16.5 「金冠の王子」
宵の帳が落ちる頃、窓の中には明かりが灯される。
城内の一室、柔らかく揺らめく魔法の光の元、クルトはただじっと寝台に腰掛けていた。
手には手紙を持っている。
いつも楽しみにしている、大切な手紙だ。
持ち続けることは禁じられている為、常ならば侍従に渡しているところだったが、今回はそれをもう少しだけ、と拒んだ。
そんなことを言うのは初めてだったので驚かれはしたものの、初めて故に僅かだが猶予ができた。
ゆっくりと、もう一度手紙に目を通した。
指の触れている場所はしわが寄っており、長く強く握っていた跡が残されていた。
もう何度も読み返した。諳じることも出来るくらいに、書いてあることは覚えた。
しかし、意味は理解出来なかった。
ただ胸の奥からざわざわと何か不快なものが沸き上がってくる気配がしていた。
これは良くないものだと、それが告げるのだ。
理解したくないだけかも知れない。
もしそうなら、認めたくない気持ちがそうさせているのだろう。
自分には理解出来ない。
だから、解らないことは素直に聞くことにした。
コツ、と窓が叩かれる。
振り向いた先には見慣れた巨駆の男が立っていた。
そっと窓を開いて招き入れる。
大きな身体に似合わず、彼はするりと音も立てずに部屋に滑り込んだ。
「来てくれてありがとう。」
小さく声を出すと、ルドルフは僅かに笑顔を見せた。
本来ならもてなしの一つもしたいところだが、あいにくそんな暇もない。
「これを。」
手紙を渡すと、受け取ったルドルフが眉根を寄せる。顔を上げてクルトを見た。
クルトは黙って頷く。
ルドルフは再び手紙に目を落とした。
静けさの中、ただ彼が読み終わるのを待つ。
「…どういう意味なのかな。」
しばしの沈黙の後、クルトは問い掛けた。
難しい顔をしたルドルフを見据えれば、彼は伏し目がちになりながらも、はっきりと答えた。
「お母上は、王妃様を害するおつもりかも知れません。」
「害する?」
「お怪我をされたり、最悪お命を落とされることもあるかと。」
「…そう。」
ルドルフは嘘をつかない。クルトが子供だからと誤魔化したりもしない。
だから、それは正直な彼の意見なのだろう。
解らないことに対する悩みは消えた。
後はもうひとつ、他に知りたいことがある。
「ルドルフ、お願いがあるんだ。」
「よく来ましたね、クルト。」
笑みを浮かべて彼女は我が子であるクルトを抱き締めた。
クルトもその小さな手を母の背に回す。
その身体からは華やかな香水の匂いがした。
「良い子にしていましたか?」
「はい母様。ちゃんと勉強も剣術も頑張っています。」
「そう。偉いわね。」
こうして触れ合ったのはどのくらいぶりだろう。
母が城にいた頃も、こんな風にすることは滅多に無かった。
いつも父王の側にいた母に対して、自室で勉強ばかりしていた気がする。
兄姉たちともあまり会わせて貰えず、今みたいに話をする機会も与えられなかった。
もしそのままだったら、ここにこうして立っていることも無かっただろうに。
半ば追いやるように母と引き離したのはその兄姉たちだったから。
きっと自分以外の皆は、初めから分かっていたのだ。
名残惜しく思いながら身体を放す。
感じていた温もりがすぐに冷えるのを悲しく思うが、そんな機敏も気付かないように彼の母は笑って言った。
「貴方がここに来られるなんて、ハルトシルトときたらどういう風の吹き回しでしょう。それともマリーガルドが気を効かせでもしたのかしら?」
「あの、母様。」
「何かしら。」
「今日は、母様に聞きたいことがあって来たのです。」
取り出された手紙を見て、上機嫌だったその表情が少しだけ歪められた。
「クルト。手紙は読んだら処分するように言っておいたはずでしょう?」
「ごめんなさい。でも、聞きたいこととはこの手紙のことなんです。」
冷たく刺さる視線に、負けじと声を返す。
この程度で止めていては、肝心の部分が話せない。
ちゃんと自分で言うのだと、クルトが決めたのだ。
クルトはゆっくりと手紙の内容を口にした。
それは王妃の懐妊について、至極簡潔に述べられていた。
貴方は何も心配しなくていい。
私が何とかするから、いつも通りに諸事に励みなさい。
王になるのは貴方です。
要約すればそんなこと。いつもと同じ、文面だ。
だから取り立てて気にすることなく、母は眉を潜めるだけだった。
「それがどうかしたのですか。」
「母様。母様はジア姉様を、害するのですか。」
クルトは手紙を握りしめた。
手の中で紙がくしゃりと潰れるのと、母の表情が更に悪くなったのはほぼ同時だった。
「貴方が気にすることではありません。」
ぴしゃりといい放つ母に、クルトは大きく頭を振る。
「いいえ。母様、ぼくは、ジア姉様が傷つくのは嫌なのです。」
「クルト、何を…。」
「ジア姉様だけじゃないです。生まれてくる兄様と姉様の子供も、居なくなって欲しくないのです。会って抱きしめて、おめでとうと言いたいのです。大きくなったら一緒に遊んであげたいのです。それが出来ないのなら、ぼくは、王様になんてなりたくありません。」
母が居なくなって、ずっと側にいてくれたのは兄姉たちだったのだ。
兄様たちは遊んでくれたり、稽古をしてくれた。寂しい時に手を繋いでいてくれたのは姉様たちだった。
クルトが一人でなかったのは、兄姉が、家族が居たからだ。
彼にとっては、母と同じくらいに大切な人たちなのだ。
母は目を見開いてクルトを見やる。
驚くのも、無理はない。
今まで反抗の一つもしてこなかったのに、最初で恐らく最後になるであろう我が儘が彼女の積年の意思に逆らうことだなどと思いもしないだろう。
その声は震えていた。
悲しみではない、瞳に宿るのは怒りに近い。
「…クルト。」
「はい。」
「誰の差し金ですか?ハルトシルト?それともユスティンですか?」
「いいえ。誰かじゃありません。ぼくがそう思ったのです。」
その目をまっすぐに見据えて、クルトは言った。
ここで退いては意味がないのだ。
本当は怖い。母に意見するなど、考えたことも無かった。
それでも、譲れないものがあるのだ。
小さな身体を伸ばし、足を踏ん張り、震える手を握りしめ堪える。
「貴方はあれらに毒されているのです。…しばらくここに居なさい。いえ、戻る必要などありません。」
「母様。どうしても、聞いては貰えませんか。」
「当然です!そんな馬鹿げたことを…!」
「そうですか。…残念です。」
激昂する母は、果たして息子の胸中に気付くことはなかった。
クルトは心底悲しそうに目を伏せると、軽く手をあげた。
それを合図にして、扉から入ってきた数人の男たちが彼女を取り押さえた。
「な…!?何者ですか!離しなさい!」
暴れかけた彼女は王子の後ろに控えた男を見て、怨嗟の声をこぼす。
「バーガンディ…。ユスティンの子飼いが…!!」
「誤解されておられるようですが、我々は王命で動いております。もっとも今回に関しては、王族の皆様方の総意でありますが。」
「王族?私を誰だと思っているの!偉大なる英雄王の…。」
「先王の奥方であらせられますな。しかしながらご存知の通り、すでに王位を譲られた王の地位は現王のそれに劣ります。無論貴女様も。」
ルドルフは淡々と告げる。
「王妃殿下を害そうと画策なされた件で、貴女様を捕縛致します。」
「っ…クル、ト!貴方は、ああ、お前…!」
黙ったままの王子を庇うように動くと、先王妃の視線は自然と我が子に向いた。
苦しそうに顔を歪める息子を睨み付ける。
「お前など…、生まなければ良かった…!!」
喚き散らしながら連れられていく母の背を見送りながら、クルトはただじっと佇んでいた。
馬車を降りた先には、クルトの家族が待っていた。
ハルトシルトにフリージア、離れた場所には驚くことにユスティンまで立っていた。
もっとも彼はクルトを見るなり戻っていっていまったが。
きょとんとする彼は駆けてきたマリーガルドに抱き締められた。
慣れ親しんだ日溜まりみたいな香りと暖かさに、ひどく安心する。
その胸の中で、ようやくクルトは子供のように泣いた。
…母様。ごめんなさい。
でも、ぼくはこの優しさを失いたくなかった。
母様よりも、今まで積み上げてきた生き方全部よりも、大事だと思ってしまった。
母を見捨てて、家族を守ろうとした。
それは上手く出来たのだろうか。
ぎゅうと義姉にしがみついてぼろぼろと涙をこぼしながら、これからどうしようと考える。
急に空っぽになった未来は真っ暗だ。王様になれないぼくは、どうしたらいいんだろう。
そう考えて、ふいに魔女の言った言葉を思い出す。
そういえばミカさんは、ぼくは何にでもなれると言ったのだった。
何にでもなれるなら、家族を守れる人になりたい。
この暖かさを守れるようになりたい。
クルトは涙したまま、目を開いた。
空っぽの未来は真っ暗で、だけど少なくとも寒くはない。




