み直して何でもないように言った。
「我が国の隣国が戦争をしているのはご存知か。」
「はい。」
ジャンが話してくれた内容を思い浮かべつつ、頷く。
「その隣国が陥落した。」
「…え。」
「落としたのは対立していたイスタージャ王国だ。長らく拮抗状態が続いていたが…どうやら秘術を使ったらしい。」
秘術は、秘法とも言い、一つの国に一つだけ存在する魔法の上位にあたる存在だ。
途方もない魔力を消費し、そして途方もない威力を持ったり事象を起こしたりする。
『魔女召還』もそれに該当する。
「ともあれ先の戦いで疲弊したイスタージャは、我が国に和平を申し出てきた。だが始めに隣国に宣戦布告したのは彼の国であり、またいつ手を出してくるか分からぬ。」
美佳は軽く相槌を打ちながら黙って聞き入っていた。
うかつに声を発し辛いのもあるが、薄々会話の先行きが見えてきたからだ。
なるほど、彼女の騎士がいないのも頷ける。
今までの呼び出しもこの為の布石だったのでは無いかと思えるほどだ。
結局、間に合わなかったね。
美佳は心の中で微笑んだ。
ユスティンが一度言葉を切って、美佳を見据えた。
今度は真っ直ぐに見返すことが出来た。
「平和に暮らしてきた魔女殿には申し訳ないが、戦いが始まった暁には是非とも我が国のためにその力をふるって頂きたいのだ。」
視線を落として考える。
返答ではない。返事はとうに決まりきっていて、あとは口に出すだけだ。
だが、一度言ってしまえば撤回は難しいだろう。
軽々しく返せないからこそ、踏み出すのには考えていたより勇気がいった。
マリーさん。ジャン。ティズ。クルト王子。ルドルフさんとその部下さんたち。チャーチルさん、助手さん。王様と王妃様。
アル。
アル、わたしは。貴方が側にいてくれるのなら。
「無論、護衛は付ける。前線に出ることはまずなかろう。御身に危険が及ぶことはない。」
「…はい。承知しました。」
美佳の答えに、ユスティンの周囲から安堵とも歓喜ともつかないどよめきが上がった。
ユスティンはにこりともせず、ただ静かに頭を下げてみせた。
「感謝する。」
「いえ…。」
主の静けさとはうってかわって、周りの側近たちは賑やかなままだ。口々に思い思いの言葉を並べ立てている。
「いやぁさすがは魔女殿、実に潔い!」
「これで我が国は安泰ですな。」
その賑やかさの中で、美佳の耳は聞き捨てならない言葉を拾った。
思わず立ち上がり、声を上げる。
椅子ががたりと音を立てた。
「ちょっと待って下さい。今、何て言いました…?」
突然の変化に美佳以外の全員が動きを止めた。
「魔女殿?何か問題でもありましたか?」
「誰か、今、言いましたよね。」
口調がぞんざいになるのに気付くが、それどころでは無い。構わずに奇異の目を受けながらも続ける。
「今こちらから仕掛ければ簡単に勝てる、って」
皆一様にそれがなんだ、と言った顔をした。
真ん中の王弟だけが、その後に顔を僅かにしかめた。
「向こうは和平を願い出ているんですよね。なのに…。」
「それが真実だと言う保証はない。先の戦いとて先手はイスタージャからだった。これは我が国の為だ。」
「その信用ならない国とおんなじことをしようとしてるんじゃないですか。国って何ですか、国に住んでる皆のことじゃないんですか!皆は平和に暮らしてて、これからだって続けることが出来るのに、何でわざわざ壊すようなことするんですか!!」
悲鳴じみた叫びを上げる。
戦争になったら皆戦いに行くのだ。ジャンも、ルドルフさんも、部下さんたちも、アルだって。
彼らが行かなくても、彼らの大切な人たちが戦争に巻き込まれるのだ。
美佳は政治とか外交とかそういうのは分からない、ただの一般人だ。
本当に正しいのはこの人たちなのかも知れない。
だが、美佳は嫌だった。
我が儘だと言われようとも、恩知らずと言われようとも、知ったことじゃない。
貴方で良かったと言ってくれた人がいる。
だから、わたしはわたしの思うままにする。
「…協力は、出来ません。」
何を勝手な、話が違うと罵声が飛ぶ。冷たい視線が美佳を射抜く。
何かにすがりたくなるのを耐えてスカートを握りしめた。
「絶対に、」
絞り出すように呟いた刹那、衝撃と熱を感じて美佳は床に倒れた。
派手な音と共に椅子が近くに転がる。
何?
意識するよりも早く、煌めきがそれに集まった。
腕が痛い。熱い。破れた布地から覗く肌に赤い色が垂れていた。
「メトネル卿」
強めの声につられて顔を上げれば、剣を手にしたメトネルが立っていた。
切っ先はやはり赤く濡れている。
…切られた?あれで?
彼は主に向かって怒鳴り散らすように言った。
「かような小娘一人、痛めつけて脅しつけてやれば良いのです!」
「しかし、いきなり切り付けるのは。」
「いや、ご覧なさい。傷口がもう…。」
にわかにざわめいて美佳を見下ろす複数の眼。
腕の痛みは無くなっていた。血が付いていなければ、何が起こったかさえ分からないだろう。
息が詰まる。
いくら怪我をしても治るなら、どれだけ傷付けてもいいじゃないか。
誰かがそう言った気がした。
何で、痛い、怖い。
嫌だ、ここから逃げたい。
お母さん、助けて。お母さん、お父さん。…帰りたい。
帰りたい。
誰かの悲鳴が聞こえた。
ばちんという音がして、胸に刺されたような猛烈な痛みが走る。青い光が視界を満たす。
「あ、あ、あああああ!!!」
叫んでいたのは美佳自身だった。
勝手に声が喉を震わせる。さっき切られた時よりも、いや、比べるべくもない痛みが心臓を襲っているのだ。
光の精霊たちが、癒そうとしているのか目がくらむくらいに集まっている。
でも、駄目だ。
痛い。痛い、痛い、痛い。
意識が飛びそうになるのに、痛みがそれを許さない。
床に倒れ伏したまま、ぐちゃぐちゃの頭の中の、何処か冷静な部分が分析する。
青い光が身体にまとわりついている。
そこに吸い込まれていく精霊たち。
腕、足首、そして胸。青黒い、青黒かった紋様。
「…下手に刺激するなとお伝えしておいたはずですがねぇ。」
疑問の答えを持つ人が、いつの間にか来ていた。
「私ではない。」
「ええ、見れば分かります。」
彼は冷めた声で応えると美佳の前に屈んだ。
後ろにやっていた赤い髪がさらりと肩を流れた。
「拘束に逆らうと、余計に辛いよ。ミカくん。」
チャーチルは場にそぐわないのんびりとした声で言った。
拘束。ああ、これはその為の魔法だったのか。
だから、あんなに執拗に確認していたのだ。
何かの弾みで、解けてしまわないように。
目眩がする。
身体から何かが抜けていく感覚がする。
精霊たちが魔力を消費し過ぎているのかも知れない。
今倒れたら不味い。そう思う。こんな敵だらけの中で、気を失ったらもう助からない気がする。
敵。そう、彼らは敵だ。
味方はいない。いない?
痛い。痛い。
魔力が足らない。精霊を止めなくちゃ。
でもこれが無くならないと逃げられない。
逃げる、逃げたい。何処へ。
ぐるぐる回る思考の中で、不思議そうな顔をする自分がいるのに気付く。
彼女がゆっくりと口を薄く開けていく。
駄目だ、と別の美佳が警告する。それを思ったら、考えたら、壊れてしまう。
でも痛くて苦しくて、だからこそ真っ先に思い浮かぶ台詞が、とうとう零れた。
アル。アル。わたしの騎士。
どうして、助けに来てくれないの…?




