それぞれの失敗
興平2年(195年)2月 徐州 下邳国 下邳
劉備さまに面会した結果、互いに前生の記憶があることが判明した。
その原因こそ分からないが、まずは互いの記憶をすり合わせる。
「俺が死んだのは、即位してから2年後だったな。諸葛亮はそれからどうしたんだ?」
「はい、劉備さまをはじめ、多くの将兵を失ったので、しばらくは立て直しに専念せざるを得ませんでした。まずは孫呉との関係を結び直したうえで、国内の安定に注力する、という感じでしたね」
「うっ、そいつは悪かったな……あの時はどうにも孫権のやり方が許せなくてよ。突っ走っちまったんだ」
劉備さまは頭をかきながら、当時の行動を詫びてくる。
それについては私も、多少は恨めしく思っていたが、あえて慰めの言葉を口にした。
「いえ、我が国の戦略上、荊州は必要でしたから、まったくの間違いではなかったと思います。私も止めなければと思いつつ、あわよくば荊州を取り返してくれないかと、欲を出した結果があれです」
元々、荊州から洛陽方面を攻めると同時に、益州から長安を攻めるのが私の戦略だった。
益州から攻め上がるだけの北伐には、最初から無理があったのだ。
そこで荊州の奪還を期待して、孫呉との決戦を黙認してみれば、より多くの犠牲を払うことになってしまった。
それを自身の責任と感じたのか、関羽どのが苦い顔で割って入る。
「んんっ! それについては、儂が油断して孫権にやられたのが原因だ。兄者だけの責任でもないであろう」
「あ~~……それを言うなら、出陣を前にして配下に寝首をかかれた俺も悪いな。兄貴たちだけのせいじゃないぜ」
すると張飛どのまでが、自身の誤りを認めてくる。
私はそれを聞いて、思わず自分の耳を疑った。
「髭どのだけでなく、張飛どのまで、どうされたのですか? なんというか……ずいぶん謙虚になられましたね」
「フッ、そう言ってくれるな。自身の失態で一度は死んだとなれば、いろいろ思うところがあるのだ」
「そうそう、穴があったら入りたいってやつよ」
関羽・張飛の両名が、苦笑いしながら応える。
両名とも前生では、万夫不当の武人として有名だっただけに自尊心が強く、扱いにくい部分があった。
それがあっさりと自身の否を認めるのだから、違和感を感じるのは仕方ないだろう。
すると劉備さまもそれに続く。
「いやいや、一番わるいのは、やっぱり俺だろ。せっかく漢の社稷を継いで、これからって時に、怒りに任せて戦を仕掛けちまった。その結果、諸葛亮たちには、ずいぶんと迷惑を掛けたんだろうな」
「いえ、そんな。おそれ多い」
「そんなことはねえだろう。とりあえず、その後の話を、もっと詳しく聞かせてくれねえか?」
「はあ、そうおっしゃるのであれば――」
私は望まれるままに、劉備さま亡き後の益州について語った。
真っ先に孫呉との関係を改善してからは、劉備さまの喪に服すと言って、統治機構の安定と民心の慰撫に努めた。
そして一応の安定を見てから、今度は南蛮西南夷の鎮撫に取りかかったのだ。
まずは私が大軍を率いて、越巂郡に攻めこんだ。
そこで私は、ある者は討伐し、またある者は何度も捕らえて服従させたりした。
他にも馬忠や李恢などの働きにより、益州南部は格段に安定したのだ。
もちろん、そのままでは再び乱れかねないので、巧妙な統治を施してもいる。
血の気の多い連中を移住させたり、各地の部族を血縁や武力で管理できるようにしたのだ。
おかげで南部からは、豊富な物資や兵力を、安定的に得られるようになった。
そんな話を語って聞かせると、劉備さまが感心したように言う。
「なるほど。さすがは諸葛亮だ。けっこう上手くやったようだな」
「いえ、それほどではありませんが……まあ、苦労はしましたね」
「そりゃそうだろう……ところで、劉禅のやつは、おとなしく言うことを聞いたのか?」
「はあ、それは、まあ……」
やはりその話になってしまうか。
そう思いながら、私は言葉を濁した。
すると劉備さまは予想していたらしく、あっさりと状況を察したようだ。
「……あ~、やっぱり何か、やらかしてたか。ちゃんと釘を差したつもりだったんだがなぁ」
「いえ、まあその……いろいろありますから」
私はなおもごまかそうとしたが、淡々と問いつめられて、とうとう観念した。
「最初は劉禅さまも、おとなしかったのです。私が国政を仕切るのに、協力してくれました。しかし当然ながら、皇帝という地位にあれば、甘い汁を吸おうとする者どもが群がってきます」
そう、劉禅も最初はおとなしくていたのだ。
しかし欲に目のくらんだ者たちが周りに集まると、彼もその口車に乗せられて、次第に口を出してくるようになった。
それは官吏の選定法がおかしいとか、どこそこの利権が独占されているとか、そんな話だ。
私たちが少しでも国力を増そうと知恵を絞っているのに、それを不公平だと騒ぎ立てる者は後を絶たない。
そんな目先の欲にまみれた訴えを聞いて、劉禅はいちいち私に問いただしてくるのだ。
ただでさえ忙しいというのに、そんな雑事に時間を取られていては敵わない。
私はとうとうブチ切れて、劉禅に面会する者の条件を大きく制限した。
それでも彼の愚行はなかなか改まらず、北伐の前には”出師の表”として、ぶっとい釘を差したほどだ。
”余計なことを言わずに、私の信頼する配下の指示に従え”とか、本来は主君に言うようなことではないだろう。
しかしそんなことを言わずにいられないほど、劉禅には資質がなかったのだ。
そんな話をポツポツと語ると、劉備さまがため息をつかれる。
「はぁ……そいつは迷惑を掛けたな。我が息子ながら、あいつには芯みたいなものがなかった。大方、周りの意見に左右されるばかりで、自分の立ち位置を理解できてなかったんだろうな」
「……まあ、そうでしょうね」
劉備さまもある程度は分かっていたようだ。
それだったら、なんとかしておいて欲しかったと思うのは、私の我がままだろうか。
そんな思いがよぎったところへ、ひどい言葉が放り込まれる。
「そんな有り様だったなら、お前が国を盗ればよかったんだ。そう言い残しただろう?」
そのあんまりな言いざまに、私の中で何かがキレた。
「あの状況でそんなこと、できるわけないでしょうっ!」
”出師の表”といえば、諸葛亮の国への思いと、北伐に臨む気概があふれた名文、と言われるものです。
しかし冷静な視点で眺めてみると、劉禅に対しては失礼な部分が目につきます。
例えば、”お前はヘリクツをこねて、勝手に法を曲げるんじゃねえぞ”とか、
”後のことは信頼できる配下に任せてあるんだから、お前は判断するな”とか、
”劉備はお前ら兄弟が私の言うことを聞くように遺言したんだから、ちゃんと守れよ”、なんて言ってるから。
もちろん意訳ですが、かなり不遜な物言いが混じってるのは事実です。
それだけ劉禅が困ったちゃんだったのか、それとも諸葛亮が傲慢だったのか?