11
温室の中は緑の匂いが立ちこめていた。
外気が寒いせいで、暑さは無く温かく感じられる。
ガラスの向こうから射し込む柔らかな光に照らされて、地球でも良く見かけるような花から変わり種の低木まで、多種多様な色とりどりの花たちが競いあって咲いていた。
中央には藤棚があって複雑に絡み合った枝が魔法使いの杖みたいにうねっている。
その影になるようにテーブルセットが置いてあり、ここでお茶をしたら素敵だろうなあ、と想像する。
薔薇のアーチの下、先導して中に入った王子がくるりと振り返る。
「どうですか?ミカさん!」
「はい。すごく綺麗ですね。」
あどけない笑顔を見せるクルトに美佳は微笑む。
この温室は王子の母親の所用物で、今は彼が持ち主になっているそうだ。
どの植物も手入れが行き届いており、大切にされているのだろう雰囲気が伝わってくる。
「母様はここがお気に入りだったので、いつ戻られても良いように庭師に手入れをさせているんです。僕も時々手伝ってるんですよ。」
えへんと胸をはるクルト。
可愛いなあ、と美佳はにこにこしつつ、元の主であるらしい王子の母親を思った。
王子の側にいるのを見たことは無い。どこかで静養でもしているとか?
戻ると言っているところから亡くなったわけではなさそうではある。
失言を吐く前に聞いておいた方がいいだろうか。
美佳は胸中で恐る恐る、ただし顔には出ないようになるべく軽く問い掛けた。
「お母様は、今はどちらに?」
「母様はハル兄様が王になられたので、父様と一緒に保養地にいらっしゃるんです。」
なるほど、と納得した。要は定年後のバカンスというやつだ。
安心すると同時に、両親共にまだ幼い王子を残していったことにちょっとムッとする。
良く物語でもある話だが乳母が親代わりだったりするのかも知れないが、王族とはそういうものだと片付けるのは何だか寂しいと美佳は思う。
「…寂しくはないですか?」
「少しそう思う時もあるけど、兄様や姉様がいるから我慢出来ます。」
思わず口をついた言葉にも、クルトは笑みを崩すことは無かった。
「それに、僕が王になれば、母様は帰ってきて下さるそうです。」
にこにことしながら、そう続ける。
「王様、に?」
「はい。ハル兄様とジア義姉様には御子がいらっしゃらないので、僕が王になれるかも知れないって。だから、頑張って勉強するのですよ、と母様は言ってました。」
「そう、なんですか…。」
美佳は俯き気味に呟いた。
それは、つまり、いわゆる継承権を巡る込み入った事情というやつなのだろう。
やはりこういうのは付き物と言ってしまえばそれまでだが、それをこんな小さな子供に堂々と言わせる親というのはどうなのだ。
またも少し腹が立つ。立つのだが、結局部外者である自分に何か言う権利も無いのは理解していた。
それにここで王子に何か言うのも間違っている。彼はただ、純粋に母を信じているだけだ。
この温室のようにいつもちゃんとしておいて、いつか帰って来た時に褒めて貰えるように。
その時が来るかなんて分からない。だが、きっと彼は疑わないのだろう。
だからせめて、彼がおそらく望むように、優しく優しく微笑んだ。
「王子は、とても立派ですね。」
「えへへ。ありがとうございます。僕、立派な王様になれますか?」
「…ええ。王子は沢山頑張っていますから、王様にだって何にだって、なれますよ。」
喜ぶクルトに美佳は頷くことしか出来なかった。
それでも王子はその言葉にただ無邪気に笑っていた。
「アル。さっきの話なんだけど。本当になれるのかな。」
帰り道、何となくいつもより大きめに聞こえる足音を自覚しながら美佳は歩く速度を落とし、後ろに付き従う彼女の騎士に並んだ。
小さめに、濁すように問いかける。
「可能性はあります。」
アルフォートは同じく囁いた。
「現在この国の王族は5名おられます。王と王妃、ユスティン王弟殿下にマリーガルド姫、そしてクルト王子です。王弟殿下は王と年が近くていらっしゃいますので、このまま御世継ぎが生まれなければ、あるいは。」
年老いた王が成長したクルト王子に、王位を譲るかも知れないと。
何にしろ、愉快ではない話ではある。
本当に子供に言って聞かせるような事ではない。例え可能性があってもだ。
王子には悪いがお母さんがここに居なくて良かったかも知れない。
目の前にいたら思わずひっぱたいてしまいそうだ。
王様はこの話を知っているのだろうか。
数少ない謁見でも分かる、柔和な顔立ちの人だった。
出来れば心根もその印象のままであって欲しいが。
あと、王弟殿下。改めて紹介されたことは無いが、謁見の際には王妃の他にも数名側に控えていた。
いまいち良く覚えていないのだが、あの中にいたのだろうか。
「その、王弟殿下ってお会いしたことあった?」
「いえ…。」
そう言ってアルフォートを見やる。
彼は前を向いたまま、口を開こうとして、閉じた。
歩みが止まる。
廊下の向こうから誰か来ていた。
正面に一人、その後ろに二人。
「ユスティン様…。」
アルフォートの呟きが耳に入る。
あるいは、入れるために呟いたのか。そのどちらでも良い。
美佳は、ただ立ち尽くして彼を迎えた。
王弟であり、クルトやマリーガルドとも一応の血縁であるはずのその人は、その誰とも似ていなかった。
長く伸ばした灰銀の髪が歩く度に光を跳ね返す。
つり上がった眉と目尻、アイスブルーの瞳。青を基調にした服装が一層寒々しさを際立たせている。
ジャンが涼しげな雰囲気を感じさせる容姿ならば、こちらは冬の嵐だった。
纏う空気が、吹雪のようにただひたすらに痛い。
睨めつける視線が氷のように突き刺さる。
「魔女殿か。」
ひんやりとした声が薄い唇から漏れる。
意識せず身体が震えた。
「あ、お、王弟殿下。」
「良い。楽になされよ。そなたは大切な客人なのだ。多少の無礼は気にはせぬ。」
「あり、がとうございます。」
にこりともせずにそう言われ、何とかお礼を絞り出した。
でも、無理です。
頭の中でアラートが明滅している。この人は駄目だと全身が拒否している。
怖い。
何もされていないのに何故こんなに怯えるのかさっぱり分からない。が、駄目なものは駄目なのだ。
細められてさらに酷薄さを増した目が怖い。
「かねてより話をしたいと思っていたのだ。今時間はおありかな。」
「え、えと。」
どうしよう。
蛇に睨まれた蛙みたいに硬直する美佳の肩にアルフォートがそっと手を置いた。
「殿下、魔女様は少々お疲れでして、出来ましたらまたの機会にお願いしたく存じます。」
置かれた場所から伝わる暖かさに小さく息を吐く。
安堵が漏れでていないかが心配だった。
ユスティンはアルフォートを睥睨するように見た。
「ふむ。ならば、パストラル。そなたが少々付き合え。」
え。
目を見開く美佳。おそらく同じような顔をしたであろうアルフォートは固い声を出した。
「…ミカ様をお部屋にお送りしてからでもよろしいでしょうか。」
「それには及ばぬ。メトネル卿。代わりに魔女殿をお送り差し上げてくれ。」
「は。承知致しました。」
言われてユスティンの右隣に控えていた男性が前に出る。
「しかし…。」
「アル。私は大丈夫。」
反論しようとしたアルフォートを止める。
庇ってくれたのは嬉しいが、相手は王弟殿下なのだ。あまり逆らって不敬だとか言われたら困る。
大丈夫。大丈夫。暗示のように言い聞かせる。
なるべく毅然とした態度で、心の中で可憐な姫君を思い出す。マリーガルドがしたように、スカートの端を軽く摘まみ、腰をおった。
「お気遣いありがとうございます、王弟殿下。また近い内に、お話する機会を頂ければと思います。」
「うむ。では卿、後は任せる。」
そう言ってユスティンは踵を返す。アルフォートが心配そうにちらりとこちらを見たので、軽く微笑んだ。
「では魔女殿、参りましょうか。」
メトネルと呼ばれていた男性が隣に立った。
この人はそんなに怖くない、から大丈夫。
促されるまま、美佳は歩みを進めた。
大丈夫じゃなかった。
「魔女殿はこちらの生活には馴れましたかな?何か不便などありましたら是非我々に…。」
「うちの娘などは姫君とも懇意にさせて頂いておりまして、魔女殿とも話が合うやも知れませんな。よろしければ…。」
「花がお好きだそうで。私は外国の商人とも取引しておりましてな、魔女殿のお気に召すような珍しい…。」
流れる言葉が耳を通り過ぎていく。
美佳は悩んだ。ほとんど頭に入ってこないのだ。
メトネルはずっと口を開いたままだ。こちらが相づちをうつのも苦労するくらいに捲し立ててくる。
というか聞いているかどうかなど関係無いのではと思うくらい早い。
ついでにユスティンとはまた違う感じの嫌悪を抱く視線を時々向けてくるのだ。
言うなればあれだ。こいつ自分の役に立つかしら、みたいな。
王弟殿下は静謐を好みそうに見えたのだが。
こういう人を側に置くのは嫌じゃないのかな。
ともあれユスティンの前にいたのとは別な意味で辛い。
早く部屋に戻りたいのだが、わざとなのか歩くのが遅い。
道程が遥か遠くに感じられ、呻きそうになる美佳にふいに声がかけられた。
「おお、ミカ殿ではありませんか。」
「ルドルフさん。」
振り向けば、青髪の隊長さんがそこにいた。
思わず笑顔が溢れる。語尾が弾まなかったのを褒めて貰いたい。
笑い返してくるルドルフは美佳の隣にいるメトネルを見た。
「珍しいですな。パストラルがお側におらぬとは。」
「アルは、その、王弟殿下とお話するそうで。代わりにこの方が部屋まで送って下さってるんです。」
「なるほど。お初にお目にかかりますかな?ルドルフ・バーガンディと申します。」
「メトネルです。バーガンディ殿の武勇は度々聞き及んでおりますぞ。」
にこやかに挨拶を交わす二人。
美佳は一時的にせよメトネルから解放されてほっとする。
出来ればこのままさようならしたいところであるが、何とかならないものか。
するとルドルフがぽん、と手を叩いた。
「そう言えばミカ殿。お伝えしたい旨があったのですが、少しよろしいですかな。」
ルドルフさん…!ナイスタイミングです!
美佳は胸中で諸手を上げて喜んだが、メトネルが口を挟んでくる。
「バーガンディ殿、魔女殿はお加減がよろしくないそうなのだ。王弟殿下のお誘いもそれでお断りになられた故に、早めにお部屋にお送りしたいのだよ。」
よ、余計なことを…。
うぐぐ、と美佳が死んだ魚のような目をしているとルドルフは鷹揚に頷いた。
「ふむ、それはいけませんな。ミカ殿、少々失礼。致します。」
「え、わ、わっ。」
言うが早いか、ルドルフは美佳に近付くと彼女を横抱きにした。
「ここからは某がお連れいたそうかと。いかがですかな、ミカ殿。」
「あ、は、はいお願いしますっ。」
全力で壊れたおもちゃみたいに首を縦に振りまくる。
もう何でも良いからここから連れ出して…!
「メトネル卿もよろしいですかな?急いだが良いのであれば、この方が早いかと。」
「い、いやしかし王弟殿下の命は…。」
「若様には某の名をお出し下され。バーガンディが勝手にお連れしたと、お伝えすればよろしい。」
「う、むむ…。」
「では失礼。」
「あ、ありがとうございました。メトネル卿。」
言うだけ言って背を向けるルドルフ。美佳を抱えて早めに歩くのだが、その巨躯はほとんど揺れがない。
この体勢はなかなかに恥ずかしいのだが、とりあえず、助かった。
「あの、ルドルフさん。」
「ミカ殿、よろしければ少し散歩をしませんか。」
「散歩?」
「ええ。きっとお気に召すかと思います。」
お礼を言おうとした美佳に、ルドルフはいたずらっぽく片目を瞑った。
「うわー…!」
美佳は歓声を上げた。
二人は王城、の屋根の上にいた。
ルドルフは美佳を抱え上げたまま、自室のバルコニーを経由してひょいひょいと壁やら屋根を駆けあがったのだった。
大した取っ掛かりもない外壁をあっという間に登って行ったのはさすがに驚いたが。
彼が掛けてくれた上着を掴み、念のためにと腰を抱かれている。
普段なら恥ずか死しそうな状態ではあるが、それよりもまわりに気を取られていた。
視界いっぱいに城と街並みが広がる。どこまでも澄んだ青空に溶け込むように遠く山々が見えた。
ミニチュアみたいな街の中、人の流れも僅かに見てとれる。
強い風がかすかに喧騒を耳に届かせていた。
「お気に召されましたかな。」
「はい!すごく!」
笑顔で応えて、抱かれているので顔が近いことに気付いた。少し照れる。
「あの、さっきはありがとうございました。困ってたので、助かりました。」
「いやいや。余計なことでなくて良かった。お具合は大丈夫ですかな?」
「あ、あれはアルがわたしを庇って、とっさに嘘を、というか…。なので全然元気です。」
「そうですか。」
ぐ、と拳を作ってアピールする。
ルドルフは優しい笑みを見せた。
「前にお会いした時、沈んでいらっしゃったようでしたので、気晴らしになればと思いましてな。お元気ならば良かった。」
「…ありがとうございます。」
「いやいや。この程度であればいくらでも。」
心配してくれてたんだ。
部下の人たちもだけど、良い人だなあ、と美佳は嬉しくなる。
遠い異国の地にあって、わたしの周りは良い人たちばっかりだ。
そう思うとまた、何か出来ないかな、と考える。
元気だと言った矢先に沈みそうになって、首を降って思考を飛ばした。
駄目だ。何か楽しいことを考えよう。えーと。
「街の方は賑やかですね。いつもこうなんですか?」
「そうですな。祭りが近いせいもあるかも知れませんが。」
「お祭りですか。良いですね、楽しそうで。」
お祭りと言われて日本の夏祭りを思い浮かべる。
どんなのだろう。夜店とか出るのかな。あと花火とか。
さすがに見には行けないだろうけど。
「魔女殿に関係する祭りです。もし見たければ、パストラルに話してみてはどうですかな。」
「魔女に?」
ルドルフは「はい。」と頷いた。
「魔女殿の来訪を祝う祭りで、『サザネリアの夜』と言います。」