妻の血の味
「旦那様がいつも言っているアインさんって、アイネイアス国王陛下のことでしたのね」
「話していなかっただろうか。アインは幼少期をこの城で過ごしたんだ」
カロルの淹れてくれた茶を飲みながら、ラリサは公爵の隣に座って正面の国王を見た。ラリサの視線に気付いた国王は、嬉しそうにニンマリと笑う。
「私は幼い頃、王位継承権を巡る政争に巻き込まれてな。王妃だった母が亡くなり、後ろ盾のなくなった私はこの公爵領に追いやられたのだ。当時の第二王妃や腹違いの兄弟達は、私が吸血鬼公爵に食い殺されるのを望んでいたらしい」
「彼等は煮るなり焼くなり好きにして欲しいと、雑な手紙一枚を持たせた幼いアインを私の元に放り投げて寄越した。まったく王族とは碌でもないなと思ったものだ」
当時を思い出した公爵がやれやれと首を振ると、ラリサはその時の様子を思い描きながら夫に問い掛けた。
「それで旦那様は、陛下を助けたのですか?」
「ラリサ、君は鶏肉を食べるだろう? だが、ある日目の前にボロボロのヒヨコが送り付けられて来たとして、それを焼いて食べようと思うか?」
「いいえ。介抱してご飯をあげて抱き締めてあげますわ」
「だろう。私だってそうしたさ。満身創痍の小さなアインを放っておくことなどできず、公爵城に迎え入れた。そうするうちに情が移り、本当の父子のように過ごすようになった。そしたらあの弱々しかったヒヨコがいつの間にか大きくなって、今や獅子王なんて呼ばれているのだから驚きだ」
感慨深く目の前の国王を見る公爵の瞳には、慈愛が満ち溢れていた。見た目だけで言えば、壮年の国王は公爵よりも歳上に見える。
しかし、国王は子供のように純粋な瞳で公爵に笑顔を向けた。
「父さんがいなければ、私は国王になることはおろか、生き残ることさえできなかった。この感謝をどう返せばいいのか、途方もないほどに幾夜も幾夜も考えてきた」
「そんなことは気にしなくていいと言っているだろう。私にとってお前はいつまでも、小さくて可愛いアインのままなのだから」
血は繋がっておらずとも、二人の間には親子以上の絆があるのだと悟ったラリサは、温かな眼差しの夫を見て柔らかく微笑んだ。
「……そういうことだったのですね。国王陛下、この公爵城には今でも、〝アイン〟さんのいらっしゃった痕跡があちこちに残されておりますわ。アインさんの為に整えられた庭の果樹園。私、あそこの果物がとても大好きですの」
優しいラリサの声音に、国王は少しだけ瞳を潤ませた。
「そうか。私がここで過ごしたのは少年期のほんのひと時だったが、今でも幸せな記憶として私の中に根付いている。その証を大切にしてくれる女性が父さんの花嫁になってくれて、本当に良かった」
「お前は大人になっても涙脆いな。それで、一国の王が、こんな辺境まで何をしに来たんだ?」
公爵から差し出されたハンカチで鼻をかんだ国王は、子供のように口を尖らせた。
「決まってるじゃないか。父さんが幸せに暮らしている姿をこの目で見たかったんだ。何十年も掛かってしまったが、父さんのお嫁さんを見つけてあげるという約束を果たせて安心したよ。父さん、こんなことは言いたくないが……人間の私は父さんを残して逝ってしまうだろう?」
「アイン……」
「私が死んだ後も、父さんを気遣ってくれる人間を見付けたかった。誤解されやすい父さんを理解して支えてくれる人を。だからこその花嫁だったんだ」
自分が花嫁に望まれた理由を知ったラリサは、改めて国王に目を向けた。
「陛下、どうぞご安心くださいませ。私、精一杯お務めを果たしてみせます。この先もずっと、私の全てを懸けて旦那様をお支えしていきたいと思っております」
何の躊躇いもなくそう言うラリサ。隣に座っていた公爵は、妻の美しい横顔に見惚れて魂が抜けてしまいそうだった。
「そうか。私の目に狂いはなかった。いやはや、王都の貴族令嬢は揃いも揃って吸血鬼公爵に怖気付くばかりで、父さんがどんな人かだなんて理解しようともしてくれなくてな。君に会えて本当に良かった」
満足そうに目を細める国王は、仲睦まじく過ごしていることがよく分かる夫婦にホッと胸を撫で下ろす。
国王アイネイアスは、心のどこかでは分かっていた。花嫁を見付けるという自分の一方的な約束が、公爵にとってはお節介以外の何ものでもないことを。
国を巻き込み、誰にも理解されず、妙な噂まで飛び交う中で、それでも国王は決して花嫁探しを諦めなかった。
いつも温かさと優しさを内包している公爵の赤い瞳が、どこか熱っぽさを含んでラリサを見ていることに気が付いた国王は、諦めずにやり切った自分は間違っていなかったのだと、密かに確信してそっと息を吐いた。
「そうそう、それで。今後どうするかも聞きたかったんだ。父さんは放っておくと食事をしなくなるから、定期的に食事用の血液を送らせていたが。今後ラリサがいれば、それも必要ないだろう?」
国王の言葉に、公爵は顔を曇らせた。
「それは……」
「今までの旦那様のお食事はどうされていたのかと疑問でしたけれど、陛下がご準備してくださっていましたの?」
「ああ。不要なら送るのは止めるが、ラリサ。君はどうだろうか? 父さんのために自らの血を提供する気はあるか?」
「……ッ!」
身を乗り出そうとした公爵が口を開こうとしたその瞬間、ラリサは何でもないことのように国王の問いに答えた。
「もちろんです。先日も、ちょうどそのお話をしておりましたの。その時は、私の不注意で叶いませんでしたが……私、旦那様には健康でいて頂きたいので、ぜひ私の血を飲んで頂きたいと思っております。だって、王都から送られてくる血よりすぐ側に居る私の血の方が、ずっと新鮮でしょう?」
「は……?」
ラリサの斜め上な返答に、国王は一瞬呆けたのちに笑い出した。
「ハハハハッ、我ながら素晴らしい逸材を見付けてしまったようだ。父さんの花嫁にここまで相応しい令嬢がいるだろうか。それでは血の件は公爵夫人に一任しよう。頼むぞ、ラリサ。父さんは本当にすぐ食事を抜くから気を付けてやってくれ」
「お任せください、陛下!」
その後も公爵の話で国王と意気投合するラリサを、公爵は何とも言えない気持ちで見つめ続けていたのだった。
公務を抜けてきたという国王は、来た時と同じように勢いよく帰って行った。
静かになった公爵城のいつもの空気を胸に吸い込みながら、ラリサはそっと夫に耳打ちする。
「あの、旦那様……先程は国王陛下に勝手にお答えしてしまったのですけれど、血をお断りしてよろしかったですか?」
今更心配そうに公爵を見上げるラリサ。その真剣な視線を受けた公爵は、フッと息を吐いた。
「正直に言うと、アインの送ってくれる血はどれも不味くてな。恐らくは罪人の血を送ってくれていたのだと思うが、憎悪や恐怖は血を苦くする。同胞の中にはそういった血の味を好む者もいるが、私は幸福な者の甘い血の方が好きだ。だからアインには悪いが、あまり嬉しい気遣いではなかった」
それを聞いたラリサは嬉しそうにキラキラと目を輝かせた。
「まあ、そうでしたの。でしたら私、全力で幸せになりますわ。そうすれば旦那様も美味しく私の血を飲んで下さいますでしょう?」
ラリサは得意げに胸を張ると、公爵の白い手に手を重ねる。
「ラリサ」
大きくて丸い、愛らしい瞳をパチパチと瞬かせたラリサは、公爵に更に身を寄せた。
「先日のニンニクはもう抜けたと思いますわ。せっかくですもの。私の血を味見してくださいませんか? お口に合わなかった時のことを考えねばなりませんもの」
妻の甘い香りに誘われた公爵は、困ったようにポリポリと頰を掻く。
公爵も、本当は甘い香りを漂わせる妻の血を飲んでみたいと思っていた。しかし、そうしてしまえば何かの取り返しが付かなくなり、二度と元に戻れない気がして手を出すことを躊躇っていた。
それが何かと問われれば、具体的にはよく分かっていないのだが。公爵は感覚でラリサの血の味を知ってしまった後のことを恐れていた。
しかし、ここまで覚悟を示してくれる妻に対して、これ以上躊躇い続けるのは不誠実でもある。
「分かった。……痛くないようにする」
ラリサの白い腕を取った公爵がそっと囁けば、ラリサはクスクスと笑い出した。
「それはどうもありがとうございます」
ラリサの声音の中には、『痛くても構いませんよ』という気遣いが滲んでいて、それを悟った公爵は何だか色々と堪らなくなる。
我慢が効かず。かと言って、ラリサが痛くないよう魔法を込めるのを忘れずに。
白く滑らかな皮膚の下に走る血管、そこに流れる真っ赤な血目掛けて、公爵は妻の腕に牙を立てたのだった。