霧の王都
吸血鬼公爵の元に生贄妻が嫁いだとの噂が国中に広がる少し前。
貧乏男爵家の長女であるラリサには、とある悩みがあった。
金がない。とにかく、金がない。
生きていくには金がいる。それが貴族ならそこそこ。大家族ならますます。育ち盛りの元気な弟妹達がたくさんいれば、悲しいくらいに。
にも関わらず、ラリサの父はお人好しで商売下手。先日は友人の借金を肩代わりまでしてしまった。
他人が見れば鼻で笑う……を通り越して憐れみの涙が出るであろう程に虚しい家計簿を眺めること数分、ラリサは心を決めた。
「お父様、お母様。私、働きに出ます」
真っ直ぐな娘の言葉に、両親はポカンと口を開けたのだった。
この春アカデミーを卒業したラリサ。ラリサは何とかアカデミーに通うことができたが、これから通い始める弟妹達が無事に卒業できる見込みはない。なにせ家計は火の車。弟妹達全員をアカデミーに入れようものならば、家門が破綻するのは目に見えている。
かと言って、アカデミーを卒業できなければ、弟妹達はどうなるか。
アカデミーに通わなかった貴族の子息令嬢は、縁談の際に家庭教師について聞かれる。
〝姉が家庭教師の代わりでした〟とでも答えようものならば、誰からも見向きもされなくなる。そっぽを向かれ、噂は広がり、二度と縁談は来ないだろう。
弟妹達にそんな想いをさせたくはない。であれば、何としてもアカデミーに通わせるか家庭教師を雇うのみ。しかし、金がない。では、どうするか。
「私が働くしかないでしょう?」
ラリサの言葉に、父母は黙った。
「今日からでも雇ってくれるところを探します。食べていくのもやっとなのに、あの子達を全員アカデミーに通わせるなんて無理だもの」
「ラリサ……私が不甲斐ないばかりにすまない」
娘の決意に嗚咽を漏らす父へ、ラリサは微笑んでみせた。
「気にしないで、お父様。お父様のお優しいところ、私とっても大好きなの。だから私にできることをさせて下さいな」
こうして郊外のボロ屋敷から辻馬車を乗り継ぎ、王都に繰り出したラリサは、さっそく働き口を探して彷徨い歩いた。
貧乏とは言え、ラリサは貴族の令嬢。もちろん仕事の探し方など知らない。
しかしラリサはそこそこ賢かった。
こういう時、どういう場所に行けばいいのかは事前に調べていた。アカデミーの学友に聞いて、職探しの方法を教えてもらったのだ。
王都の人が賑わう商店街、その一角にある掲示板。そこにはありとあらゆる貼り紙が掲げられている。
失せ物や尋ね人、商品の広告に催し物の告知、そして様々な募集。
霧の立ち込める王都を楽しげに歩くラリサは、友人に教えてもらったその掲示板の前まで難なく辿り着くことができた。しかし、か弱いラリサは混雑するその場所で人混みに押され、なかなか掲示板の貼り紙を見ることができないでいた。
「せっかくここまで来たのに、困ったわねぇ」
のんびりとした口調で呟きながら、ラリサは辺りを見回した。すると、極端に人の少ない一角が目に入る。
「あら? あそこだけ空いているわ」
行き交う人々が、まるでそのエリアだけ見えない壁があるかのように避けて行く。いい場所を見付けたと胸を踊らせたラリサは、誰も近寄ろうとしないその場所に立ち、改めて掲示板を見上げた。
目の前の大きな貼り紙には目もくれず、ラリサは見える範囲で片っ端から求人募集を探す。しかし、この辺りにはあまり目ぼしいものがなかった。
だからと言って今更人混みに戻るのも気が引けて、ラリサはキョロキョロと首を伸ばして爪先立ちになり、その場所から掲示板のあちこちを見回した。
ラリサのその姿を見た通行人は、何故か目を瞠り早足に通り過ぎて行く。
王都を包み込む霧はますます濃くなり、見えにくくなる掲示板をラリサは必死に目を凝らして見上げ続けた。
「お嬢さん、さっきからここで何をしているんだい?」
そんなラリサに声を掛けてきたのは、帽子を深く被った紳士だった。
「仕事を探しておりますの」
振り向いて素直に答えたラリサに、紳士はキョトンと目を瞬かせる。
「仕事か……」
「ええ。あの、よろしければ、割りの良い仕事をご紹介頂けないかしら。できるだけ大金を稼げるような仕事ですと有り難いのですけれど」
これ幸いと声を弾ませたラリサの言葉に、紳士は押し黙る。
「……」
「紳士様?」
「君、危なっかしいとよく言われないかい?」
呆れたような紳士の声音に、ラリサは首を傾げた。
「あら。私、何か危なっかしいことをしましたかしら?」
「初対面の人間にそんな話をすれば、怪しい仕事を紹介されてあれよあれよという間に危険なところに売り飛ばされてしまうよ」
心配するような紳士の言葉に、ラリサは目をキラキラと輝かせた。
「まあ! そうなのですわね。紳士様、ご親切にご忠告をありがとうございます」
丁寧に礼を述べたラリサへと、紳士は手を振ってみせる。
「いやいや。気にしないでくれ。しかし、君は運がいい。ちょうど私は君のような人材を探していたんだ。とても簡単に大金が手に入る方法があるんだが、話を聞かないか?」
「本当ですか? 是非、お話を聞かせて頂きたいですわ」
忠告が全く効いていないラリサの言動に苦笑しながらも、紳士はラリサにいくつか質問をした。その度にラリサは包み隠さず受け答えをする。
「うんうん。ほうほう。じゃあ君は貧しい男爵家の長女で、弟妹達のために金が入り用だと」
「はい。その通りなのですわ」
金が必要な理由、家柄、他にも特技に好きなことまで。聞かれるまま答えたラリサに、紳士はニッコリと微笑んだ。
「実にいい。君のような人を待っていた。それで仕事というのは、ある人の花嫁になって欲しいんだよ」
「花嫁……? お仕事ではなく、縁談でしたの?」
紳士の言葉に驚いたラリサが困惑していると、紳士は人差し指を立ててラリサに告げた。
「縁談ではあるが、花嫁になることが仕事でもある。花嫁になってくれるだけで、一億ゴールドを貰えるんだ」
「一億ゴールド!?」
それだけの大金があれば、父の借金を返済して弟妹達がアカデミーに通うのは勿論のこと、両親の老後の暮らしまで保証された上にお釣りがくる。
「いったい、どのような縁談なのです?」
そんなに美味しい話があるのかと、ラリサがハラハラしながら問うと。紳士はニヤリと笑った。
「これだ」
紳士が指差したのは、ラリサの目の前に掲げられた、王室の御触だった。
【ドラキュール公爵の花嫁募集】
目の前にあったにも関わらず、あまりにも巨大だったためラリサの目に入っていなかったその御触は、国王の象徴である赤い獅子の紋様が施されたそれはそれは仰々しいものだった。
「ドラキュール公爵の花嫁……」
「あの有名な公爵の花嫁になるだけで、一億ゴールド。条件は健康な貴族の令嬢。まさに君にぴったりじゃないか」
ドラキュール公爵はこの国で唯一の公爵にして、色んな意味でとても有名だった。
なにせ公爵は世に言うヴァンパイア、人間の血を啜って生きる吸血鬼なのだ。
建国時から生きながらえる化け物であり、建国王を手助けした功績から公爵位を得ているものの、世俗と関わることはなく、辺境の領地でひっそりと暮らす怪物。
その公爵の花嫁募集。当然、この御触を見た誰もが思った。これは花嫁という名の生贄募集に違いない。公爵に嫁いだが最後、花嫁は息絶えるまで生き血を啜られ干からびて捨てられる。
遠巻きにされ見向きもされなかった御触は虚しく何月を経て、あまりの応募の来なさについには懸賞金一億ゴールドまで追加された。これがまたこの御触の胡散臭さを助長する。人々の疑念は更に深まり、怪しさ満点の御触はより一層忌避され、今ではその前に人が立つことすらなくなった。
この御触の前に若い令嬢が立ったが最後、連れ去られて辺境に送られ、花嫁という名の生贄として吸血鬼公爵に嬲り殺されるのだ。
という、あまりにも有名な王都の噂を知らずに御触の真ん前に立っていたラリサは、こんな夢のような募集があっていいのかと大層感激した。
「公爵様の花嫁になれるばかりか、お金まで貰えるだなんて。縁談と大金が一度に手に入るとても素敵なものを見つけてしまいましたわ!」
ドラキュール公爵を恐れるどころか、喜び出したラリサを見て紳士も目を輝かせる。
「そうか! 興味があるか! 肝の据わったご令嬢だ。私が見込んだだけのことはある。どうだろう、君が望むなら王国唯一の公爵夫人の座は君のものだ」
「そうですわね。弟妹達の学費と両親の老後の貯蓄もできますし、私が嫁げば食い扶持を減らすこともできます。これで我が家は安泰ですわ。是非お願いしたいです!」
吸血鬼に公爵夫人。そんな言葉など聞こえていないかのように、自分の家族のことだけを考え夢見るラリサ。そんなラリサを見て、紳士は手を叩いて喜んだ。
「おお……なんと。ついにこの日が来たか! よし。善は急げだ。今すぐ公爵の元に向かってくれ」
「……はい?」
「早くしないと、夜に間に合わない。公爵は夜明けが来たら眠ってしまうからな。嫁ぐなら今夜のうちに行った方がいい」
これでもかと急かす紳士に、ラリサは初めて疑問を持った。
「ですけれど、ここに決定は国王陛下が自ら行うと書かれています。何か重要な審査があるのでは……」
「それなら問題ない。私がその国王なのだから」
「え?」
帽子を取った紳士は、王家の象徴である真っ赤な髪を風に揺らしてニヤリと笑った。
「まあ! 紳士様は国王陛下でしたの、ご機嫌よう」
禁断の御触の前に人が立っているだけでも驚きなのに、突如現れた赤髪の国王に周囲が響めく中、ラリサは膝を折って挨拶をした。
「うむ。では良いな。ラリサ、早速公爵の元に向かうのだ。一億ゴールドは私が直々に君の実家に届けよう」
「ですけれど、家族に挨拶を……」
「手紙を書けばいい。私が金と一緒に届けよう。さあ、気が変わらないうちに早く」
何としてもラリサを逃すまいと急かす国王に気押されて、ラリサは王城へと連れられて行った。
「せっかくだ。公爵の花嫁に相応しいドレスを用意してあげよう」
「でも、お金までもらってそこまでして頂くわけには……」
「気にしないでくれ。長年探し求めた花嫁がやっと見つかったのだから、私も気分が良いのだ。ドレスは私個人の感謝の気持ちだと思って受け取ってくれ」
王城に向かう馬車の中でも尽きることのない、国王の押しの強さにラリサが戸惑っていると、馬車の外から何やら声がする。
「陛下! どちらに行かれていたのですか?」
気付けば王城に着いていた馬車は、国王の決裁を待つ大臣達に囲まれていた。
「突然執務室を飛び出したりして、何事かと思いましたぞ!」
「すまんすまん。例の御触の前に若い令嬢が立ったと報告があってな。これは急がねばと出向いたのだ。その甲斐あって、漸く見付けたぞ。こちらの令嬢が、公爵の花嫁になってくれることになった」
「ドラキュール公爵の花嫁に……?」
それを聞いた大臣達は、それはそれは憐れむような目をラリサに向けた。
「陛下、本気なのですか? このような若い令嬢を……」
「勿論だ! やっと候補者が見つかったのだから、今夜のうちに着飾って公爵の元に届けよう」
「今夜のうちに……陛下……何と残酷な……」
「ラリサ。改めて自己紹介を」
国王に促されたラリサが名乗れば、大臣達は『ああ、あのお人好しが過ぎて借金をした男爵の令嬢か……』と遠い目をした。
「お人好しは遺伝するのか?」
「可哀想に」
「ご令嬢、本気で行く気なのですかな?」
「はい。お恥ずかしい話ですが我が家は貧乏で、たくさんいる弟妹達のために入り用なのです。職を求めていたところ、偶然お会いした国王陛下に今回のお話を伺い、是非にとお願いしたのですわ」
「……ですが、ご両親はなんと?」
言いづらそうな大臣の一人が問い掛けると、ラリサはさらりとなんでもないことのように微笑んだ。
「両親にはまだ話しておりません。その前に陛下に連れて来て頂きましたの。両親へは手紙を残していこうと思います」
「……ッ!」
それを聞いた大臣達は、目を見合わせてラリサの勇気に声を詰まらせた。
若く美しい令嬢が、家族のために自分の身を化け物に捧げようだなんて。それを誰にも知らせず、手紙だけを残して生贄になることを決意した彼女を、大臣達は止めることができなかった。
「公爵は黒が好きだから、黒いドレスを着たらいい。君のローズブロンドにもよく合うだろう」
「ありがとうございます、国王陛下」
うきうきとドレスの話をする国王の、なんと残虐なことか。これから文字通り食い殺されることになる令嬢を、化け物好みに仕立て上げようとは。
獅子王と称される国王は、敵には容赦ない冷血漢だが、国民や臣下を思い遣る王として慕われていた。
そんな国王唯一の汚点が、この公爵の花嫁募集だった。善政を行う一方、頑なに公爵の花嫁募集に力を注ぐ姿はどうにも周囲から理解されず、仕舞いには私財を投じて多額の懸賞金までつける始末。
この件に関してだけは、国王は誰からも見向きもされずたった一人でことを進めていた。それがまさか、こんな若く美しい令嬢を連れこようとは。
貧乏な令嬢の弱みにつけ込んだ国王に、大臣達の無言の批難が向けられる。しかし、国王がその視線を気にすることはなかった。
「君はご家族に手紙を書きなさい。私も公爵宛に書状を用意しよう。それを持って今夜中に嫁入りだ」
強引すぎる国王の言葉に、ラリサは不思議そうに問い掛けた。
「先程から思っておりましたのですけれど、辺境領まではとても遠いと聞きました。今から出立して、今夜中に辿り着けますかしら?」
「問題ない。緊急時にしか稼働しない国王専用のゲートを特別に開放しよう」
「陛下、本気ですか!?」
莫大な魔力で空間移動を可能にする魔法のゲートは、その分大量の魔晶石を消耗する。有事の際の国王専用ゲートを、生贄の嫁入りに使うとは。
この国王はどれだけ急いでいるのか。そこまでして吸血鬼公爵に生贄を捧げたいのか。やはり、あの噂は本当なのでは……
大臣達が眉間に皺を寄せる中、ラリサは大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
「まあ……そんなに至れり尽くせりで、何だか申し訳ないですわ」
「遠慮することはない! 私がどれほど君のような女性を心待ちにしていたことか。このくらいのことは当然だ。さあ、早速ドレスに着替えて準備をしなさい」
再びあれよあれよという間に豪奢なドレスを着せられ、化粧を施され、両親と弟妹達に別れの手紙を書かされたラリサは、夕暮には難しい顔をした大臣達の見送りを受けていた。
「ご令嬢。これはせめてもの御守りです」
大臣達から渡されたのは、袋一杯のニンニクと、十字架だった。
「あら。ありがとうございます。とても美味しそうですわね」
「……どうかご無事で」
「もしもの時は逃げ出しても誰も責めませんからね」
「ご自身のお身体が何よりも大事です。命を粗末にしてはいけません」
「あら……皆様、ご心配して頂きありがとうございます。花嫁のお勤め、頑張りますわ」
ニコリと可愛らしく微笑んだラリサを見て、大臣達は胸を引き裂かれるような罪悪感を覚えた。あんなに浮かれている国王の手前、表立ってラリサを逃すことはできない。どうか無事で、と思いを込めて見送ることしかできなかった。
「それではラリサ、末永く幸せにな。近いうちに様子を見に行くから公爵に宜しく伝えてくれ」
満面の笑みの国王は子供のように嬉しそうにラリサに手を振った。
「陛下のご期待に応えられるよう、精一杯励みますわ。それでは皆様、ご機嫌よう」
こうしてラリサは、真っ黒で豪華なドレスを身に纏い、王室の馬車に揺られて吸血鬼公爵の花嫁になるために辺境領へ向かったのだった。