国を盗れだって?
興平2年(195年)2月 徐州 下邳国 下邳
「そんな有り様だったなら、お前が国を盗ればよかったんだ。そう言い残しただろう?」
「あの状況でそんなこと、できるわけないでしょうっ!」
劉備さまの無神経な物言いに、思わず怒鳴り返してしまった。
それぐらい腹の立つ言葉だったのだ。
この私に、国を盗れだって?
するとさすがに劉備さまも悪いと思ったのか、ばつの悪い顔で謝罪する。
「おいおい、そんなにムキになるなよ……悪かった。俺が無神経すぎたって」
それを見て私の怒りも減じたが、せっかくなので嫌味を言っておくことにした。
「安易に国を盗れなどと言いますが、あなただってさんざん好機を逃してきたではありませんか。劉表が死んだ後といい、益州で劉璋に迎えられた時といい」
「うへえ……そ、それはだな、体面ってものがあるじゃねえか」
「私にだってあります!」
「ぐう……」
そう、劉備さまだって、さんざん国盗りの好機を逃してきたのだ。
まず劉表が死んだ後、私はすぐさま荊州を奪うよう進言したのに、”それは忍びない”とか言って逃げた。
あの時、決断していれば、もっと効率的に曹操に抵抗できたかもしれないのに。
さらに益州で劉璋に迎えられた時にも、彼を捕らえて実権を奪えと、龐統が進言したそうだ。
しかし劉備さまは、”今はその状況ではない”と言って退けた。
おかげで益州を平定するのに、3年もの時間が掛かってしまったのだ。
そんなことをしておきながら、他人に国盗りをたやすく示唆するのは、公平でないだろう。
私だって、”主君の国を奪った不忠者”、などと言われたくない。
そんな私たちのやり取りを見ていた関羽が、遠慮がちに訊ねる。
「あ~、諸葛亮どの。貴殿はどのような状況で、国盗りを示唆されたのかな?」
「はい、あれは劉備さまが白帝城で体を壊し、明日をも知れぬ状態になった時でした。劉備さまはご子息たちを呼び寄せ、私の前でこうおっしゃったのです」
”君の才能は曹丕の10倍はある。きっと国家を安んじ、最後には大業を成し遂げられるであろう。もし劉禅が補佐するに値するなら、補佐してやってくれ。しかしそうでないのなら、君が国を奪うがよい”
それを聞いた関羽は、ひげをしごきながら言う。
「ふむ、それはまた難しい話だな。ちなみに貴殿は、それにどう答えたのだ?」
「はい、私は ”心から股肱の臣として力を尽くし、忠誠を捧げます” と、そう答えました」
「ふ~む、その状況では、そう言わざるを得んだろうな」
「ああ、いくら国を盗れと言われたからって、素直にやれるもんじゃねえ。逆にそれ、諸葛亮の手足を縛ったようなもんじゃねえ?」
関羽・張飛にそう言われ、劉備さまが反論する。
「ええっ? 俺が悪いの? ちゃんと俺は劉永のやつに、”わし亡き後、汝ら兄弟は諸葛亮を父と思って仕えろ。彼と相談して国事を諮るのだ”って、言い聞かせたんだぜ」
「ええ、まあ、たしかにそう言ってくださいましたね」
たしかにそう言っていた。
しかしそれに一体、どれほどの意味があったのだろうか。
考えてみれば、あの時の私は、劉備さまへの忠誠心に酔い、自らの手足を縛ったようなものであった。
彼が意図的にそう導いたというなら、相当な悪党である。
そう思って目の前の男を見やると、彼はきょとんとした顔で言う。
「なんだよ、諸葛亮。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。実は関羽や張飛とは、互いの欠点を指摘しあって、今後に活かそうとしてるんだ。この際だから、お前の話も聞きてえな」
「プフッ」
そんな声を聞いて、思わず吹き出してしまった。
そうだ、このお方はこういう人だった。
粗野で悪知恵も働くが、根っからの楽天家で、皆を引っ張る魅力がある。
おそらく白帝城での言葉も、裏などなかったのであろう。
ただ我が子の将来を憂い、そして私のことまで心配してくれたのだ。
そういうことにしておこう。
「おいおい、ふいに笑いだしたと思ったら、勝手に納得したような顔しやがって。一体、どういうことだよ?」
「フフフ、すみません。あの時のことを思い出して、感慨にふけっていました。劉備さまは私のためを思って、そう言ってくれたのですよね。それを私が、勝手に自縄自縛に陥ったのだな、と」
「お、おう……そうなのか? まあでも、俺がまともな後継者も準備せず、お前に後始末を押し付けたのは事実だ。それは申し訳なく思ってるよ」
「いえ、全て承知で引き受けたのですから、お気にやむ必要はありません。しかしまあ、実際に大変でしたが」
それからまた、私の昔語りが始まる。
なんとか北伐を敢行はしたものの、その結果は芳しいものではなかった。
最初は祁山まで進出しただけで、周辺の勢力が降伏してきた。
そのまま周辺に圧力を掛け続けていれば、涼州の大半を味方につけることも、できたかもしれない。
しかし曹魏は予想外の大軍を差し向けてきて、私はその対処を馬謖に任せた。
必ずしも敵を打ち破る必要はなかったので、手堅く守るよう指示をして。
しかし愚かにも馬謖は高台に布陣し、水の手を絶たれて自滅したのだ。
それを聞いた時の怒り、やるせなさと来たら、言葉にも表せないほどだ。
そんな想いを吐き出すと、劉備さまが悲しい顔で言う。
「やっぱりか。どうもあいつは虚栄心が強すぎて、危ないものを感じてたんだよな」
「はい、劉備さまに注意されていたにもかかわらず、重用してしまった私の落ち度です。しかし荊州閥の士気を高めるためには、そうするほかなかったのです。せめて白眉(馬良)どのが生きていれば、違った手も打てたのですが……」
「うっ、それを言われると弱いな……馬良を無為に死なせちまったのは、俺だからな」
「いえ、そんなことを言い出したら、きりがありませんよ。確かなのは、私もいろいろ間違ったということです」
「そうか……そうだな。俺も身につまされるよ」
「それは我らも同感だ」
「だな」
私が素直に反省すれば、劉備さまだけでなく、関羽・張飛も神妙にうなずいている。
前生ではそれぞれに誇り高く、失敗を認めたがらなかったというのに、ずいぶんと変わったものだ。
それがおかしくてちょっと笑うと、劉備さまに問われる。
「なんだ? 何か笑うようなこと、あったか?」
「いえ、私だけでなく、皆さんも素直に自身の非を認めているのが、ちょっとおかしくて」
「ああ、それはそうだな。前生なら、こうはいかねえ。だけど一度は死んだ身だと思うとさ、些細なことはどうでもよくなっちまうんだよな」
「うむ、自身の愚かさで身を滅ぼしたと思えば、謙虚にもなろうというものよ」
「だな。敵じゃなくて味方に寝首をかかれたとか、恥ずかしくて仕方ねえ」
それぞれが恥ずかしそうな顔で、心情を吐露している。
まあ、一度は死んで、過去に戻るなどという、異常な体験をしているのだ。
このような態度になるのも、当然かもしれない。
やがて張飛が、話の続きを促してきた。
「それで馬謖のせいで、その北伐ってのは失敗に終わったんだよな?」
「ええ、あの状況で敵の攻撃に耐えることはできなかったので、全軍を撤退させました。途中で涼州の民を漢中へ移住させたり、桟道を焼き払うぐらいしか、できませんでしたね」
「まあ、そうなるだろうな。でもそれだけで終わりには、ならなかったんだよな?」
「ええ、その後も陳倉へ侵攻したり、また祁山を攻めたりしましたね。しかしどちらも兵糧が不足して、短期間で撤退しています」
「益州からじゃ、険しい山を越えなきゃいけねえからな。現地で調達できなきゃ、そうなるわな」
「ええ、2度め以降は、敵も警戒していましたからね」
するとそこで、関羽がため息をついた。
「はあ……結局は儂の失態が始まりか。儂が荊州を盗られなければ、兄者が敗走することもなく、曹操を攻める手立てはいくらでもあったのだ。本当にすまぬ」