魑魅魍魎の城
「そんなの嘘だ!」
王都の中心にある豪勢な屋敷、シャルぺ伯爵邸の一室で、伯爵の一人息子であるビクターは机に拳を叩き付けていた。
「ラリサが、あの吸血鬼公爵の花嫁になっただと!?」
ビクターが睨み付けている新聞の見出しには、『吸血鬼公爵に嫁いだ生贄妻』と大きく書かれている。そこに載せられた姿絵の女性は、どう見てもビクターの長年の想い人、ラリサだった。
「そんなこと、あるはずがない……何かの間違いだ。絶対そうに違いない。」
ビクターは幼少期から共に過ごし、アカデミーでも共に学んだラリサに、ずっと淡い想いを寄せていた。
少々抜けたところはあるものの、天真爛漫で愛らしいラリサ。あのほんわかした雰囲気に、これまでどれほど癒されてきたことか。
いつか彼女に求婚したい。人生の伴侶として迎え入れたい。そんな想いでいたビクターにとって、この記事は衝撃以外の何ものでもない。
「今すぐ男爵家に行かなければ」
真相を確かめるために、ビクターは郊外にあるラリサの実家へと向かったのだった。
「おや、ビクターくんじゃないか。久しぶりだね」
今にも朽ちそうなボロボロの玄関戸を慎重にノックしたビクターを出迎えたのは、いつもと変わらぬ人の良い笑みを浮かべたラリサの父だった。
「お久しぶりです。あの、ラリサは……」
矢継ぎ早に問い掛ける気満々だったビクターは、ふとあることに気が付き言葉を失う。
驚愕に見開かれたビクターの目が捉えたのは、彼の身に付けている豪華な衣装。常であればツギハギのある流行遅れの服を着ている男爵が、洗練された衣装に身を包んでいる。
「あら。ビクターさん、久しぶりね」
男爵の横から顔を出した男爵夫人もまた、真新しいドレスと大きな宝石のついたネックレスを身に付けていた。
ラリサの両親である二人は、ラリサと同じように素朴で人柄が良く、優しい夫妻だった。それがまさか……。
「ビクター様が来たの?」
更に悪夢はそれだけでは終わらない。夫妻の後ろから顔を出したのは、ラリサの妹のシシー。これまた真新しいドレスに身を包み、首元にはキラキラと光るアクセサリー。
「お客さんが来たって?」
「だれ?」
「何の用?」
その更に後ろから顔を出したのは、ラリサの弟の三つ子達。揃いも揃ってお揃いのジャケットにピカピカの革靴。
三つ子が来たことで開け放たれた扉から見えたのは、愛らしいヒラヒラのドレスに身を包んだシシーの更に下の妹達だった。よく見ると、まだ乳飲み子の末っ子までキラキラと宝石が煌めくヨダレ掛けを着けている。
ビクターは、吐き気がした。
貧乏なはずの男爵家が、家族揃って高そうな衣類やアクセサリーを身に付けている。一億ゴールドのためにラリサが身売りしたという噂は本当だったのだ。
仲睦まじく互いを思い遣る、素晴らしい家族だと信じていたのに。この家族は、大金欲しさにラリサを吸血鬼に売った。なんてことだ。
「ビクターくん?」
プルプルと震えるビクターに、心配した男爵が声を掛ける。伸びて来た男爵の手を、ビクターは思い切り払い除けた。
「見損ないました! まさかこんな家でラリサが育ったなんて! ラリサは僕が救います! 失礼します!」
急に怒鳴り始めるビクターに驚いた男爵家の面々は、呆気に取られて口をポカンと開けた。
「……いったい何だったのかしら」
肩を怒らせて去って行くビクターを見送りながら、ラリサの母である男爵夫人は不思議そうに首を傾げる。
「……まあいいさ。何か事情があるのだろう。それよりも、公爵様から頂いたこのプレゼントは大事にしまっておこう」
「そうね。つい浮かれて身に付けてしまったけれど、こんなに豪華なものをずっと着ているのは気が引けてしまうわ」
「こんなにたくさん……家族全員のプレゼントを贈って下さるとは。それも、子供達それぞれの体格に合うよう配慮して下さっている。ラリサの手紙にもある通り、公爵様はとても良い人のようだね」
「本当に良かったわ。突然国王陛下が来て、ラリサが遠くに嫁いだと聞いた時は驚いたけれど」
「ラリサの手紙だと、毎日楽しく過ごして、公爵様にも大切にされていると言うじゃないか」
「陛下から頂いた一億ゴールドは、借金の返済と子供達の学費に有り難く使わせて頂いて、少しずつでもラリサに返しましょうね」
「勿論だとも。何年かかるか分からないが、必ず全額ラリサに返してみせるさ。そのためにはこれからも節約しないとだな」
「さあ皆。あなた達のお義兄さま、ドラキュール公爵様にお礼のお手紙を書きましょう」
母に声を掛けられたラリサの幼い弟妹達は、一斉に満面の笑みで頷いたのだった。
昼間は寝静まり、夜になると賑やかになる公爵城。
ここに勤める使用人達は一風変わっているのだが、ラリサがそれを気にしたことはただの一度も無かった。
つい先程も、ラリサは自分の元に手紙を届けてくれたハーピーのビィに気安く礼を言ったばかりだ。
「旦那様ったら、いつの間に私の家族に贈り物をしていたのですか? 両親と弟妹達から感謝の手紙が来ておりますわよ」
すっかり慣れた蝋燭生活の中で手紙を読みながら、ラリサは嬉しそうに隣の夫を見る。
「君が家族の話をよくしてくれるものだから、なんだか気になってね。お下がりの服を着回していると聞いたから、新しい服を贈ってあげたかったんだ」
照れ臭そうな公爵を見て、ラリサは声を弾ませた。
「みんな、とっても喜んでますわ。何よりも私が幸せそうだと分かって安心してくれたようです。ほら、これは旦那様宛に弟妹達が書いた感謝状ですわよ」
拙い字で書かれた可愛らしい手紙を夫に差し出すラリサ。柔らかな妻の表情を見た公爵は、読んでいた本を置いてラリサに向き直った。
「これは嬉しいプレゼントだな。大事に保管しておこう。ところで……君はこの城で、ちゃんと幸せに暮らしてくれているのか?」
「はい。とてもとても幸せですわ。毎日が刺激的で楽しくて仕方ありません。このお城は面白いものばかりですもの。それに旦那様と過ごす時間もとっても好きです。使用人達も優しくて、面白くて飽きませんわ」
普通の人間が一人もいない公爵城を、ここまで気に入ってくれる女性が他にいるだろうか。
公爵は改めて、嫁に来たのがラリサで良かったと思った。
「いつか私もラリサの家族に会ってみたいものだ」
「それでしたら私も、旦那様がいつも話しているアインさんに会ってみたいです」
目をキラキラと輝かせそう言ったラリサに、公爵は首を傾げる。
「アインに? しかし、君は……」
と、そこで。家令のカロルが慌てて書斎に入って来た。
「ご主人様、困ったことになりました」
「カロル。どうしたんだ?」
「すっかり失念しておりましたが、今宵は満月です」
窓の外を見上げた公爵は、霧夜に浮かぶ真ん丸な月を見てハッとした。
「まずい。すっかり忘れていた」
「満月ですと、何か問題がありますの?」
「満月の日はシェフが休みなんだ」
「シェフ……と言いますと、あの気の良いルペルがですか?」
ラリサはいつも美味しい食事を作ってくれる、大柄で優しい顔のシェフを思い浮かべた。
「あいつは人狼だから。満月の夜は料理を作れる状態じゃなくなってしまってね。君の分の食事をどうするか考えていなかった」
「ルペルも奥様が嫁いできて下さったことに浮かれて満月のことを失念していたようです。料理の作り置きも残していないようでして……今夜起きたらオオカミの姿になっていたと、それはそれは落ち込んでいました」
どうしたものか、と唸る公爵に向けて、ラリサは得意げに胸を張った。
「それでしたら、私が自分で調理してもよろしいですか? 実家では料理の担当も私がしておりましたの」
「君が?」
「はい。ここに来てから美味しいものばかり食べさせて貰っていたので、たまには自分で作りますわ」
「君がいいなら構わないが……すまないな、配慮に欠けていた」
「何を仰いますの。いつも充分よくして頂いています。これからは私もこの城の女主人として使用人の方々に気を配れるようになりませんと」
頼もしいラリサの言葉に、公爵は柔らかく微笑んだ。
「そう言ってもらえると助かるよ」
何を作ろうかしら、と立ち上がったラリサは、ふと思い直して公爵の隣に身を寄せた。
「旦那様もお食事をなさってはいかがです? せっかく私が嫁入りしましたのに、旦那様ったら一度も私の血を召し上がっておりませんでしょう? 私、旦那様が心配になってしまいます」
口を尖らせるラリサに、公爵は目を瞬かせながらも今更なことを口にする。
「ラリサ。初めて会った時から思っていたのだが。君は私のことが恐くはないのか?」
「恐い? どうしてです? 旦那様はお優しい方です」
「いや……普通は吸血鬼と聞くと恐がるものだろう。君はここに来た時から私が吸血鬼であることなんて少しも気にしないでいてくれたが、大抵は血を啜る化け物に嫁ぐなんて嫌がられるものだ」
公爵の問いに、ラリサはますますわけが分からず首を傾げ続ける。
「だって、人間も動物の肉を食べますでしょう? 生き物にはそれぞれに適した食事があるのです。旦那様の食事が血だからと言って、何が恐いというのですか?」
本当に分からない、という顔で瞬きをするラリサ。
これまで当たり前のように人間から恐れられ、散々遠巻きにされてきた公爵は、目の前の妻の様子に戸惑いながらも。今までに感じたことのないような、温かな感情が身の内から溢れ出してくる気がした。
「……だったら今宵は君の血を頂こうかな」
ポツリと呟いた公爵の言葉に、ラリサは身を乗り出して夫の腕を掴まえた。
「是非そうして下さい! 私、美味しくなれるよう頑張ります!」
「ふっ……そんな嬉しいことを言われたのは初めてだ」
妻の可愛さに思わず笑ってしまった公爵は、胸の中にランプを灯されたような、何ともいえない心地好さを感じていた。
しかしながら、この時のラリサの決意は空回りに終わる。
「ラリサ。頼むから吸血前にニンニクだけは食べないでおくれ」
妻に近付こうとした公爵は、妻が食べている食事を見て足を止めた。
大臣達から大量に渡されたニンニクを消費しようと、よりによってニンニク料理を作ったラリサは、ハッと気付いて目を見開く。
「あら! ごめんなさい。私としたことが。吸血鬼にニンニクは駄目だと本で読んだのに。私の血からニンニクが抜けるまで、お預けですわね……」
夫の食事を邪魔してしまい落ち込むラリサ。
「そんなに落ち込まなくていい。先に言うのを忘れていた私のせいだ。それに、数十年くらい血を啜らなくても私は平気だよ」
そんなラリサを慰めるように、公爵は優しく声を掛けた。
「ですけれど……顔色が悪いですわ。やはり吸血をされるべきなのでは?」
ラリサは両手を伸ばし、夫の頰に触れた。
「顔色が悪いのは元からなんだ。何せ私はこう見えても吸血鬼でね。吸血鬼とは顔色が悪いものだ」
自分の頰に触れる妻の細い手に手を重ね、公爵は幸せそうに微笑んだ。
「あら、そうでしたの。……それでしたらいいのですけれど、心配になってしまいますわ」
「君は優しいね。私の顔色の心配までしてくれるだなんて」
「私は旦那様の妻ですもの。家族を心配するのは当然のことです」
得意げに言い切ったラリサを見て、公爵はまた一つ、これまでにないことを経験した。心臓が何やらトクトクと奇妙な音を立てるのだ。ラリサと居ると、公爵は長い人生の中で体験したことのないものをたくさん知れる。それが楽しくて堪らない。
血を飲んだわけでもないのに、甘い味が口に広がるかのようなこの気持ちは何なのだろうか。
いつかラリサとこの謎について語り合おうと、公爵は密かに決めたのだった。
公爵城に来客があったのは、その数日後。とある霧の濃い夜のことだった。
城中に響くような大きなノックの後に、ガチャガチャと扉を開ける音まで聞こえてくる。
何事かと気になるラリサを守るように前に立った公爵は、訪問者の正体が分かると一気に相好を崩した。
「なんだ。お前か、アイン。よく帰ったな」
「父さん!」
公爵に向かって嬉しそうにそう呼び掛けながら走り寄り、その勢いのまま抱き着いたのは、ラリサもよく知る人物。この国の国王陛下、アイネイアスだった。