表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

テレキャスターを持った男

作者: すずくれ

 別れよう。

 本来ならばもっと遠回りな言葉ではあったが、つまりはそう言う事だった。

 ある平日の日の夜明け。夕闇が白んできているのを認識しながら、彼は肺に詰め込んでいた紫煙を吐き出す。

 電話越しに聞こえてくる彼女の息遣いもこれで最後になるのかと思うと、彼はこの状況が目覚めの前に見る悪夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。

 この仲がこじれ始めたのは付き合い始めて二年過ぎた頃だった。

 次第に顔を合わせる機会が減り、最近では彼女の方が避けている様にしか思えなかった。二人でどこかへ出かける事も無くなり、挙げ句の果てには男友達と遊び歩く彼女。

 そう長くは保たないとは思っていた。だが、彼女を手放したくは無かった。しかし、幾度となく繰り返されてきた話し合いという名の、恋人同士の今後の方針の語り合いの努力も虚しく、睡眠時間を削った故の心身の疲労は今後も恋人の関係を続けるに値しない程に低下させてしまった。

 遠回しな彼女の言葉を彼がストレートに表現し、双方合意の破局だ。

 通話切断を告げる電子音が彼の携帯電話から鳴り響き、音の無い部屋の空気を振動させた。

 彼はテーブルの上に広がっていた楽譜に目を落とす。三日後に控えた、小さなライブハウスで催されるイベント用に彼が書き下ろしたモノだ。

 ――プロポーズするつもりだった。

 その前座として間接的に彼女に思いを告げようと企画していたのだが、それ以前に不穏な状況であったので、彼としてもライブの前に白黒付ける事は必要だった。後悔が無いわけでは無い。出来る事なら手放したくは無かった。しかし、このままズルズルと関係を続けていったとしても、無意味よりもマイナスしかなかっただろう。そんな風に納得するしか彼には手段が無かった。

「どうすっかなぁ……」

 本番は三日後。もちろんテーブルに広がっている曲も練習しているし、セットリストの中に組み込まれている。だが、電話が切れた瞬間にこの曲を人前で披露する意義は夕闇と共にどこかへ消えていってしまった。

 ルーズリーフ式になっている五線譜を裏返し、彼はおもむろに書き始めた。五線譜は音楽を奏でるのに必要な情報を書き込んでいくのに適している。よっぽどの事が無い限り、それは音符や音楽記号が書き込まれるべきなのだが、先人たちが開発した五線を無視して、彼は大きく文字を書き込んでいく。力強く。時折、芯を折りながら。

 朝焼けは、ますます輝きを増していく。



 彼が目覚めた時は、陽はすでに降り始めた頃だった。いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていた彼は、寝ぼけ眼をこすりながら時刻を確認する。時計代わりになっている携帯電話のディスプレイには新着のメールや電話を告げる表示は無く、ただただ今の時刻を表示するのみだ。

 車の鍵を取って、身支度もそこそこに車に乗り込む。家に居たくなかった。静かな空間は、彼女と過ごした日々を思い出す猶予を与えてしまうからだ。どこか人混みに紛れて、自己の存在をぼやけさせようと彼は思った。時が心を癒してくれる、とは昔から言い伝えられているものの、じっとそのまま傷が消えるのを待ってられなかったのだ。

 車を止めた場所は、駅周辺のコインパーキングだった。三日後に控えたライブの前日……つまり明後日に軽くバンドで合わせるので、スタジオの予約の為に来たのだ。別に電話でも予約出来るのだが、気を紛らわすのも兼ねて彼はここまで出てきた。平日の柔らかな光が包む夕暮れの時間、駅周辺に蔓延る独特の人混みの匂いや雑踏、人口密度が高まり人一人の存在感が相対的に薄くなっていく雰囲気を、五感いっぱいに感じながら歩き出す。

 スタジオの予約は滞りなく済んだ。顔なじみとなった店員と少し世間話をして、店を出ようとした時だ。彼の歩みが止まる。

「ん? よっちゃん、どしたい?」

 よっちゃんと呼ばれた彼――田村良和(たむらよしかず)は、店員の言葉が耳に入っていない様子で、特にリアクションをする訳でもなくじっと静止したままだ。

 良和はギターを見ていた。ナチュラルボディのテレキャスター。中古品を表す『USED』の札が示すように、新品のギターにはあるまじき傷や錆があった。所々黒ずんだ指板、少し錆び付いているブリッジ、その佇まいはビンテージの風格を感じられる。この店には目の前の様な中古のギターは何本も置かれているし、良和自身もそういったギターを幾度となく目にしてきたので、珍しいという感情はない。なのだが、良和は目を奪われた。ギターから漂う息遣い、生物の生々しさを発するこのギターから、彼は目を離せなかった。

「やっさん、これ、新商品?」

 良和は先ほどの問いかけが無かったかの様に、店員である安田(やすだ)に話しかける。

「そうだよ。昨日入った。なんなら買ってく?」

 安田は言葉を無視された事を特に気にかける訳でもなく良和に応える。気軽に買ってく? と言うが、値札には六桁の数字が書かれており、エフェクターやピック、弦ならまだしも、楽器はそんな気軽に買えるモノではない。特に、このようにハイエンド故に価値が高いモノなら尚更だ。

「こいつをって訳じゃないけど、たまにはテレキャスみたいなシングルコイルも良いかなってさ」

「あー……良いかもしれんね。レスポールしか持ってないんだったら、こういうの持ってれば幅も広がるしね」

 ギターの音色を決めるモノの一つに、ピックアップというモノがある。これは大雑把に二種類あり、それぞれ得意とする音色を持っている。もっとも、ピックアップが同じだとしても、ボディの形状、弦のテンションその他色々な要素によって音色は変っていくのだが、大体の方向性を決めているのがこのピックアップと言ってもいいだろう。

 良和の所有しているレスポールと、目の前に鎮座しているテレキャスターに搭載されているピックアップは異なる。パワーがあり、粘りけのあるミッドレンジの音を奏でるレスポール。煌びやかな高音を得意とするテレキャスター。今までテレキャスターの音に興味を持たなかった良和が、今この場で目を奪われ、テレキャスターに搭載されているシングルコイルピックアップの音色に思いを馳せたのは、今朝の事が関係していた。

「まぁ、また今度考えるわー。そんじゃ土曜日よろしく」

 安田のおうよ、という返事を背に彼は店を出た。

 ギターの品質を守る為に少し暑いくらいの湿度、室温に管理されていた店の外は、温度差も相まって身震いしてしまう程の寒さだった。雲一つない秋の夕暮れ。冷えた空気によって一瞬にして体温が奪われた身体を、西に沈み始めた陽が暖める。

 くすぐったいような温度の変化。良和はそんな秋が好きだった。暑すぎず、寒すぎず、こんな晴れた秋の日は、普段は車で通りすぎてしまう様な所を歩いてみたくなってしまう。今日はまさにそんな散歩日和な日。だからこそ、駅近辺のコインパーキングにわざわざ車を置いて、歩くという移動手段を積極的に取り入れたのだ。そちらの方が気分が晴れるというのもある。

 良和は駅の入り口近くに来ていた。人混みで自分の存在を薄める為だ。車を買ってから電車を使わなくなったので、駅に来るのは久しぶりの事だった。この地域では一番大きな駅。様々な路線が集中しているこの地域唯一の駅だ。ここの周辺ではたまにギターを片手に路上ライブをしている人がいる。人通りも多く、また、そういったパフォーマンスの許可を表す看板、場所があるからだ。

 大体は週末に行われている事が多いのだが、どうやら平日のこの日に路上ライブをしている酔狂な暇人がいるらしい。駅へと歩みを進めていく毎に、周辺にそびえるビルのコンクリートに反響している女性の声が大きくなってくる。肉声では無く、スピーカーで増幅された女性の声。更にはエレキギターの音まで聞こえてくる。

 周囲に響き渡っている音楽の発信源にたどり着いた良和は驚愕する。丁度曲が終わったらしく、歌声は止んでいた。歌声の主は見えないものの、大勢の人が群がっている場所こそが、発信源だろうと良和は考える。それでもこの集客率は異常だ。長年利用していたこの駅で、こんなにも人が群がっている光景は見た事がなかった。

「この夕暮れの時間。地平線に沈んで行く朱色に染まる太陽は、また昇る」

 先ほどの歌声と思わしき女性の声が響く。マイクから拾われた声がスピーカーから吐き出される。

 良和の立つ場所からは女性の姿はあまり良く見えない。少し名の知れたミュージシャンか何かだろうか? と彼は思案するものの、リスナーの頭と頭の隙間からかろうじて見えたステージには、女性についての情報を知り得る情報が書かれたモノは見えない。路上ライブに不釣り合いな、ジャズコーラスと言われるギターアンプがとにかく異質だった。

 手軽に、気軽にパフォーマンスが出来るのが路上ライブの良い所だと思っていた良和にとっては、これは何かのイベントであるとしか思えなかった。なのだが、ステージにはイベントについての看板すらない。普通に路上ライブしているだけ。

 ――!

 鋭いギターの音が響く。ステージに居るのはたった一人の女性。真っ黒のテレキャスターを肩にかけ、コードストロークを行いながら歌を唄う。

 ――バイバイ シェリー

 ――バイバイ ケリー

 ――静かに揺れる 手の平は僕のもの

 先ほどから聞こえていた歌声とは打って変わって、がなり立てる様な歌声だった。ギターの音色は少しだけ歪んだクランチと呼ばれるサウンド。エフェクターによって色づけされ、水色の肌寒さが連想される音色が良和の身体に染み渡る。聞こえてくる歌詞は別れを連想させる。人と人の間に漂わせ、ぼやけさせていた自己という境界線が、まっすぐに伸びてきたギターの音と歌声によって、切り抜かれていく。

 先客だったリスナーが次々とその場を離れていく。その場に縫い付けていた糸が切れた気球の様に、散り散りに離れていく。しかし良和はその場に踏みとどまった。彼女の弾くギターに目が奪われていたのだ。テレキャスター、彼女の弾くギターの種類だ。良和が楽器屋で目を奪われたギターと同じ形。色合いこそ違えど、そのテレキャスターたらしめるシングルカッタウェイのボディは、現代のギターと比べると、演奏性や機能性に欠けているかもしれない。低コストで量産が出来るようにと開発されたテレキャスター。無駄な装飾を省き、必要最低限の要素で構成されたエレキギター。しかし、その朴訥さに魅力を感じた人が多くいるからこそ、そのままのフォルムで現代まで受け継がれて来た。良和もまた、その先人たちが見出した魅力に気がついた一人である。

 ふと、良和の脳裏に先ほどまで見ていた中古のテレキャスターが浮かんだ。使い古された、ボロボロのテレキャスター。

 ピックを持ち、力強く弦をかき鳴らしていくテレキャスターの女。一人、また一人とその場を後にしていくリスナーだった者たちを気にするわけでもなく、ただひたすらに自分の世界を広げていく。真っ黒のテレキャスター。その漆黒のボディとは全く異なる、透明感の感じられる音色を吐き出していく。自分の感情を押し殺しているかのようにがなり立てた歌声。そのアンバランスさに切なさが染み渡る。

 良和も、先ほどまで彼女の歌に酔いしれていたリスナーと同じくその場を後にしていた。あの寂しさの入り混じった歌は、彼には鋭すぎるものだった。

 先ほどのテレキャスターの女のステージを離れたものの、良和は車に向かうわけでもなく歩いてきた道をそっくりそのまま戻っていた。彼の視線を奪ったテレキャスターの置かれたスタジオに併設された楽器屋への道を、少し足早に戻っていく。彼の脳裏にはあのテレキャスターの女。あの哀愁の感じる演奏に惹かれたのだ。彼女と同じテレキャスターを持って、あのサウンドを奏でる……今まで愛用してきたレスポールを置き、あのテレキャスターを手にする。変化が欲しかったのかも知れない、と良和は述懐する。

 少し間を置いたものの、再び舞い戻ってきた常連客の姿を見て安田は少し驚いた。更に、その常連客である良和から入店早々テレキャスターの試奏を希望され、田村は普段と違う良和の様子を察した。まるでギターを始める為に楽器屋に訪れた高校生の様なそんな雰囲気だった。

「アンプは何がいい?」

 試奏の希望されたテレキャスターのチューニングをしながら、安田は良和に聞く。

 聞かれて良和は考える。このまま使い慣れたマーシャルのアンプに繋げても良い。しかし折角の機会なのだ、アンプも自分で揃えてしまうのも良いかもしれない。ガラスが割れたような、鈴が鳴るような、そんな音色を奏でるのに相応しいアンプは何があるのだろうか。先ほどの女性はジャズコーラスというアンプを使っていたが、あれはエフェクターを駆使したからこその音色だ。良和もジャズコーラスを使用した事があるが、今すぐにあの様な音色を奏でられる自信がなかった。その旨を安田に伝える。

「うーん……」

 チューニングを終えたギターを抱えながら、安田は思案する。

「これは俺の趣味になるんだけど、VOXのアンプなんてどう?」

 どう? と言われても、良和にはそのアンプの音色をイメージする事が出来ない。

「モノは試しだな。アンプも欲しいから、真空管の良いヤツでお願い」

「りょーかい。良い物あるよ」

 あえて胡散臭い物言いをする安田に先導され、楽器屋の二階へ上っていく良和。この二階はドラムセット、大出力のアンプやビンテージのギターが置かれている。安田の向かっていく先には、これまた少し年季の入ったアンプが置かれているエリアだ。家庭用として売られているアンプよりも、値札に書かれている数字の桁が一つ多いモノばかりだ。

 安田は目当てのアンプの前に立つとアンプの電源を入れた。真空管が温まるまでの時間を利用して、良和にこのアンプについて説明をしていく。

「これはVOXのAC30っていうアンプだ。聞いた事ない? ビートルズが使って有名になった……っていう垂れ込みで有名なアンプなんだけど、さっきよっちゃんが言っていた様なクランチの音を出すんなら、こういうコンボアンプが一番いいんじゃないかな」

 今まではオーバードライブやディストーションといった、クランチよりも深い歪みのサウンドを好みとしていた良和にとって、クリーンやクランチといった浅い歪みの音作りには疎い。そのまま安田の説明を受け止めながら、アンプのセッティングをしていく姿をただ見つめるだけだった。

 テレキャスターをAC30に繋げて、弦を引っかく。マーシャルでもジャズコーラスでもない、そのアンプ特有の音色が楽器屋に大音量で響き渡る。電源の入っているAC30は、これまた年季を感じさせる概観だった。ところどころ色落ちしたボディ。少し時代を感じる古臭いコントラスト。サウンドチェックとして安田の奏でる音も、モダンな音とは程遠い。

「はいよ」

 サウンドチェックを終えた安田が、良和にテレキャスターを手渡す。近くにあった椅子に腰を下ろし、初めてギターに触れたその時の様な高揚感と共に、彼はコードを一度奏でる。伸びやかな高音、粘り気のある中音、押さえ気味の低音、六本あるギターの弦がそれぞれの周波帯域を構成しながらコードを響かせる。レスポールよりも弦のテンションの高いテレキャスター。その弦の反発力に少し違和感を感じるものの、そのテンション故のブライトな音色。腰に響く音というよりも、鼻の奥に響く音だった。

 気に入った。良和は心の中で零す。

 たった一度のコードの一振りで人を黙らせる事が出来そうな、そんな音だった。そんなに歪みは深くない。乾いた、浅い歪みのクランチサウンド。今までギタリストとして触れてきたギター、アンプ、サウンド、全てが異なる今の良和。今までの自分を捨て、新しい何かに生まれ変われるような、そんな気配が良和を満たしていく。

 今朝、五線譜に書きなぐった歌詞を彩るのに相応しいコードの進行が良和の頭に浮かんできた。メジャーセブンスコードをアルペジオで静かに、今の喪失感と物寂しさを情緒的に奏でていく。時にはオクターブの中で音階を下げたり上げたりして、コードを循環させていく。焦燥感を掻き立てるセブンスコードの循環を開放させるかの様に、先ほどのコードを内包するスケールの一番低いトニックと呼ばれるコードを一気にかき鳴らす事によって、その焦燥感を開放させていく。そして走り始める良和の世界。明るい雰囲気を醸し出すメジャースケールのコードの進行。時折織り込まれる、暗さを演出するマイナーコード、焦燥感を引き起こすセブンスコード。疾走していく彼の世界。AC30の吐き出すサウンドは、春先の少し肌寒い風が吹き抜けるような直線性で通り過ぎていく。

 ある程度のコード進行が展開してきたところでお決まりのギターソロに入る、はずだったのだが、この歪みの浅いサウンドでは彼のインスピレーションは湧いてくることは無かった。推進力を失って霧散していく世界。エフェクターを介さない、アンプ直といわれるセッティングではまだ良和の手に余る。家にあるエフェクターを使用して補強して行けばいい、そう良和は結論付ける。

 コードストロークについては問題ない。このテレキャスターは良いギターだ。次はハイフレットの演奏性だ。明後日のライブで披露する楽曲の中から、少しフレーズを拝借する。弾いていく中で、少しハイフレットのピッチのズレがあるようだが仕方ない。このテレキャスターのブリッジでは完全にチューニングを合わせる事は出来ない。これがこのテレキャスターの宿命であり、この不器用さこそが魅力の一つである。

 レスポールの甘い音色とは違う、少し硬い音色。今まで使っていた、ブリッジ寄りに配置されているリアピックアップから、ネック寄りに付いているフロントピックアップにセレクターを切り替える。先ほどまでの硬い音から、少し音が膨らむ。低音が全面に出てきた太い音がAC30から吐き出される。レスポールの甘さとは違う、別の甘さ。今まで良和が触れた事のなかったサウンドが広がっていく。

 駅前で聞いた、テレキャスターとジャズコーラスの音色。そのサウンドに触れた事によって浮かび上がってきたイメージと重なっていく。この繊細な音色。ハイフレットの演奏性、ギターのコンディション共に良い。本来ならばもっと様々なギターやアンプを試すべきなのだが、

「……決まった」

 ギターの演奏を止め、ひと呼吸置いた末の良和の言葉。それまで良和の演奏を黙って見守っていた安田が口を開く、

「ホントに? 他のアンプはいいの?」

「いいや。これ頂戴」

 他の選択肢を探す事はしなかった。ひと目惚れならぬひと聞き惚れだった。もっとも、このテレキャスターに関してはひと目惚れに近いが。

 テレキャスターを良和から受け取った安田は、ギターとアンプを梱包する作業を始める。中古のテレキャスターに中古のAC30。以前の持ち主が手放した機材。手放す事になった事情は知るよしもないし、知るつもりもない。

「支払いはどうする? ショッピングローン?」

「いや、クレジットカードで。一括でいいや」

 予算はある。今朝に破局を迎えた彼女へのプロポーズ、そこから派生していく結婚式や旅行諸々の予算として貯めてきたものだ。今となってはただの貯蓄。今ここで大きく使ってしまっても問題ない。仕事を増やし、節制にも努めて貯め、彼女との思い出を作っていくハズのお金が、自分の為の無機質なモノに変る、それも一瞬で。

「はは……」

 人知れず、自嘲気味に乾いた笑いを漏らす良和。今まで何となくぼやけていた破局という事実が、この機材の購入によってがジワジワと良和を浸食していく。もう後戻りは出来ない。奇跡が起こってヨリを戻せたとしても、もう以前のままのから再開という訳にはいかない。未練がないわけではない。それでも、良和は前に向かって歩き始めたかった。後ろを見てジッと喪失感に打ちひしがれていたくはなかった。今までの自分を変えたかった。そのための、テレキャスターであり、AC30だ。

 問題無くクレジットカードでの決済が済み、良和は晴れてテレキャスターのオーナーとなった。


 †


「あれ? ギター変えたん? っていうかアンプまでどしたん?」

 ライブ前日のスタジオ練習の日。新たなギターとアンプの音を作る為、良和は早めにスタジオに入っていた。練習の時間が近づいて来たので、ギターを壁に取り付けられているスタンドに掛けてメンバーを待っていると、ボーカル担当の佐々木孝(ささきたかし)が最初にやって来た。

「買った。気分転換しようと思ってさ」

 テレキャスターを購入したその日の晩、良和はメンバーにメールを送った。本来ならば良和たちの出番の最後に演奏する予定だった曲が演奏出来なくなり、その代替の曲のデモを添付し、良和とその恋人と別れた事を伝えた。

「そっか……でもなんか一気に貫禄が出たね。ギターとアンプ」

 なのでどうして気分転換の必要があったのか、なんて事は佐々木は訪ねない、事情を知っているから。

「曲はどう? 間に合いそう?」

「んー。カンペ貼っておけば大丈夫かなー。他のみんなはどうなの?」

「曲自体は単純だから大丈夫……だと思う」

「そっかー」

 心なしか普段よりも会話は素っ気なかった。元々口数は多くない良和と佐々木ではあるが、会話が途切れると、良和はテレキャスターのチューニングを始め、佐々木もマイクのセッティングを始めた。

 沈黙がスタジオを包む。スタジオの入り口からまっすぐの角にそびえるドラムセットの後ろのエアコンが動く音、入り口から右手に置かれている良和のAC30の駆動音がするだけである。

「おいっすー! おおう! AC30! っていうかギターもなんか変ってるー!」

 スタジオを包んでいた沈黙を破ったのはドラム担当の高木壮(たかぎそう)

「なんかナンバーガールみたいになったねー!」

 このバンドのムードメーカであり、一番のおしゃべりである高木。高木も良和からメールが送られてきているので、どうしてライブ前に機材を買ったのか、といった事は聞いてこない。良和自身もライブ前に負った傷の存在を認識せずに済み、二人のその気遣いがありがたかった。

「っていうかさー! 新曲なんだけど、アレって好きに叩いちゃっていいの?」

「うん、いいよ」

「おっけー! ドカドカしちゃうよーん! 雷神様のお通りじゃー、みたいな−!」

 高木の登場により、スタジオの雰囲気が明るくなる。バンドの結成の中心人物であり、良和や佐々木をバンドに誘ったのは高木だ。その持ち前の明るさで、様々な人と打ち解ける事が出来る。バンドのリーダーは良和となっているものの、このバンドの原動力は高木のその性格にあると良和は思っている。

「ういーっす」

 そして、最後のメンバーが到着した。

新吾(しんご)遅刻ー!」

 ベース担当の藤田新吾(ふじたしんご)の姿を見て、高木が茶々を入れる。時計は集合時間の一分前を指しているので、厳密に言えば遅刻ではないのだが、もはやこのバンドのお決まりである。

「セーフセーフ」

 高木の言葉を軽くあしらう藤田。これもお決まりの光景である。高木が藤田にちょっかいを出し、それを眺めながら曲を作ったり、活動のスケジュールを立てていく良和と佐々木。これがこのバンド『ハイウェイ』である。この地方では大分名の知れたバンドだ。プロを目指していると言うわけではなく、みんなで好きな様に音を奏でているだけだ。小さなライブイベントに出演したり、時々自主製作の音源を配ってみたりするだけで彼らは満足なのだ。

 高木の戯れ言に耳を傾けたり、その戯れ言に対する藤田のツッコミに良和と佐々木が笑みを浮かべたりしながら、準備を進めていく。良和は早い段階でスタジオに入っていたので特に準備することはないので、スタジオの外の喫煙所へ向かう。

 ここのスタジオは、六階建てのビルの中に設置されており、良和たちのバンドであるハイウェイが練習で使っているスタジオは四階にある。この階だけでもスタジオは四部屋あり、使用中と思われる部屋から音が漏れてくる。待合室には誰も居らず、漏れてくるそれぞれのバンドの音をBGMにしながら、タバコを一本取り出す。

 タバコ特有の紫煙を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。音だけ聞けばため息に聞こえてしまう様な、疲れ切った音だった。朱色に輝きながら紫煙をまき散らすタバコの先端を見ながら良和は思う、彼女と交友を深めていったのもこの場所であった、と。組するバンドこそ違えど、彼女もギタリストだった。良和と同じレスポール。初めて顔を合わせたのは、明日で十二回を数えるライブイベントの記念すべき一回目だった。同じタイプのギターを使い、好きなアーティストも被り、話しは弾んだ。その時は気の合う音楽の知り合いが増えた程度の認識だった。

 そして後日、丁度この場所で再開を果たした。ライブの会場からはそんなに距離があるわけでもないし、地元の人がほとんどのイベントなので、二度と会えないという訳でもないのだが、お互い何とも言えない奇妙な感覚になり連絡先を交換、そして交際へと発展していった。彼女からの熱烈なアプローチに背中を押され、告白は良和からした。お互いに音楽バカだったので、デートという名目で二人でスタジオに入ってセッションしたりという色気のない事をしていた。二人の持つギターはレスポール。良和にとってレスポールは、そう言った意味で思い出深いギターなのだ。だからこそ、衝動的にテレキャスターを買った事は、ただの衝動買いとは違うニュアンスを含んでいた。

 タバコを吸い終え良和がスタジオに戻ると、他のメンバーは準備を終えていた。

「お、戻ってきたねー! そんじゃ一発やりましょっかー!」

 そんな高木の号令の下、ハイウェイはスタジオいっぱいに彼ら自身の音楽を響かせる。明日のライブで演奏する曲は全てオリジナルだ。作詞は良和と佐々木が半分ずつ行い、作曲は全て良和が行った。良和の書いてきた曲を、藤田と高木が自分の好きなように弾いていく。そんな自由に弾く二人を尊重しながらバランスを取り、完成系に持っていく。急遽演奏する事となった新曲は、その最終段階で行っているバランスを取る作業を行う時間が無いためこの新曲がどのようになるのかは良和自身にも分からない。

「じゃー、早速新曲いってみるか」

 藤田が提案し、みんなはそれに同意する。

「とりあえず決め事なしでー! ワン、ツー、スリー」

 ――!

 高木のカウントに合わせてバンドが動き出す。

 


 本番が楽しみなる出来映えだった。

 新曲に関して言えば、演奏する事に雰囲気が変っていくので、本番にどうなるか分からないものの、酷い出来ではなかった。むしろ良い出来だった。回数を重ねていく事に守るべき決め事を作り、抽象的にぼやけていた曲を少しずつ具体的にしていった。

 スタジオを出た時は、すでに外は陽が落ちて暗くなっていた。携帯電話は夕食時である事を伝えてる。

「とりあえず帰るわー! 新吾、乗ってけー!」

 高木は普段と同様に、帰り道の方向が同じな藤田を車に誘う。このバンドで車を所有しているのは、良和と高木のみだ。上手い事、高木と藤田、良和と佐々木は家の方向がそれぞれ同じな為、何か大荷物を持って移動したり、練習が終わった帰りなどは車で一緒に送っていくのが日常になっていた。今日もそんな恒例に違わず、繰り返される。

「じゃーなー! 明日寝坊すんなよー!」

 大きく手を振り、少し距離の離れている良和と佐々木にも十分に聞こえる声量の高木の声。傍に立っている藤田も軽く手を振っていた。流石に高木と同じ様に声を上げる勇気はなかったので、良和も佐々木も手を振り返すのみに留まる。

「なんか食べる?」

 高木と藤田の遠くなっていく背中を見送ってから、良和が佐々木に提案した。どうせ家に帰っても食べるものは何もないのだ。外で食べるのなら一人よりも二人の方が良い。スタジオの前に置いてあった車のトランクを開けて、ギターをしまい込みながら佐々木の返事を待った。この辺りなら歩いて行ける場所に豚骨ラーメン屋とファミリーレストランがある。

「そだね、お腹も空いたし。どこ行く?」

「いつものラーメンでいいか」

 車はスタジオに置きっぱなしのまま、普段行っているラーメン屋へ向かう。道を挟んだ場所にあるファミリーレストランよりも少ないお金で沢山食べられるので、お金のないこの地元のバンドマンには良く愛用されていた。替え玉は自由、四玉完食で写真撮影という豪華特典付き。その栄光を手に入れる為に多くの猛者たちが挑み、散っていった。

 スタジオから徒歩五分もない場所にそのラーメン屋はあった。夫婦で切り盛りしているお店らしく、カウンターには四、五十代くらいの男女が作業していた。店自体はそんなに広くはなく、カウンター席が十席、テーブル席が二つくらいだ。客入りはあまりよろしくない様子で、夕飯時の今でも席は半分も埋まっていない。それでも、長年続いているお店であるので、味は確かだ。

「豚骨ラーメン二つ」

 この店のオススメであり、最も値段の安い豚骨ラーメンを2つ注文したところで、佐々木が口を開いた。

「明日は大丈夫そう?」

 突然の言葉に、良和は佐々木の言葉が何を指しているのかが分からなかった。思案の表情を浮かべる良和に、佐々木は更に言葉をかける、

「明日、宮本さんも来るんでしょ?」

 宮本――宮本香里奈(みやもとかりな)、良和の恋人だった女の名前だ。香里奈も明日行われるライブの常連であるため、たった一人の男と別れた程度で来なくなるなんて考えられなかった。男を振ったのなら尚更だ。

「まぁ……あんまり考えない様にしてたんだけどね。どうなるかわからん」

 良和は特に気取るわけでもなく、正直に答える。佐々木は、俺はね、と前置きをして、

「この事に触れるか触れまいかずっと悩んでたんだ。ライブの前に傷を抉るような事はしたくなかったんだけど、一昨日送られてきた新作の歌詞を読んだらさ、このまま放っておけなくってね」

 女将が注文した豚骨ラーメンを持ってくるのが見えた佐々木は一度言葉を切る。豚骨ラーメンおまたせしましたー、という常套句に礼を言いながら、二人してコップにつがれた水を口に含む。

「とりあえず、麺が伸びちゃうからこの話はとりあえず置いておこう」

 割り箸を綺麗に割りながら佐々木は続け、麺をすすり始めた。良和は何も言えなかった。香里奈と別れた事は辛かったし、言いたい事、吐き出したい事は沢山あったはずだ。そのやり場のない憤りの結晶が、一昨日に書き上げた新曲だ。しかし不思議と、具体的な文章は何も思い浮かばない。真っ白なままだ。

 とりあえず麺が伸びちゃうしな、と良和は割り箸を取り出した。今日も美味しい。

 食事中はお互いに何も話さなかった。お喋りに興じて麺が伸びてしまう様な事は避けたかったし、特に話題も無かったからだ。店の一番奥の隅っこに設置されたテレビから、楽しげなバラエティ番組が聞こえて来る。注文を受ける女将、替え玉を頼む客の声が散発的に聞こえる程度。騒がしくもなく、静か過ぎもしない、丁度良い。

 良和は二玉、佐々木は三玉で豚骨ラーメンに敗れ去った。六五〇円で尋常じゃない量の炭水化物を詰め込んだ。替え玉無料という太っ腹な行為に甘え、詰め込めるだけ詰め込まれてた胃袋が悲鳴をあげる。満たされた満腹感、許容量を超えてしまった為の腹痛。そんな天国か地獄かといった世界に揺られている中、

「あんまりさ、自分だけで抱え込まないでねって話だよ」

 最後の一滴まで豚骨スープを堪能し、空になったどんぶりをテーブルの端にずらしながら、佐々木は口を開く。先ほどの話の続きだ。

「そうだなぁ〜……」

 良和はタバコを取り出し火を付ける。深く吸い込んだ紫煙を、正面に座っている佐々木にかからない様に吐き出す。そして考える。今自分は何を我慢しているのか、何を隠しているのか、何が不満なのか、考える、思考を巡らせる。

「ホントは何か言いたい事があった気がするんだよ。だけど、不思議とね、何も思い浮かばないんだよね」

 良和は思う、どこか無意識に香里奈の事について触れないようにしているのかもしれない、と。香里奈との破局に関して感情が何も湧いてこないのだ。当事者であるはずなのに、今は何も思い浮かばない。まるで他人事の様なそんな気分だった。

「ま、何はともあれ、明日のライブ成功させよう」

 言われるまでもない。ここまで一生懸命頑張ってきたのだ。自分の個人的な事情で演奏が疎かになってしまう事はあってはならない。

「そうだね」

 いつも以上に吸い込んだ紫煙を吐き出し、良和は言った。


 †


 ピピピピピ――

 ライブ出演者の当日の朝は早い。普段のスタジオ練習や、観客として訪れるライブは夕方からというのが一般的だが、出演者となると話は別だ。特に出演者の多いライブイベントになると、ライブハウスの入り時間は朝方になる。出演バンドそれぞれのセッティング、リハーサル諸々を含めると、どんなに早くから会場に入っても、会場のスタッフにとっては時間が足りない。

 目覚まし時計変わりの携帯電話のアラームを止め、画面を確認する。時刻は八時。会場の入り時刻は十時三十分、良和たちは現地集合という形をとっているので、この時間までに機材を持って入っていけば良い。持っていく機材は全て昨晩の練習の時のまま、車に入れっぱなしだ。良和は自分の身支度さえ済ませれば、出発出来る状態である。

 気分は上々。ライブ当日特有の緊張感と高揚感が良和を満たしている。今までの練習の可否を決める本番だ。つまらないミスは許されないから、いつも以上に集中しなければならないし、見に来ている観客を楽しませる為に良和自身も楽しまなくてはならない。

 しかし、と良和は思い出す。別れてから、香里奈と顔を合わせるのが今日が初めてになる。本人から直接今日のライブに行くとは聞いていないものの、いつも来ていたのだ。今日のライブでしか顔を合わせない友人もいるだろうし、たった1人の男を振ったくらいで、ライブに来ない事はないだろう。香里奈の顔を見ても、いつもの様に振る舞えるのかは分からないけれども。

 ズキッ――そんな擬音と共に、良和の心に見えぬ傷が入った様な気がする。

 感傷に浸るのはライブの後で良い。どうか今日のステージまでは、香里奈との事は忘れていたい、そう思いながら良和は身支度を終え、車のキーを回した。



 今日の会場となるライブハウス近辺の立体駐車場に車を止めようとして、良和はハッとする。普段ならばギターケースとエフェクターケースを持ち込むだけで良いのだが、今回からはそれにアンプが追加されている。折角ライブのために購入したアンプなのだ。今日、このライブで使わないのなら、一体いつ使用するというのだろうか。自宅用のアンプならば、辛うじて持って行ける質量なのだが、今車に積まれているアンプはそうはいかない。言うほど重いわけではないのだが、今駐車しようとしている場所から会場まで持っていくのには、少しその運搬を躊躇してしまう重さなのだ。

「仕方ない」

 普段なら左に曲がる交差点を右折していく。左が立体駐車場、右がライブハウスなのだ。とりあえずライブハウス前に車を止め、アンプだけでも搬入しようと考えたのだ。きっとメンバーの誰かが既にいるだろうと考えながら、アクセルを踏み込んでいく。

 今日の会場のライブハウスは、大きな通りから外れた郊外、寂れた商店街の近くにある。ライブハウス前の道はさほど広い訳ではなく、車を前に止めて機材を搬入していくには少し狭い。初回からこのイベントには出演している良和だが、車を横付けして機材を搬入しているバンドはあまりいない。しかし、状況が状況だ、構わずに車をライブハウスの前に止め、電話を掛ける。

「はいさ」

 電話の相手は三コール目の直前に出た。

「あ、佐々木? もういる?」

「いるよー。中村さんもいるよー」

「ちょっと外に来て手伝ってくんない?」

「へいへーい」

 通話を終え、車のエンジンを切ってから車を降りる。

 ライブハウス『ヒューストン』。寂れた郊外に佇んでいる小さなライブハウスだ。使われているのかどうか分からないビル群の一つに、ヒューストンはある。周囲には以前商店だったと思われる建物があるのだが、どれも生気の失せたものばかりでこのヒューストンもパッと見ただけでは生きている建物なのかは分からない。

 三階立てのビルの二階と三階がヒューストンで、良和の目の前には急勾配な階段がそびえ立っている。エレベーターという文明の利器はなく、ヒューストンに踏み入れる為にはこの階段を上り下りしなくてはならない。ここを重いアンプを持って行き来するのは少し勇気が必要であるので、良和は応援を呼んだのだ。

 二階から階段を下りてくる音と共に佐々木が姿を現した。今日のライブの衣装である白のモッズスーツだ。短い髪を整髪料で逆立てており、すっかりライブ仕様になっている。革靴をならしながら、良和に近づいてくる。

「これ、よろしく」

 トランクに鎮座している、専用のハードケースに収納されているAC30を指さす良和。その行為の意味する所を佐々木は理解する――これを持て、と。

「マジかー」

 思いもよらない力仕事の到来に、天を仰ぐ佐々木。

「まぁ、俺も手伝うしさ、頼むよ。なんか奢るし」

「じゃービール」

 へいへいクリアアサヒな、と受け流しつつ、良和と佐々木でAC30の運搬を始める。それぞれがアンプの両端を持ち、ライブハウス『ヒューストン』へと続いている急な階段を慎重に上っていく。

 一段一段の幅は狭く、良和の足の幅程しかない。お互い、足を滑らせない様にゆっくりと、ゆっくりと歩みを進めていく。

「あ、これうん十万するから」

 良和の呟きに、ええ〜、と声にならない悲鳴を上げる佐々木。そんな狼狽する佐々木に、ニヤリという擬音が似合う意地の悪い笑みを浮かべる。良和からのメッセージだ。俺は今日は大丈夫だ、という。手に抱えている物体の価値に困惑している佐々木に、そのメッセージが伝わっているのかどうかは定かではないが、良和は会場を前にしたら今朝のアンニュイな気分は、ライブの高揚感によって吹き飛んでいた。今日は大丈夫。

 特にトラブルもなく階段を上りきり、すっかり顔なじみとなった受付の中年の男性に挨拶をし、いよいよヒューストンへと足を踏み入れた。

 黒を基調とした室内。ライトは赤が基調となっており、ライブハウス特有の薄暗い雰囲気が朝っぱらから充満している。すでに他の出演者も集まり始めていた様で、見知った顔がちらほらと見受けらる。重そうなアンプを抱えて入ってきた良和たちを見て、挨拶を飛ばして驚きの声を上げる。

「あれー? VOXじゃん!? 買ったの!?」

「お、おう」

 返事もそこそこに、佐々木にせーのと声をかけてアンプを床に降ろす良和。本来ならば機材を置くような所ではない。ここは喫煙所だったりドリンク交換の場だったり物販を行ったりするホワイエだ。どうせリハーサルの時にステージ脇の控え室に置くのだ、楽屋に持っていく必要もない。

「んじゃ、見張りよろしく」

 顔なじみの質問に適当に答えながら、良和はヒューストンを後にする。前に止めている車を置いてこないと通行の妨げになってしまうからだ。足早に階段を下り、車のエンジンをかける。エンジンが回り始めると同時に、カーステレオに入れっぱなしのCDの音楽が流れ始めた。良和の好きなパンクロックだ。スピーカーを振動させる激しいサウンドとは対照的に、緩やかにアクセルを踏み込む。

 普段停めている立体駐車場へ向かう道中、見知った顔なじみが機材を担いで歩いて行くのが見えた。時刻は十時一〇分頃、そろそろ集合時間だ。こう見知った顔を見ていく度に、良和は香里奈との別れが遠く感じていた。意識の外へ追いやられていったと言ってもいいかもしれない。良和は、傷心だったここ三日間とは別人のような顔つきになっていた。

 良和が重いギターをエフェクターケースを担いでヒューストンに到着したのは集合時間から五分程遅れた頃だった。遅れ気味だったのは良和自身も分かっていたので、少し早足で来たためか、ヒューストンへ足を踏み入れた頃にはすでに息が上がっていた。

「おはよー。久しぶりー」

 息も絶え絶えな良和の姿を見た顔なじみがこぞって挨拶に来る。とても懐かしいし、心なしか安心する顔ぶれだ。

「良和遅刻ー! 罰としてみんなの朝飯買い出しー!」

 ホワイエの左方向、楽屋の方から高木の声が聞こえてきた。楽屋の方に視線を向けると、これまたステージ衣装である黒のスーツに身を包んだ高木が、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「え? もうみんな来てんの?」

「そうだよ! お前が最後! 罰としてセッティング表お前が書け!」

「たった5分の遅刻で罰多すぎでしょ!」

 そんな本気とも冗談ともつかない小言を突き合いながら、楽屋へ向かう。

「うへぇ……」

 楽屋へ踏み入れた瞬間良和は声を失った。

「お前が遅いから俺等の場所はないぜ?」

 嘘だけど、と最後に付け加えたものの、その冗談がしゃれにならない程だった。

 ここは天国か地獄か、はたまたそのどちらともつかない異境の世界か、といった光景が広がっていた。まだ入り時間から五分過ぎた程度である。にも関わらず、すでに足の踏み場はなく、化粧台の前は女性陣に陣取られており、L字型をしている楽屋の最置くに置かれている机と椅子にも、ギターケースやらエフェクターケースが置き去りになっている始末だ。これでは楽屋と言うよりも倉庫だ。

 この倉庫でもたくましく楽屋として使用しようと、混沌の中に秩序を生み出そうと奮闘している出演者と思われる二人組に挨拶をし、高木たちがあらかじめ陣取っておいてくれた場所に機材を置いていく。高木の話によれば、早めに来ていた佐々木が場所取りをしてくれていたとの事だ。他にも同じ考えをしていたバンドはあった様で、そういったバンドだけは綺麗に整頓されていた……のだが、良和たちを含め、そういった戦略を巡らせたバンドの荷物が、明らかに場所を取りすぎなのだ。

「もうちょっとコンパクトにしないとなぁ」

「そ、そうだな!」

 良和の呟きに高木も同意し、二人で自分たちの荷物だけ整理する。

「あ! 田村戻って来たー」

 楽屋の入り口から聞こえてきた声は佐々木のものだ。

「はいこれ」

 良和の前に差し出されたのは、今日のセットリストとセッティング表を書き込む用紙だった。用紙を持っている佐々木は笑顔で付け加える、

「遅刻した罰ゲーム」

 同意する様にうんうん、と頷く高木。

「本気だったのかよ!」

 良和は思わず突っ込む。そして佐々木から用紙をひったくると、ホワイエへと向かっていった。

 いつも良和がタバコを吸いながらリハーサルを待っている定位置に、AC30の箱が置いてあった。先ほどまで佐々木がいてくれたのだろう。ちょうどいつも座っている椅子だけが空いていた。腰を下ろしタバコに火を付ける。

 セットリスト……今日行う曲の順番を書き込んでいく。曲名、オリジナルか否か、照明とPAへの注文といった四項目を埋めていかないといけない。今日演奏する曲は五曲。その内三曲は今まで演奏してきた曲だが、三日前に書き上げた曲以外は構想は出来ていた、良和の頭の中で。

「これから出番のくじ引きを始めまーす! 出演バンドの代表者は上のステージへ来てくださーい!」

 とりあえず書けるところだけ書いてしまおう、と筆を走らせようとした最中、ヒューストンスタッフの声がホワイエに響く。

 丁度ホワイエへやって来た藤田に良和はお前が行け、というジェスチャーを送り、それを承知した藤田は上のステージへ上っていく。このヒューストンは二階がホワイエとなっており、三階が全てステージなのだ。フロアを二階層使っているとはいえ、その一つ一つはさほど広くない。ライブハウスとしての収容人数は百人行くか行かないか……というところである。ヒューストンよりも広く、歴史のあるライブハウスは周囲に沢山あるのだが、会場の狭さやブッキングの容易さ、そのた諸々の要素から、初めてバンドでライブする会場として選ばれてきた。それ故に、このヒューストンはこの地方のバンドマンのスタートラインといったポジションのライブハウスなのである。

 ぞろぞろと各バンドの代表者が三階へ上げって行くのを見て、良和は用紙に再び視線を落とす。五曲目だけが空欄になっていた。

 曲名、西へ。オリジナル。照明、生でフルアップ。PA、特になし。今日演奏する曲の中で、一番シンプルになった。

 セットリストを書き込む用紙が仕上がり、アンプやマイクの配置を指定するセッティング表の作成にとりかかる。これも普段となんら変らない。今回変った事があるとすれば、持ち込み機材という記入欄に、VOX-AC30と付け加えるだけだ。後は普段と変らないので、慣れた手つきで真っ白な長方形の枠の中を埋めていく。


 ひと仕事終え、高木と佐々木と一緒にいつもの定位置でタバコを吹かしている時だった。ぞろぞろと3階から降りてくる人ひとヒト、抽選が終わった様だ。

「新吾ー! どうだった!」

 高木の問いかけに、藤田は数字の書かれた紙を見せながら口を開く。

「六番目。全部で7バンドだから、トリ前」

 おおぉー……と3人が3人、声にならない声を漏らし、それぞれ目を合わせる。

「リハーサルは逆リハだって。もう始まる」

 この藤田の言葉で、良和たちはリハーサルの準備を始めた。



 逆リハ。くじ引きで決まった順番の反対からリハーサルしていく形式である。この方法になると、最後にリハーサルを行うバンドが、本番ではトップバッターということになる。良和たちのハイウェイは六番目のトリ前、逆リハの場合は二番目にリハーサルを行うということだ。

 そろそろリハーサルが開始されるという事なので、良和たちも準備をしておかなければならないのだが、

「お、重い……そして狭い……」

 リハーサルの前は楽器のチューニングや、ステージに上がってから直ぐに演奏出来る様にするための準備などやっておく事は多い。それは普段から行ってきた事なので、特に問題はないのだが、

「暗いしな……足下気を付けて」

 良和と佐々木はAC30を再び運んでいた。今まで二階のホワイエに置いてあったのだが、リハーサルで使用するために三階のステージに持っていかなければならない。しかし、ライブハウス『ヒューストン』にはエレベータといったモノは存在しない。二階と三階を結ぶのは階段のみで、この階段も、ヒューストン入り口前の階段と同等以上の急勾配となっていた。それにライブハウス特有の光量の少なさ、黒で統一された壁と床によって運搬がより一層困難になっている。

 藤田と高木は、良和と佐々木の荷物を持ってすでに上へ上がっている。何とか三階へたどり着けたものの、ライブ後、疲れ切った身体でこのアンプを三階から下ろさねばならないと思うと、良和は持ってくるんじゃなかったと少し後悔し、ヒューストン以外の会場で使おうと心に決めた。

 リハーサルは滞りなく順調に終わった。持ち込み機材であるAC30も問題無くセッティングが完了したし、買ってから日が浅いテレキャスターは問題無く音をはじき出してくれた。

 時計を見てみると、時刻は十二時頃だった。丁度昼食が恋しくなる時間帯である。開場は十五時、開演はその三十分後。引き続きリハーサルは行われていくのでスタッフは休みではないのだが、出演者は自分たちの出番まで自由時間となる。この自由時間を活用して、昼食を摂取したり本番前までにモチベーションをあげていくのだ。

 お昼をメンバーで食べに行ったり、何となく近くの楽器屋で過ごしていれば時間が過ぎるのはあっという間で、良和たちがライブハウス『ヒューストン』に戻って来た時にはすでに開場が始まっていた。時刻は十五時の七分前程、大きなイベントでもないのできっちり時間を守る必要はないのだ。昼食に出る前にスタッフから受け取ったバックパスを見せ、入場していく。まだ観客の人数はまばらだ。

 ライブを見てくると言う高木と藤田と別れ、良和と佐々木は楽屋へ向かう。楽屋は今朝とはうって変わった様子を見せ、辛うじて楽屋として機能するくらいにまで整理されていた。楽屋の奥に設置されているテーブルには、テーブルらしくお菓子とお酒が置かれている。

「おいーっす! かんぱーい!」

 楽屋はすでに出来上がった人間共の空間と化していた。顔なじみとの久方ぶりの再開、そしてライブ、とくればやる事は決まっている。酒である。そしてアルコールによって気持ちよくなったところでステージにあがるのだ。まさにそんなタイプの人間である中村が、良和と佐々木が楽屋に入ってきたところでコップを渡す。

「かんぱーい!」

 つまり飲め、という事だ。

「ごめん、俺今日車なんだよねー」

 流石に飲酒運転はまずい。もしかしたらアルコールが抜けるかもしれないが、飲んだら乗るな、である。

「マジかー、じゃあはい、これ」

 アルコールの入ったコップを進めてきた中村は、別のコップを良和に差し出してきた。ちなみに佐々木はアルコールの方を受け取っていた。良和は手にとって匂いを確認し、アルコールが入っていない事を確認する。これはウーロン茶だ。

「はい、かんぱーい!」

 かんぱーい、と紙コップを互いにぶつける。紙なのでグラスの様な洒落た音はならない。乾杯を済んだ紙コップを口に付け、一気に飲み干していく。

「はいはいどーぞどーぞ」

 中村は更に佐々木の空いたコップにアルコールを流し込んでいく。まだ開演してもいないんだけどなぁ、と良和は心の中で苦笑する。

 アルコールが入って饒舌になる佐々木、すでにアルコールが回っている中村。いよいよイベントが始まるというのに、すっかり出来上がった酔っぱらいが2人。

 中村は良和と佐々木と仲の良いバンド仲間だ。今日は三番手としてステージに立つ。ハードワックス、スプレーで逆立てた赤い髪のモヒカンが特徴的な細身の男で、ギターを担当する。良和とはしばしば機材談話に興じたりしていく内に意気投合し、現在に至る。そして中村は、良和と香里奈の関係を知っている数少ない今日のイベントの関係者でもある。なぜならば、中村は香里奈とバンドを掛け持ちで組んでおり、良和と香里奈が交際に発展する様にと様々に尽力してきた男であるからだ。

「で、最近はどうなのよ?」

 話題は言うまでもなく香里奈との関係についてだ。ここで名前を出さなかったのは、中村なりの配慮である。良和はその問いに答える前にタバコに火を付け、ひときわ大きな紫煙の塊を吐き出してから口を開く。

「別れた」

「ふーん、そうか」

 良和の答えに驚いた様子もない中村。

「何か知ってるん?」

 香里奈と同じバンドにいるのだから、何か香里奈から相談うけていた可能性もないわけではない。

「いや、最近はこっちのバンドばっかりだったから、一ヶ月くらいは顔を合わせてないんだよね」

 別に情報を知ったところで関係が修復されるわけではないのだが、別れる理由をちゃんと聞いていなかったので、事情は少し気になってはいた。お互いに結婚もやぶさかではないというような言葉を交わしていたので、尚更だ。

 良和がどんなに思考を巡らせたとしても答えは出ない。あまり考えない様に意識の外に追いやられていた事柄が、良和の意識を占有していく。フラッシュバックしてくる喪失感。その喪失感が、本番前の良和のモチベーションを下げていく。テーブルの両脇にある椅子に深々と腰を掛け、機械的にタバコの煙を肺に入れたところでモニターの小さなスピーカーから歓声が聞こえてきた。モニターに映る楽しげな世界。そのコントラストがより一層良和の心を抉る。

 男三人がモニターに視界を向けると、今まで明るくなっていたステージが暗くなっていた。いよいよ始まるのだ。

「見に行く?」

 そう言う中村は動く気配がない。いつの間にか腕を組んでおり、難しい顔をしていた。

「いや、いいや」

 ライブを楽しむ気分ではなかった。横になって目をつむり、休みたかった。

「俺、行ってくる」

 気を利かせてくれたのだろうか、佐々木はそう言い残して楽屋を出て行った。すると同時に、強烈なギターのディストーションサウンドが鳴り響き、ステージ前にかかっていた暗幕が開いていく。ピンクを基調とした様々なライトに彩られていくステージ。拳をあげる観客。始まった。そんな興奮が三階を包む様子を、良和と中村は冷めた目でモニターから見つめていた。

「すまんな、ライブ前に聞く話じゃなかった」

「いや、仕方ないよ。俺こそ気を遣わせてごめん」

 いつの間にか楽屋から人がいなくなっており、ここにはヒューストンを包み込んでいく雰囲気とは正反対の世界にいる男二人だけが残った。

 小さなスピーカーから聞こえて来る音だけが響く。良和と中村は何も言わず、ただタバコを吸っていた。ただ黙々と吸っていた。

「やっぱ飲むか?」

 そういって進めてきたのは液体がなみなみと注がれたコップ。隣にはウイスキーの様なボトルが一本。

「ラムだ」

 良和が楽屋に入ってきた時に、アルコールを勧めてきた顔とは違う表情の中村。

「車だろうが何だろうがカンケーねーよ。忘れたい事とか、どうしようもない寂しさに包まれた時に、男は酒を飲むって決まってるんだよ」

「河島英吾か」

 中村は答えず、あごをしゃくるだけだ。

 コップを手に取る良和。それを見て中村も空いたコップにラム酒を注ぎ込んでいく。トクトクトク、とボトルから注がれる音が、モニターから聞こえて来る賑やかな世界をかき消す。

「今日の田村良和に乾杯」

 紙コップの音は出ないコップを合わせ、一気に飲み干した。

「なんていうかな」

 飲み干したコップにラム酒を注ぎながら中村は独り言の様に呟いた。

「悪いのは香里奈なんだ。お前は悪くないし、誰も悪くないんだ。みんなあいつに振り回されて、悩んでいるんだ」

 良和は何本目になったのか分からないタバコに火を付けながら、黙って聞いていた。

「今はこれしか話せない。俺も直接本人に聞いたわけじゃないからさ。ただ、今悪いのはあいつだ」

 モニターの画面をみつめたまま、小さく頷くだけだった。



 悪い酒をしてしまった、と良和は述懐する。本番前に摂取しても良いラインを大幅に超えて、アルコールを摂取してしまっていた。足下がおぼつかない酔っぱらい程ではないものの、本番で一〇〇%のパフォーマンスを発揮できるかどうか心配になる足取りだった。

 中村は本番が近づいて来た為に、三階へ上がって待機。トップバッターだったバンドが演奏を終え、そのメンバーや観客として上に行っていた出演者たちがちらほらと楽屋に戻って来ていた。陰鬱な雰囲気に包まれていた楽屋が、一気にライブのお祭り気分に塗り替えられていく。

 良和自身も体内のアルコール濃度の上昇に伴い、香里奈についての陰鬱な気分はどこかへ吹き飛んでおり、そろそろライブモードに戻そうと中村の後を追う様に席を立った時にふらついた足下に、良和はアルコールを摂取し過ぎてしまった事を知る。まだ本番まで時間があるため酔いが覚める可能性があるものの、らしくない行動だったな、と振り返る。

 ふらつく足下をなんとか制御し楽屋を出る。ライブが本格的に始まったホワイエは、今朝とは様子が異なっていた。今朝には見なかった顔ぶれが所狭しと談話しており、ドリンクを受け取る者、タバコを吸う者、ホワイエに取り付けられているモニターを見ながらないやら話し込んでいる者と様々だ。学校帰りと思われる制服姿の高校生、今日出演するバンドの知り合いと思わしきバンドマン、そんな中に良和は見つけた。友達と思われる女性となにやら話し込んでいる香里奈の姿を。

 キュッっと心臓が締め付けられた様な息苦しさが良和を襲う。予想通り来ていた。薄く茶色に染められた、肩にかかりそうな長さの髪、小動物を彷彿とさせる小さなジェスチャー……ホワイエは光源が少なく薄暗さが包んでおり、服装こそよくわからなかったが、その姿は見まごう事なき、宮本香里奈そのものだった。

 良和は香里奈から逃げる様に早足で、三階へ上がる階段の方向とは逆へ向かっていた。その先はヒューストンの出入り口。ためらうことなく良和はヒューストンの階段を下りていた。

「……酔いが覚めた」

 日が落ち始めた十六時過ぎの秋空。良和は我に返りヒューストンの階段に腰掛ける。

 逃げ出してしまった。アルコールも十分に周り、なんとかなりそうと思っていたのだが、甘かった様だ。アルコールに溺れる事さえ無意味な程、良和の心に追った傷は深かったのだ。こんな事で本番は大丈夫なのだろうか、と自己嫌悪に陥る良和。気分を落ち着かせるためにタバコを取り出そうとするが、

「買いに行ってくるかぁ」

 いつの間にか全て吸い終えてしまっていた。予備のタバコは準備していないので、買いに行く事にした。ゆっくりと重い腰を持ち上げる。秋特有の乾いた風が吹きすさぶ。息苦しさは未だ取れない。

 良和は普段よりも重い足取りで歩き始めた。最寄りのコンビニはハイウェイから出て右の方向にあるのだが、良和は左へ向かった。左の方向にもコンビニはある。少し距離があるので、ヒューストンから向かう者は滅多にいないがそれで良かった。秋風に身を晒してすっきりしたかった。ステージ衣装のスーツは少しこの秋の夕方を歩くのには薄いが、熱気で上昇しきった室温に暖められた身体にはちょうど良かった。


 あえて遠回りをしたり、歩幅を狭くしてみたりしながら良和がタバコを片手にハイウェイに戻ってきた頃は、すでに陽が沈んでいた。すっかり年期を感じさせる街灯が、柔らかな白の光で夜道を照らす。購入したばかりのタバコを開ける。真新しいタバコ特有の鋭い煙が、良和の口を刺激する。真新しい煙を存分に堪能し、煙を蒸気機関車の如く吐き出したところで、ヒューストン前に人影が2つあるのに気がつく。街灯に照らされているものの、よく見えない。

「ほら、新吾はやくはやく」

「ちょ、待てって」

 車通りもなく、開いている店も家もないヒューストン前の道は静かだ。よって物音は周囲にそびえるビルのコンクリートに反響していく。ヒューストン前の人影が発したと思われる声を聞いて、良和は手に持っていたタバコを落としたのに気が付けなかった。目を凝らす。人影は男と女の二人組、見知った顔。親しげに手を握っているのが確認できた。それも女の方が男の腕に巻き付く様に密着しており、知らない人が見れば誰もが口をそろえて言うだろう、恋人である、と。

 良和は反射的に近くの電柱に隠れていた。電柱を、彼らを背にしてもたれかかる。男のものと思われる革靴が、アスファルトを叩く音が徐々に小さくなっていく事で良和は彼らが離れていくのを知った。

「はははっ……」

 乾いた笑いと共に、良和は足の力が抜けたかの様にへたり込んだ。先ほどの見知った顔の正体に、良和は全身すべての力が抜けてしまった。今日で何度目なのだろうか、こうやって良和が打ちのめされる光景は。傍から見れば恋人だった女の影に一喜一憂し、目のライブに集中出来ない未練たらたらの女々しい男だろう。しかし、一度は結婚まで考えた思い人に振られたのだ。心身ともに疲れ切っていた矢先の失恋、今こうしてステージに立つためにこの場にいる事すら大変な事だ。ボロボロになりながらも、良和はステージに立とうと気丈に前を向いてきた。しかし、今その屈強な精神も尽き果てようとしている。

「……」

 泥酔したサラリーマンの様な体勢で電柱を背にして座り込んだまま動かない。

 良和が先ほど見た光景は、悪夢のようだった。楽しそうに男に寄り添う女は、つい三日前まで恋人として数多くの時を共有してきた宮本香里奈。そして、その香里奈と歩いていた男は、同じバンドのメンバーとして様々なライブを乗り越えてきたベーシストの藤田新吾。

 ――悪いのはあいつだ

 不意に中村の言葉が蘇る。この言葉の意味するところがわからない。しかし、中村は香里奈と藤田の関係を知っていたという事なのだろうか。わからない。自分の世界がわからない。

「そろそろ出番だよねー。今日は新吾の前で聞いてるから頑張ってね」

「ああ……」

 二人の男女の楽しそうな声が良和の耳にも入ってくる。

「せっかく別れたんだしさー、これからもっともっと一緒にいれるね!」

 良和の心は握りつぶされそうだった。

「っていうか、今日まだ良和見てないんだけど? 今日来てんの、アイツ」

 流れ弾が良和を打ち抜いていく。

「今日ライブ終わったらどっかいかない?」

 知りたくなかった世界に内包されていく。

「明日休みにしちゃってさ、朝まで一緒にいよう?」

 色彩を失っていく世界観。

「そろそろ一ヶ月記念日だしどっかいかない?」

 ぼやけていく感覚。

「しばらくは良和にばれないようにしないとね」

 消え失せていく記憶。

「……んっ、あっ……んん」

 霧散していく存在意義。

「じゃあ、あたしは遅れて入るね、一緒に入るとまずそうだし」


 †


 佐々木が良和を見つけたのは、ハイウェイの前のバンドの演奏が始まった頃だった。出番を控えても客席にも楽屋にも居らず、携帯電話に至っては楽屋に置いてあるバックの中という始末。中村のバンドの演奏にも顔を出さなかったので、万が一の事態を考えてヒューストンの周辺にあるコンビニの二つ目へ向かう時、佐々木は電柱を背もたれに座り込み、目をつぶって動かなくなっている良和の姿を発見したのだった。

「た、田村!? おい! 田村? 大丈夫か!?」

 狼狽気味に、良和の身体を揺すりながら声をかける。しかし反応はなく、高木に連絡を取るためにスラックスのポケットから携帯電話を取り出そうとするが、予想外の状況だった為、震えの止まらない手が携帯電話を落としてしまう。スーツのジャケットに引っかかった携帯電話は勢いを得て、アスファルトに座り込んでいる良和の頭にぶつかる。

「……ぅぁ」

 事切れた人形の様に動かなかった良和からうめき声が漏れる。

「お、おい、田村! しっかりしろ!」

 佐々木の呼びかけに反応するかの様に、うっすらと目を開ける良和。

「ぁ……ふぅ…………こ、こ……は?」

 良和の声には覇気がない。

「外だよ! ヒューストンの前の道!」

「…………ああ……ライブか…………」

 気怠そうに目をこすり、軽く息を吐く。

「大丈夫か?」

「うん……寝てた」

「終電逃した酔っぱらいじゃあるまいし……」

 ひとまず緊急事態ではないと判断して、肩の力を抜く佐々木。今までの緊張を吐き出すかの様に、深いため息を吐いた。

「とりあえず立ち上がろう。このままここに居たら風邪ひいちゃう」

 力の全く入っていない良和の手を掴みながら、顔を覗く。良和の真っ赤に充血した目が視界に入り、佐々木は立ち上がらせようと力を入れていた手を離してしまった。

「何かあったの?」

 アスファルトに座り込んだまま動く気配はなかったが、良和はぽつりぽつりと、独り言みたいに呟き始めた。

「あのさ……」

 良和は先ほどの見てしまった、香里奈と藤田の事を話し始めた。そんな良和の独り言を佐々木は黙って聞いていた、何かを堪えるかの様な表情を浮かべながら。



「ま、中村は悪いのは香里奈だって言ってたんだけどね、ホントはどうかわかんないや」

 話していく内に良和の脳内は覚醒してきたらしく、自白の様な独り言を話し終えると自力で立ち上がった。ふらつく足下にを見た佐々木が支えようとするが、良和は手でそれを制する。

「大丈夫、吐き出したら楽になったよ、聞いてくれてありがとう。ライブ行こう」

 そう言ってハイウェイへ歩き始めようとした良和を、佐々木がジャケットの袖を掴んで止める。良和がいぶかしげに後ろを振り返ると、そこにあったのは大粒の涙を流している佐々木の姿だった。

「……んでだよ…………なんでそんな顔して戻れるんだよ! ステージに!」

 こぼれ落ちる涙をはばからずに衣装であるジャケットで拭う佐々木。

「結婚まで考えてたんだろ!? そこまで想ってた人を取られたんだぞ!? 同じバンドのメンバーに! それなのにどうして戻れるんだよ! 本当だったら演奏するハズだった曲! あれの歌詞を見ればとっても大切で、愛おしくて、人生を捧げるのもいとわない、そう思っていたっていうのは嫌でも伝わるっていうのに……そんな人が知り合いと…………」

 続きは聞こえて来なくなった。代わりに、佐々木のむせび泣く音だけが聞こえる。

「ごめん……」

 良和は思わず佐々木を抱き寄せていた。男同士だとかそんなの関係無い。人のためにこんなに涙を流せる人間に、良和はかけるべき言葉が見つからなかった。感謝していた、ここまで自分の事を思ってくれる存在に。そんな思いを上手く言葉に表現する事が出来ず、こうやって抱き寄せる事でしか表現出来なかった。

「ホント、ごめん……ありがとう」

 子供みたいに涙を流す佐々木。そんな子供をあやす母親の様に頭をなでる良和。佐々木が泣き止むまで、ずっとそのままだった。

「こう、抱かれてあやされるのって、何十年ぶりだろうな」

 恥ずかしそうに佐々木は零す。

「小学生の時以来かもなー……嫌な事があって泣きながら家に帰るとさ、おかあさんに頭なでられてさ」

 タバコの紫煙を上げながら良和が言う。二人はまだハイウェイの外の道にいた。空はすっかり夜模様で、雲の少ない夜空には燦爛[さんらん]と星が降り注いでいる。その柔らかな星の光が、良和の心の曇りを浄化していく。

「小学生……十年くらい前か」

「だいたいそうかもな」

 フィルターまで火種が迫ってきていたタバコを、携帯灰皿に捨てる。携帯灰皿のプラスチック製のボタンが閉まる音を聞いた二人は、何を言うまでもなくハイウェイの階段を上がっていった。

「お前ら今までどこ行ってたんだよ!」

 ハイウェイの入り口入ったすぐの所に高木は立っていた。二人が揃って戻って来たのを見て、少し安堵した表情を見せた後、怖い顔で叱る。

「今、アンコールだからすぐ準備!」

 普段よりも凄味倍増の怖い声色で言い放った後、高木は三階への階段を上っていった。

「まぁ、心配させちゃったしな……今度飯でも奢るか」

「俺にもね」

 お前はダメー、等と小言の応酬を繰り広げながら、機材を持ち出すために楽屋へ向かう。佐々木は持っていく物は何も無いので、楽屋には入って来ない。

 楽屋には中村がいた。本番を終えた安堵感が包む楽屋の雰囲気の中、中村だけが険しい表情を浮かべていた。

「あ! 戻って来た!」

 良和の姿を見つけると、人差し指を指しながら近づいてくる。

「心配したぞ〜このアンポンタン」

「ごめんごめん、なんか奢るからー」

「あったり前だ! 色々話す事もあるしな」

「そうだね」

 中村の顔は優しかった。近所の年下の弟分の成長を見守る兄貴の様な、そんな顔だ。

「本番、がんばれよ」

 良和に突き出される中村の拳。

「もちろん」

 その拳に拳で返す。拳から伝わる中村の皮膚から、中村の先輩ギタリストとしてのパワーを貰った気分になる。

「今日一番の演奏をしてくるよ」

 少し語気を強めて宣言する。良和の言葉に楽屋にいる幾人かの視線が突き刺さるが、気にならなかった。今日、絶望のどん底を味わったのだ。楽屋の中での良和の表情は、このお祭り気分をぶち壊してやると悪巧みを画策する悪党の様な表情だ。

「田村」

 楽屋前には佐々木が立っていた。一足先にステージへ向かっていたと思っていた良和は少し驚く。

「俺も、今日一番の歌声をあげるよ」

 どうやら先ほどの良和の宣言を聞いていたらしい。

「がんばろう。田村良和ここにありって知らしめてやろう」

 佐々木の瞳は力強い。覚悟を決めた男の瞳そのものだった。

「ああ!」

 先ほど中村としたのと同じように、良和と佐々木は拳をぶつけあう。

 良和たちが三階へ上ったと頃にはバンドの演奏が終わっていた。ライトの落とされたステージと客席。そのステージと客席を仕切る暗幕が丁度下ろされ始めた所だった。暗い中移動するのは危ないので、良和と佐々木は客席に光が灯るまでその場で佇む。しばらくして、ステージ両脇に設置された大きなPAスピーカーから聞き慣れたアーティストの楽曲が流れ始め、程なくして客席に明かりが灯った。

 明かりが点くと同時に移動を始める観客たち。その観客の流れを上手く交わしながら、ステージ脇の控え室へ向かっていく。その最中だった。

「――!」

 良和は香里奈の姿を見つけた。香里奈も同時に良和の姿を見つけた様で、一瞬だけ目と目が合い、同時に視線を外した。その繋がった視線には、以前のみたいな暖かさはなく、ただただ冷たい他人を見る冷たい視線だった。

「お、間に合ったな!」

 すでに控え室で待機していた高木の声が、良和たちの到着を迎えた。控え室は客席から見た左側……下手と呼ばれるところにある。そんなステージ下手側へ上っていく階段に片足をかけた状態で藤田もいた。藤田は良和に一瞥をくれると、何も言わずにステージへ続く階段を上ってく。そんな藤田に続く様に、彼らもステージへと上がっていった。

 ヒューストンのスタッフと共に、持ち込み機材であるAC30の設置を済ませ、リハーサルの時に決めたセッティングを再現していく。ステージの前には暗幕がかけられており、客席がどのような状況になっているのか、今は見る事が出来ない。

 セッティングが再現できたパートから、出力チェックをしていく。高木と藤田は手早く準備を終えた様で、各自チェックをしていた。ステージ前方に設置されているモニタースピーカも問題無くマイクから拾った高木と藤田の音を返す。良和も右手に持ったピックでテレキャスターの弦を引っ掻くと、程よくオーバードライブのかかったサウンドが良和の後ろに置かれたAC30と、前のモニタースピーカーから返ってくる。大丈夫だ、問題ない。後はみんなで呼吸を整えて始めるだけだ。

「準備が終わりましたら、暗幕を開けるタイミングを教えてくださーい!」

 頃合いと見たヒューストンスタッフの声がステージに届く。みんながお互いに目を合わせ、準備完了の意味を込めたアイコンタクトを交わし合う。

「ドラムからはじまるので、ドラムが始めたら上げてください」

 今から演奏する楽曲全ての作曲を務めた良和が、スタッフにタイミングの指示をする。いよいよ始まるのだ。

 わかりましたー、とスタッフは返事した後控え室に下がっていき、いくつかのスイッチを操作する。ステージ側の照明は落とされ、そろそろ始まる、といった歓声が客席から暗幕を通り過ぎてくる。声の密度からして客席いっぱいに入っている様だ。じっとりと汗ばんでくる手の平、背中のむずかゆさを堪えながら、良和は、佐々木は、藤田は、高木を見つめる。

 3階は静けさに覆われていた。聞こえて来るのはスピーカーの吐き出す電子的なノイズのみ。向けられた視線を一人一人に返した高木は、最後に良和の目を見る。頷く良和。静かに息を吸いながらスティックを持ち上げていく高木。天を見上げ気持ちを落ち着かせる佐々木。腰を下ろして演奏準備に入る藤田。メンバーそれぞれが演奏を開始するスタンバイが完了したと同時に、高木は勢いよくスネアドラムを叩いた。

 ――!

 勢いよくドラムのフィルインが始まり、客席から発せられる興奮の肉声が暗幕を押し上げていく。始まった、待ちに待ったハイウェイのライブが。

 ドラムのフィルインが終わると、シンコペーション気味に良和と藤田も演奏の波に乗っていった。高木の奏でるビートを藤田がコードと呼ばれる和音の基礎を作り、音楽としての必要最低限が構成された音の骨組みを、良和がメロディアスなギターサウンドで彩っていく。ステージから飛ばしていく音の塊。アップテンポのサウンドが、観客の拳をあげさせる、頭を振らせる、腰をうねらせる。

 ステージの上下左右に設置されたライトがバンド『ハイウェイ』を映しだす。今この空間の主役は彼らなのだ。彼らが光であり、他は影。

 客席は多くの人で埋まっていた。良和の前にも中村をはじめとした顔なじみが、ステージを客席を仕切る柵にもたれ掛かりながら頭を振る。普段なら中村たちといるハズの香里奈の姿はない。

 高木のフィルインから良和のギターリフと進行してきたイントロが終わると同時に、モニタースピーカーに片足を乗せた佐々木が、喉から発せられる声を用いて旋律を良和から引き継ぐ。

 ――やつらは餌を巻き付けて やって来るよちょうど良く

 ――天使のような微笑みで 「好き」とひとこと催眠術

 佐々木は自身が紡ぎ上げた歌詞を、がなり立てる様な歌声に乗せていく。高木はテンポをキープしながら、バンドを加速させていく。藤田はビートとメロディを、推進力を付け加えながら橋渡ししていく。良和は佐々木の紡ぐ旋律を、彩っていく。これがバンドサウンド。ステージの上は何人たりとも妨害する権利のない、彼らだけの世界と化す。ステージから漏れたその彼らの世界は、客席を浸食し、飽和させていく。飽和しきった世界はモニターを通じて、ライブハウス『ヒューストン』を包み込んでいく。自分と他人を区別する社会的記号が消え失せていく。境界線がなくなっていく。同化していく。

 ――Hey! ho! checkmate!

 ――Hey! ho! checkmate!

 全てが合唱していく。良和も、高木も、藤田も、佐々木と同じように歌い上げていく。楽曲一番の目玉と言っても過言ではないサビを、ハイウェイの世界に内包された住民たちで盛り上げていく。大粒の汗がライトを反射する。止まるところを知らないアドレナリンの分泌。スパークしていく脳内。身体に染み込まれた信号のみで音楽を弾いていく。

 サビが終わり、良和のギターソロに入る。ギターソロは弾くべきフレーズが決まっていない。あらかじめ決めていたコードの進行にそって、そのコードと反発していまう音を奏でなければ何を弾いてもいいのだ。鍵盤よりも不器用な楽器ではあるものの、その特異性こそが、ギターが今の今まで愛されてきた所以なのである。

 アドレナリンによって意識の吹き飛んだ良和は、本能の赴くままにエフェクターを踏み込む。エフェクターによってギターからAC30へ届いていた電気信号が増大し、そのままでも悲鳴を上げていたAC30をより一層いじめていく。ギターが基音で出しうる最高音を、チョーキングという技術を用いて引き延ばしていく。良和の右手に持たれたピックによって振幅してるギターの弦が、その運動エネルギーを消費しながら悲鳴の如き音色を響き渡らせていく。モニタースピーカーから返ってくる良和自身の音が、運動エネルギーの尽きかけていた弦を回復させていく。ピックによってもたらされた運動エネルギーがなくなった頃には、ピックで鳴らした時に聞こえていた基音よりも数段高い音階の音が響いていた。フィードバックである。良和はこのフィードバックを有効的に用いて、ギターソロを構成していく。伸ばす音は伸ばし、切るべき音は小刻みに刻んでいく。

 ――やつらは笑う指差して 昔の男と比較して

 ――採点結果は二五点 かったるそうにネタばらし

 良和のギターソロが終わり、再び佐々木が旋律を紡いでいく。繰り返されるコードの進行。音の流れ。時折、藤田はベースラインを変化させ、同じコードの中にも変化を生み出す。それに呼応するかの様に高木もタムを鳴らしたり、響かせるシンバルの種類を変えていく。

 こうやって良和たちはステージの上で世界を広げてきたのだ。いついかなる時もそれは変らない。例え最愛の人と別れたとしても、その最愛の人と友人が付きあっていたとしても、それは変らない。音楽の時間が始まってしまえば、そんな人間の社会的に事情とは別の世界へ飛んでいけるのだ。それは音楽を聞く側でも、奏でる側でも変らない。圧倒的なパワーで引っ張っていく、引きずっていく、放り投げていく。

 演奏は順調に進んでいった。時折MCを挟みながら五曲中四曲を演奏し終えた。アンプの上に置いてある水を口に含むメンバーたち。ライトで照らされるステージは、見た目以上に暑いので身体から出ていく水分は、普段の倍近い。

 ようやく落ち着いてきた良和は客席を見渡す。いつもよりも人が多く感じられる。必要以上の光量でステージは照らされているため、明かりの落とされた客席でも後ろまで見渡す事が出来る。今日は後ろまで人がびっしりだった。ふと良和が下手の方へ視線を向けると、香里奈の姿があった。ベースの担当である藤田の目の前にいた。笑顔を浮かべながら、その大きく、光り輝いた瞳から発せられる視線を藤田のみに向けていた。

 水分補給を終え、良和と藤田がそれぞれの楽器のチューニングを行っていると佐々木が口を開いた。

「次の曲で最後です」

 普段のMCは高木が行っているのだが、この時だけは佐々木が行う。普段の佐々木からは想像の付かない、静かな声だった。観客の目が、全て佐々木に向かっていったのが感じられる、香里奈も例外ではなく。

「これからこの曲を、ここにいる、心と耳がある人たち全員に捧げます」

 佐々木から発せられる得ない野知れない重圧からかどうかは分からないが、三階は静まりかえっていた。本番直前の静けさとはまた違う、重苦しい静かさだった。観客を選別するかの様な鋭い眼差しが、良和からも見る事が出来た。

 ふと、佐々木が良和の方を向く。先ほどの鋭い目つきとは全く違う、優しい瞳で良和を見つめた後、頷く。最後の曲は良和のギターから始まるのだ。佐々木は目で問う、これからが本番だぞ、と。良和はその佐々木の瞳に答える様に、演奏を開始する為に姿勢を正す。そしてつかの間の沈黙。良和と佐々木以外の人間は、みんな固唾を飲んで二人を見守る、高木と藤田、香里奈も例外ではない。みんな期待する、待ち望む。

 佐々木と良和がお互い同時に頷き合い、良和は右手を振り上げた。空気の変る場内、一瞬にして限界まで張り詰めていく世界、それを良和の鋭いピッキングによってはじき出されたサウンドによって切り刻まれた。テクニックも何も無い、六本ある弦全てを鳴らすコードストローク。響く音は同じ、それでも絶妙な力加減によって表情が変っていく。

「っしゃあ! ぶちかまそうぜ!」

 良和は、目の前に置かれているコーラス用のマイクに声が入らない様に、バンドメンバー全員に聞こえる声で叫ぶ。にやりと意地の悪い笑みを浮かべたのは佐々木だけ。高木と藤田はあっけにとられた表情を返す。

 良和のオブリガートと同時に高木と藤田の音が広がり、最後の音楽が動き出した。太鼓のビート、ベースの低音、これらを得た良和の音楽は加速していく。あらかじめ決めておいたギターのリフを奏で上げていく。AC30から吐き出される音は歪みきってないものの、全く歪んでいない訳でもない。今良和が所有しているテレキャスターとAC30の購入の決め手となったクランチサウンド。乾いた硬質なサウンドが、三階の壁という壁を振動させていく。シングルコイルの持つ特性を最大限に活用した、歯切れの良い音。まるで渦が巻いているかの様なフレーズを弾ききった後に、佐々木の歌声が入ってきた。

 ――いつの日か願った空を 日が暮れるまで眺め続け

 ――いつの日か願った明日は 鏡のなかへ沈んでいった

 誰か特定の人間に語りかける歌声。今まで力を込めて、がなり立てる歌声だったのが、この曲でいきなりしっとりとした歌声になった。静かに、それでいてバンドのサウンドに埋もれない力強い歌声。

 良和も、佐々木の歌が入っている時はギターが目立ちすぎない様に、ストロークではなくアルペジオでコードを構成していく。今までとは正反対の静かな歌。先ほどまでの四曲が激しく動きのある曲だとしたら、この曲はその対極、静かで落ち着きのある、山に流れる静かな清流そのもの。三日前の練習ではもっと勢いのある曲だったはずなのに、本番になって表情が変った。その変化の中心に立つのは良和と佐々木だ。彼らが変ったのだ。高木も藤田は、そんな良和と佐々木に引っ張られていく。本番で変化があっても、一体感を持って奏でていく旋律。

 佐々木の歌声が止んだところで、良和は再びイントロ同様に主役に躍り出る。しかし激しく前に出ない。先ほどまで弾いていたアルペジオのフレーズを少し変えるだけ。佐々木に旋律の受け渡しをしやすい様な、優しい旋律。そんな良和から受け取った旋律というバトンを、佐々木は再度受け取る。

 ――道の後ろに立つ影を 手にした絵の具で塗り替えて

 表情を少しずつ変えていく旋律。佐々木の声は徐々に徐々にと、その心の内に秘めた炎を声に乗せ始め、それに呼応する様に良和も奏でる音の数を増やしていく。

 ――道の前には影はなく

 そして高まっていく焦燥感。セブンスコードで奏でられていく進行。今にももろく崩れ去ってしまいそうな音の壁がそそり立つ。

 ――僕の行き先かわらない

 不安定に積み上げてきた壁が、良和のたった一つの音で崩壊する。

 天に昇っていくかの様に、音の階段の駆け上がっていくチョーキング。ベントされた音色の頂点に、今で溜めに溜めてきた焦燥感を解放する音があった。

 ――笑顔を盾に 感謝を剣に これで良かったといいきかせ

 崩壊した壁に塗り込まれていた焦燥感が下り落ちていく。重力の恩恵を受け加速していくかの如く、バンドの演奏も加速してく。

 ――楽しかった日々を噛み締めた

 暴れ狂うテレキャスター。落下していく感覚に任せて強くかき鳴らす良和のピッキングを、寸分の狂いもなくAC30へ伝えていく。良和の代わりに泣き叫ぶ音色。ボーカルは己の喉から発する音に意味を込める事が出来るが、ギターはそれが出来ない。複数の音のつながりでしか意味を持たせる事は出来ないのだが、今は違った。この世に製造されてからどれほどの月日が経っているのかは分からないが、その積み重ねてきた歴史の中で培われてきた自我が目覚め、今、まさに持ち主の声を代弁しているのではないかと思える、その情熱的な音。

 ――西へ向かうよ さようなら

 ――もう戻らない さようなら

 佐々木から二度目の旋律のバトンを受け取った良和とテレキャスターは、その勢いのままギターソロに入っていく。テレキャスターの音色が踊る。良和のピッキングのニュアンスを確実に伝え、それでいて自らも歌い出すテレキャスター。熱の籠もった会場に吹く、肌寒い音の風。その風は皮膚に伝わる事はなく、心に直接当たる。このギターソロでテレキャスターが歌い上げる。良和は目を瞑り、己とテレキャスターが奏でる世界に身を落とす。

 ボロボロになりながらも、時には涙を流しながら、時には助けられながら上ってきたこのステージ。上手く言葉に表現出来ない、香里奈への想いをぶつけたこの曲。無意識に配置された音楽的な感情、意味、由来をテレキャスターが代弁する。悲しみのド、愉快なド、加速するド、最果てのド……同じオクターブの中の同じ音。楽譜の上から見れば全く同じ、同一のモノだが、紙面では表せないその決定的なニュアンスをテレキャスターが拾っていく。二小節伸ばされた同じ音だったとしても、恋慕から孤独へとグラデーションで色を変えていく。少しの音の揺れで、聞く人の心を最大限に共鳴させていく。

 観客は何も言わなかった。ただひたすらに、目を(つむ)り、涙を流しながらギターを演奏する彼を見ていた。名前も、性別も、年齢も同化した世界の中でだだ一人、別に輪郭を持った彼が泣いていた。ギターに声を託しながら、ギターと一緒に泣いていた。

 ――日の出を背中にさようなら

 演奏が終わり、鳴り響く拍手。収束していくハイウェイの世界。一人一人の境界線が戻っていく最中、一人だけその世界に取り残された彼はギターを持ってステージを下りていく。盛大なアンコールの声を背中にして、彼は1人、下りていく。


 fin.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ