静かな影
公爵城に突然押し掛けてきた客人達はその夜、失意の中晩餐会に招待された。
時刻は深夜を少し回った頃、公爵城の者達にとっては少し早く、公爵領の外からやって来た客人達にはかなり遅い時間。
用意された席の豪華さは、王都でもなかなか見ない程だった。大きな食卓に所狭しと並べられたご馳走と、仄暗い室内を明るく照らす無数の蝋燭。真っ黒で不気味ながらも宝石で華やかに彩られたドレスを身に纏い、ラリサは夫に手を引かれながら客人達の前に姿を現した。
美しく着飾ったラリサを見たビクターは、泣き止んでいたはずの瞳に再び涙を盛り上がらせる。それをエレナが呆れながら横目で眺めていた。
「旦那様、やっぱり新しい礼服を仕立てて正解でしたわね。とってもお似合いですわ」
客人の前だというのに、ラリサが見ているのは自らの夫だけだった。
「君も。すごく綺麗だ。いつも言っているが、普段からもっと着飾ってもいいんだよ?」
結い上げたラリサの髪の、垂れ落ちた一房をとてもとても丁寧に大切そうに掬い上げて口付けをした公爵は、客人の前にも関わらず妻に甘い甘い瞳を向けていた。
「そういうわけにはいきませんわ。私、貧乏が身に染みてしまっていて、こういった豪華なものは気後れしてしまいますの。たまに身に着けられるくらいが丁度いいのです」
夫に気遣われ、ラリサはニコニコと嬉しそうだった。
「君がそれでいいのなら何も言わないが、どうか遠慮はしないでおくれ。この公爵領にはドワーフ達の鉱山や魔法薬の材料になる希少な薬草がたくさんある。この先も金に困ることは絶対にないのだから」
ロシュレウ王国の特産品である宝石の、その殆どを産出しているドラキュール公爵領。建国時からその領主として生きながらえているドラキュール公爵は、莫大な資産を有していた。
それこそ、貧乏で育ち盛りの家族がたくさんいる妻の実家に、定期的に豪奢なプレゼントを贈るくらいは露程の負担にもならない。むしろ他に金の使い道もない公爵にとって、妻やその家族に贈り物をできるのは至上の喜びだった。
人間ではなく、ドワーフ達の手で掘られ加工されるドラキュールの宝石は、他のどの国よりも良質で人気がある。その全てを妻に捧げたいと思うほど、公爵は既にラリサの虜なのだ。
そんなふうにイチャイチャと見つめ合う夫婦の向かいで、客人達は青い顔をしている。
公爵城は大きいがジメジメと湿って暗く、高級そうな家具は古びて、柱には怪しげな魔物達の彫刻が施され、あちこちに蜘蛛の巣がぶら下がっていた。
更には先程から晩餐会に配置されている給仕達は一見人間に見えるものの、目の下にクマがあり顔は青白く、どこか不気味な気配を漂わせているのだ。話し掛けても返事なのか呻き声なのか、曖昧な音しか口にしない。
それだけでもエレナとビクターの恐怖を煽るというのに、二人のことを思い出したラリサは、嬉しそうに声を弾ませる。
「そうそう、二人とも犬は好きだったわよね? 私達の愛犬を紹介するわ。ベロちゃん、おいで」
「くぅん」「ヘッヘッ」「アォーン」
ラリサの声に尻尾を振り乱しながら駆けてきたモノを見て、エレナとビクターは悲鳴を上げ椅子からずり落ちた。
黒光りする漆黒の毛に覆われているのはまだいいが、どこからどう見ても頭が三つあるその犬は普通じゃない。
それぞれの頭をラリサの手に寄せて、お利口におすわりをした仔ケルベロスに、ラリサと公爵は蕩けんばかりの甘い微笑を浮かべていた。
「いい子ね、ベロちゃん。ママの呼ぶ声が分かったのね! パパにもご挨拶できるわよね?」
三つの頭を満遍なく撫でてやったラリサが視線を夫に向けると、主人の言っていることを理解したのか、幼いケルベロスは公爵を見上げて尻尾を振り、三つの頭からそれぞれ元気な鳴き声を上げた。
「また大きくなったんじゃないか?」
慈しむように三つの頭を撫でる公爵が目を細めると、ラリサは嬉しそうに微笑む。
「昨日は牛一頭を一瞬で食べ尽くしてしまいましたもの。育ち盛りなのです。頭が三つあると食欲も三倍なのかしら」
うふふ、とラリサは楽しげに笑っていた。拾った時はまだラリサでも抱え上げられる程に小さかった仔ケルベロスは、公爵夫妻の惜しみない愛をたくさん浴びてすくすくと成長し、今では大型犬よりも一回りほど大きな体になっている。
「そろそろ室内で飼うのは難しくなるかもな。成獣になれば、この三倍は大きくなるだろうから」
「そうなのですか? 寂しいです……ずっと一緒に眠りたかったのに」
しょんぼりとしたラリサを慰める公爵。その姿を見ながら、執事のアルミンに助け起こされたエレナは絶句していた。
(この人達、狂ってる……!)
エレナもビクターも、色んな意味でもう帰りたいと思ってはいるものの、突然押し掛けてきた自分達を受け入れてくれた上に、晩餐会まで用意してくれた公爵夫妻の厚意を踏みにじるわけにもいかず、眠たい頭と折れそうな心と恐怖に引き攣る顔を奮い立たせてこの場に臨んでいた。
悲鳴を上げた後は一言も発しない友人達へ、ラリサが不思議そうな目を向ける。
「あ、それで結局、ビクターには何があったと言ったかしら?」
ビクターがラリサの家族や公爵領について暴言を吐いたのは、ビクターに何か不幸な出来事があったせいだと思い込んでいるラリサは、思い出したようにビクターに向き直る。
ピクリと固まったビクターは今にも泣き出しそうだった。
「ラリサ。こういうことはあまり追及しない方がいい。彼には彼の事情があるものだ」
ビクターの様子を哀れに思った公爵が、助け舟を出す。
「あ、そうですわね。私ったら、弟妹達を相手にしていた時と同じ癖で、ついしつこくしてしまいました。ごめんなさい、ビクター」
「い、いや……」
何も言えず、目を逸らして俯くビクター。ラリサは話題を逸らすように明るい声を上げた。
「そうだわ! ねぇ、エレナ。あなた、星が好きでしょう? もし良かったらこの後、空の散歩をしてみない?」
「え?」
突然話題を振られたエレナは、声を掛けられたことよりもラリサのその話の内容に驚いて目を見開いた。
「星が好きだって、私あなたに言ったことがあったかしら……?」
「失礼ね。友達の好きなものくらい、言われなくても分かるわ」
ラリサはわざとらしく頬を膨らませてそう言った。
「ラリサ……!」
思いがけず感動してしまったエレナは、次に続いたラリサの言葉に二つ返事で頷いてしまうのだった。
「公爵城の周りは霧が立ち込めているけれど、少し高い位置に行くと、とても綺麗な星空が見えるのよ。是非、私に案内させて」
「嘘でしょう……!?」
エレナは普段よりもずっと高くなった目線に驚愕の声を上げた。
まさかヒッポグリフの背に乗せられるだなんて思ってもいなかったエレナは、悲鳴を上げながら目の前のラリサの肩を掴む。
「このグリちゃんもとってもいい子なの。最初は旦那様と一緒に乗っていたんだけど、最近は私だけでも乗せてくれるようになったのよ」
「最近ですって!?」
胸を張るラリサに対して、エレナは悲鳴を上げてヒッポグリフから降りようとした。しかし、その前に公爵夫妻の愛ヒッポグリフは両翼を広げて夜空に駆け出してしまう。
「いやよ、無理よ!」
「あんまり喋っていると舌を噛むから気を付けてね」
慌てて口を閉じたエレナは、どんどん上昇するあまりのスピードに眩暈を覚えながらも必死にラリサにしがみ付いた。
「霧を抜けたら綺麗な星空が見えるわ。ほら、見て」
ラリサに促されて恐る恐る顔を上げたエレナは、ハッと息を呑んだ。
「なんて綺麗なの……!」
思わず飛び出した感嘆の溜息が、公爵領の不気味で美しい夜空に消えていく。
王都では決してみられないような、満天の澄んだ星空は圧巻だった。
「それで、エレナ。ビクターとは上手くいきそう?」
「へ……?」
星空に見惚れていたエレナは、ラリサの言葉の意味が分からず間抜けな声を出す。
「あなた、アカデミーの時からビクターのことが好きだったでしょう?」
「それも知ってたの!?」
思ってもみなかった友人の言葉に、エレナは悲鳴を上げた。
「当然よ。だって私達、友達じゃない。ビクターは頼りなくてあなたには不釣り合いだと思うんだけど、あなたが彼を好きなら私は応援するわ」
「そんな……私……私、」
ラリサの想いも知らずに逆恨みしていた自分が惨めで恥ずかしい。エレナはそれ以上何も言うことができなかった。
二人を乗せたヒッポグリフが地上に降りると、公爵といるのが気まずかったのか、涙目のビクターが二人を待ち侘びていた。
「お嬢様、ご無事ですか?」
「ええ。大丈夫よ、ありがとう」
アルミンに支えられてヒッポグリフから降りたエレナは、今にも泣きそうなビクターを見る。
その顔がとんでもなく情けなくて、自分は本当に親友を恨んでまで、この男の何が良かったのだろうか。とエレナは再び嘆きたくなった。
「私も見送りに……」
帰路に就くという客人達を見て、小さく口を開く公爵。しかし、そんな夫にラリサは珍しく目を吊り上げた。
「何を仰いますの、旦那様! 今が何時だとお思いですか? もう夜明けですわ。日の光を浴びて旦那様が体調を崩されたりしたらどうするのです。心配なのでどうか、先に寝ていてくださいませ!」
「だが……」
「エレナもビクターも、怪異達にとって危険ではないと分かりましたでしょう? 私とカロルが領地の関所まで彼等を送り届けますわ。ですから安心して先にお休みください」
妻に押し切られ、ついでに徐々に明るくなる空に冷や汗を垂らした公爵は、仕方なく信頼する家令に目を向けた。
「カロル。ラリサと客人を頼む。私が眠っている間、ラリサの命令は絶対だ。肝に銘じてくれ」
「分かっておりますよ、ご主人様」
いつも自分のいないところではくれぐれもラリサを頼む、と。それはそれはしつこく言ってくる主人に呆れながらカロルは丁寧に頭を下げた。
カロルが操るバラウルの馬車に揺られ、公爵城から関所まで向かう道のり。
「私達が誤解していたわ。あなたは本当に、ドラキュール公爵の妻であることを誇りに思っているのね」
エレナは、吹っ切れたように清々しい表情で親友を見た。
「ずっとそう言ってるでしょう? 私は旦那様のことも、この領地のことも大好きなの。だからこれからは、私の好きなものを悪く言ったりしないでね」
おっとりとした美人だが、意外と逞しいラリサは嬉しそうに笑う。
「ラリサ……」
「ビクターもいい加減自立するのよ」
どこまでも姉気取りのラリサ。
まだ泣きそうな顔のビクターは、ラリサの心が完全に自分にはないと思い知り、漸く諦めがつく気がした。
「それじゃあ、二人とも元気でね」
「ありがとう、ラリサ。突然押し掛けて悪かったわね」
「その……ラリサ、本当にすまなかった」
晴れやかな表情のエレナと、まだ目元が赤いビクター。
そんな二人に別れの挨拶をしたラリサは、馬車から降りた二人に手を振った。
気軽に微笑んだラリサを見つめる、ビクターとエレナ。その二人の顔が何故だか少しずつ引き攣って青褪めていくのを、ラリサはスローモーションのように見ていた。
「え……?」
ラリサはその時、自分の身に何が起こったのか分からなかった。
「奥様!」
真っ先に反応したカロルが走り出そうとしたところで、鋭い声がラリサのすぐ側から発せられる。
「動くな」
首筋に冷ややかな感触を感じながら、ラリサはエレナの執事であるアルミンに捕えられていたのだった。
 




