第13話 気圧変化になぶられる才女──百妖箱モモの前で、ひとりだけ前線通過中──
グラウンドの隅。雑草に包まれた古い百葉箱の前に、マホはしゃがみ込んでいた。
白手袋をした手が、まるで祈るように扉を撫でる。
「……モモ、お願い。もっと、私の中を計って……」
まるで愛を囁くような声。
そして彼女はゆっくり、ポーチから一枚の天気図用紙を取り出した。
「気圧変化のない日なんて、刺激が足りないわ……」
「もっと……もっと気圧変化がほしいの……」
カチカチッ――
製図用シャープの芯が紙に当たる音が、小さく、でも狂気じみて響く。
「964……968……972……詰める……もっと詰めなきゃ……」
地図の上に、均等間隔の等圧線がぎっちりと、吐息に合わせて描かれていく。
その線はまるで、自分の内圧を閉じ込める拘束具であり、快感の縄であった。
「見て、モモ……私の“低気圧”……昨日からずっと停滞してるの……」
「今夜はここに前線も発生させる予定……ふふふっ……」
――その光景を、遠巻きに見ていた四人がいた。
「おい……マホ、何してんだ……?」
リョウが眉をひそめる。
「え、アレ、天気図だよね……?」
レオは目を細め、遠くから見ても線が黒く密集していることに気づく。
「ってか……あんな詰めて描くもんなの……? 線と線の間、無くない……?」
ミオは声を潜めて囁く。
「やば……あれ完全に“気圧中毒”……」
ハヤがぼそっと呟く。
マホは天気図を静かに胸にしまい、百葉箱の扉を開けた。
並ぶ温度計、湿度計、そしてアネロイド気圧計。
マホは温度計の液溜まりにそっと指を這わせる。
「ふふ……私の刺激で、液が……登ってきた……」
管の中で膨張する赤い液柱。
その熱は、まるで彼女の体温と感情のリンクのようだった。
「血液のような赤い液が…細い管をみなぎってるわあ…」
彼女の吐息が百葉箱の中の湿度を上げる。
湿度計の繊毛が震え、相対湿度93%に達した時――
「……あっ、ダメ……私の、ここ……湿ってきた……」
「し、湿ってるっ……! どこが……!?」
露が、結露が――彼女の身体に浮かび上がる。
「だめ……っ、露点……私、飽和してる……っ!」
息が荒くなり、彼女の内なる観測系が崩れ始めたその時、
百葉箱のアネロイド気圧計が、音を立てて動いた。
グッ……ギュン……と針が沈む。
「や、やだ……針が……また動いた……」
「そんなに激しく、深く……っ」
995……992……990hPa。
「この……気圧の乱れ、体の芯まで……かき乱されて……っ!」
彼女は頬を紅潮させ、喉を震わせて囁く。
「これは、嵐……私の中に、嵐が来てる……」
気圧は、快楽。
等圧線は、拘束。
マホは、気象の奴隷。
思考はフェーン現象のように高揚し、
視界は閉塞前線のように重くなる。
そして――
999.8hPaを割ったその瞬間。
「ひゃあっ……! いま……私の……最低気圧、更新っ……!」
ふわり、身体が浮く感覚に襲われる。
気象現象にしては、あまりにも淫らすぎる、才女の絶頂。
それでも気圧は止まらない。
次は上昇。1020hPaまで跳ね返る。
「高気圧に……圧される……この圧、支配……私、好き……っ!」
「でも次は低気圧……引き裂かれて……宙に浮くっ……」
気圧の乱高下。自然の“なぶり”。
もはや自律神経も観測不能。
吐息は荒れ、膝は崩れ、百葉箱モモにしがみつき、
マホは――観測不能の存在へと溶けていく。