彷徨う怪異
「では、ラリサ。行ってくるよ」
「はい。お気を付けて」
「……」
「……旦那様?」
「夜は冷えるから、暖かくするように」
「はい。先程も伺いましたわ」
「何かあったらカロルに言うんだよ」
「それも聞きました」
「リリアークはこう見えて強いから、遠慮なく頼っておくれ」
「うふふ。分かっておりますわ。全部お言い付け通りに致しますから、安心して行ってきてくださいませ」
「そうか……では、行ってくる」
「お帰りをお待ちしておりますわ」
出立しようとする度に何度も振り向く公爵を今度こそ送り出したラリサは、巨大なコウモリに化けて飛び立つ夫の姿を見えなくなるまで見送った。
夜空に浮かぶ月のように、心がポッカリと空いてしまったような不思議な感覚を覚えながらも、気を取り直したラリサは家令に向き直る。
「カロル、私……お庭を散歩してから戻りたいわ」
「畏まりました。お供致します」
頭を下げたカロルを伴って、ラリサは月夜の庭を散策した。
遠くから聞こえるオオカミの遠吠えやフクロウの鳴き声がなかなか風情があっていい。
ジメッとした夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだラリサは、ニワトリの代わりに飼っているコカトリスに餌をやったり、マンドラゴラの畑に水をやったりして夜のひと時を過ごした。
何だかどうにも落ち着かず、体を動かしていたい気分だったのだ。
いつも公爵が優しく見守ってくれていることに慣れ過ぎてしまい、気を抜けば振り返って『旦那様、』と声を掛けてしまいそうで、ラリサの意識は漫ろ。
そのため暫く気が付かなかったが、ラリサはふと下を向いた拍子に違和感を覚えた。
「あら? リリアークの元気がないみたい」
ラリサが作業している間、翼の先の小さな爪で必死にラリサにしがみ付いていた公爵の分身リリアークは、時間が経つごとにしゅんと耳を下げていたのだ。
「ラリサ、いない、かなしー、ラリサ、あいたい」
甲高いが、どこか物悲しげな声音で、リリアークは小さく鳴く。
「さっきまでと違った鳴き声だわ。ねえ、カロル。大丈夫かしら? もしかして、旦那様に何かあったのかもしれないわ」
リリアークだけでなく、リリアークと繋がっている公爵まで心配になったラリサが問い掛けると、カロルは目頭を押さえて一瞬だけ黙した後に、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、奥様。ご主人様は久しぶりの公務に真剣に取り組んでおられるのでしょう。それはもう、リリアークの元気がなくなるくらい熱中しているのかもしれません」
「そうなの? 旦那様が無事ならいいのだけれど……あまり無理をしてほしくはないわ」
二人が話している間にも、リリアークは〝ラリサ〟と〝あいたい〟を繰り返していた。
「ご主人様がお戻りになりましたら、そう伝えて差し上げて下さい。そして次回の視察は是非、奥様もご同行して下さい」
これじゃあ仕事になっていないでしょうから、というカロルの小さな呟きはラリサには届かなかった。
「そうできるといいのだけれど……私、ここに嫁いできて少しでも旦那様のお役に立てているのかしら」
リリアークのフワフワとして温かい体を撫でながら、ラリサは口を尖らせた。
「何を仰います。奥様がいるだけで、代わり映えのない日々を過ごされていたご主人様が、どれほど生き生きと活力を取り戻されたことか。奥様のお陰で我々使用人一同も、とても充実しております」
カロルの心からの言葉に、ラリサはほんの少し口元を緩めた。
「本当? カロルにそう言ってもらえると嬉しいわ」
と、そこで。闇夜を劈くような、笛の音がどこからともなく公爵城に響き渡る。
「あら、どうしたの?」
目を瞬かせるラリサを守るように立ちながら、カロルは周囲に素早く目を走らせた。
「これはケンタウロスの角笛……敷地内に侵入者の合図です」
細かな笛の音を聞き分けたカロルは、パッとラリサを振り返る。
「よりによってこっちに向かっているようですね。奥様、早く城に戻りましょう」
しかしラリサは、カロルの背後を横切った黒い影を見て、その影が飛び込んだ茂みを覗く。
そこにいたのは、真っ黒な犬だった。
「侵入者にしては、随分と震えているわね。迷い犬かしら。ねえ、カロル。保護してあげましょう?」
「奥様が仰るのであれば、そう致しますが……それは普通の犬ではありません。よろしいのですか?」
カロルに言われて改めて犬を見下ろしたラリサ。確かに、カロルの言う通り。怯える仔犬は、どう見ても普通の犬ではない。
「それはケルベロスです、奥様。頭の数をよくご覧になって下さい」
そう言われたラリサは、あろうことかその仔犬を抱き上げた。
「あら、本当ね。頭が三つもあるのね。旦那様にお借りした本で読んだことがあるわ。こんなに怯えて可哀想に。確かケルベロスは甘いものが好きだったわよね? 私のクッキーを持ってきてくれるかしら。それと、音楽も好きなはずだから、掃除係のセイレン達を呼んで子守唄を歌ってもらいましょう」
頭が三つあるのがなんなのか。とでも言いたげなラリサの行動に、怯えていたケルベロスも安心したのか、それぞれの頭をラリサに擦り付ける。それを見ていたカロルは、遠い目をしながらも素直に従った。
「承知いたしました。奥様のご下命であれば。そのケルベロスの餌と寝床を用意いたします」
夜明けの月が少しずつ輝きを失い始めた頃に公爵城に戻って来た公爵は、出迎えてくれた愛妻に蕩けるような笑みを見せた。
「ただいま、ラリサ」
「おかえりなさいませ、旦那様」
ぎこちなくラリサの肩に手を乗せた公爵に対して、ラリサは盛大に背の高い夫に抱き着いた。
「お怪我はありませんか?」
「ああ。君は?」
「特に問題ございませんわ」
互いに見つめ合う二人の間で、リリアークが元気を取り戻して飛び跳ねる。
「旦那様、実はご相談が……」
「ラリサ。帰って早々すまないのだが……」
二人同時に話し始めた新婚夫婦は、それぞれに目を瞬かせてからニコリと微笑んだ。
「君から」
「いいえ、旦那様からどうぞ」
譲り合いの末にコホンと咳払いをした公爵が、後方に目を向ける。
「領地の隅で怪我をしていてな。親もおらず、恐らく育児放棄されたのではと保護して連れてきてしまった」
そう言って公爵が見せたのは、鷲の頭と馬の体を持つ、まだ小さいヒッポグリフだった。
「あら。旦那様もでしたの? 実は私も……」
ラリサが抱き上げたケルベロスを見て、公爵は赤い瞳をパチパチさせ、得心したように頷く。
「なるほど。私達は相変わらず、似た者夫婦のようだ」
「本当ですわね。私達は相変わらず息ぴったりみたいです」
カロルの呆れ果てた視線を感じ取りながらも、公爵は目を輝かせて喜ぶ妻に微笑み掛ける。
「まあ。あれだな。幸福な家庭に愛犬と愛馬は欠かせない。良き巡り合わせだと思って、この子達を迎え入れようじゃないか」
「それはいいお考えです、流石は旦那様! ではこの子はベロちゃんで、その子はグリちゃんにしましょう」
「実にいい名前だ」
こうして公爵城には、今日も新たな仲間が増えていくのだった。
公爵領で新婚の公爵夫婦が迷いケルベロスと捨てヒッポグリフをそれぞれ拾ったその朝のこと。
伯爵令嬢エレナは、博学な執事にとある相談をしていた。
「公爵領に立ち入りたいと?」
「ええ、そうよ。ビクターと一緒に、ラリサの様子を見に行きたいの。どうすればいいかしら?」
「難しいですね。公爵領は危険なため、領地の入口に関所があり、立入りを厳しく制限されているのです。公爵領へはこの関所を通るか、国王陛下専用のゲートを通るしかありません。しかし、訪問するには国王陛下又はドラキュール公爵の許可が必要です」
「あなた、詳しいのね」
「……公爵とその領地のことを、一時期調べていたことがありましたから」
「へえ? 変わった趣味だこと。でも、お陰で役に立ちそうね! 私に協力して頂戴」
「お嬢様のお望みとあれば」
深々と頭を下げた執事のアルミンは、背中に組んだ手を、血が滲むほどに握り締めていた。