魂が本体だという確信の罠
さて、私は魂が本体で肉体はかりそめの入れ物であると確信を得た。この時、私は人間ではなくなっている。正確に言うのなら人間的な感性が無くなったのだ。
死は悲劇では無くなり在り方が変わっただけになり、死を悲しまなくなる。殺人も強盗も暴行傷害も罪ではなく自分を知るための手段となる。
この考え方は悪役そのものだ。
他者の権利を尊重せずに生きた場合、社会にとって害悪でしかない。私はそれを知っている。だからしない。ただし、これは私の考え方であり生き方だ。肉体はかりそめの入れ物だが、私はこれを無意味に壊されたくはないし痛い思いもしたく無い。
肉体はかりそめだが、因果応報は存在しているので、やられたくない事はしない。それが、どんな状況であったとしてもしない事が大切なのだ。
状況によっては殺人をしたり暴行を行う。これは、本当の意味で平和の神に仕える信徒の行動ではない。だから、私はしないのだ。
魂が本体だという確信を得た後で、あなたがどのように振舞うのかちゃんと決めた方が良い。なんでもして良いのだから他者に酷いことをしても良いとはならない。やった事は返ってくる。その前提で自分がやられても困らない事をしていくのだ。
そうしなければ、多くの物語で語られる魔王や身勝手な神と同じ存在に成る。彼らは人間の命を尊重しない。ゆえに、嫌われて滅ぼされるのだ。創造神も本質的には同じことをしているのだが、違う部分がある。
それは、苦しめた存在と意識を共有している事だ。自分が悲劇を描いたのだから自分で体験する。その為の分け御霊なのだ。だからこそ、自分の人生が今まで辛く苦しいものだったのなら、見返りが有るのだ。
ただし、それは自分が創造神の一部だと認識しないと実現しない。
認識した時に世界は変わり始める。世界が変わるには時間がかかる。私の場合は世界を変えるまで十年を要した。あなたは、何年で変える事が出来るか、何年後だったら理想の人生に成っているのか納得できる年数が思い浮かんだのなら、後は待つだけで良い。
正義の味方という矛盾した存在について言及しておく。
彼らは、暴虐の限りを尽くす悪を倒すために暴力で殴って黙らせるか殺す。悪と何が違うのだろうか?自分の正しさを証明する為に暴力で解決する。これはお互いに価値観を押し付け合っているだけだ。
正義と悪は同じなのだ。切り分けた時点で平和ではなく争いの世界になる。解決方法は一つだけ、価値観が違うのだから押し付けるのではなく住み分けるのだ。
これが天国と地獄の概念だ。
二つの世界は交わる事が無い。在り方が違うのだから分かれて暮らす。それが正解なのだ。自分の在り方だけ正しいと思った時、あなたの前には異なる価値観を持った存在が現れてあなたを間違っていると断罪してくる。
その時、『私の方が正しい』と言い返したのなら、あなたは争いの世界から抜け出せなくなる。『そういう考え方もあるよね』と言って争わずに『でも私は違う生き方をしているからあなたとは一緒に居れない』と言えば良い。
言わなくとも行動で示せばいい。距離を置く逃げる無視する。それだけであなたの世界は平和に成るだろう。




