霧夜の戯れ
「せっかくだ。例の噂についても、ラリサに話しておかないか、父さん」
空になったカップを置いた国王は、相変わらず仲の良い公爵夫妻を見ながら提案した。
「例の噂?」
「あれか。あまりいい気はしない話だが……」
なんのことかしら、と首を傾げるラリサ。国王は、渋々ながらも公爵が首肯したのを確認し話し始めた。
「父さんと私に関わる噂だ。君が父さんに嫁いだことで、噂にも拍車がかかってしまってね。一部の貴族達が騒いでいる程度のものだが、公爵夫人として君も知っておくべきだろう」
「分かりましたわ。そちらも是非お聞かせください」
再び話を聞く体勢になったラリサを見下ろす公爵は、くだらない噂だと思いながらも、妻が今後この噂に振り回されることがないよう、一から説明を始めた。
「私は幼かったアインに好きなことをさせた。剣を学びたいと言われれば剣を与え、知識を得たいと言われれば学問を教えた。ああ見えてカロルは文武に秀でていてね。カロルを中心に使用人達もアインの教育を手伝ってくれた。結果、今やアインは立派な獅子王だなんて呼ばれている」
「そうですわね。我が国の国王陛下は獅子の如く豪傑で気高いと、アカデミーで習いましたわ」
ラリサの称賛の言葉に気を良くした国王は、更に話を続けた。
「カロルもそうだが、あの頃はサテュロスやケンタウロス達に鍛えられて剣や弓の腕は相当上がったな。懐かしい思い出だ。彼等は根気強く色んなことを教えてくれた」
城の護衛隊に鍛えられる幼い日の国王を想像して微笑ましい気持ちでいたラリサは、ふと本題はなんだったかと首を傾げた。
「それで、噂と言うのは?」
思い出話に花を咲かせてしまいそうな勢いだった国王は、咳払いをして話を元に戻した。
「ああ、そうそう。この領地で成長し力を得た私は、自分の知恵と手腕で王位を勝ち取り、私を廃そうとした兄弟達を自らの剣で亡き者にした。しかし、私が公爵領に一時的に保護されていたことを知る者の中に、よくない噂を流す者がいたのだ」
国王は肩をすくめ呆れ果てたような表情をしていたが、公爵の方は眉間に皺を寄せて不快そうだった。
「その噂と言うのがこうだ。アイネイアス国王は、公爵を始めとした怪異の力を利用して王位に就いた。そしてその対価として公爵に国民の血を捧げている、と。つまりは禁止された化け物達の力を使って他の王位継承者達を殺し、不当に王位を奪ったとな」
「そんな、陛下も旦那様も、そのようなことをなさるようなお方ではありませんわ!」
信じられないと顔を顰めたラリサの横で、公爵もまた顔を曇らせる。
「勿論だ。私はアインの背中を押したが、アインのために人間に手を出したことは一度もない。全てはアインの知恵と力で勝ち取ったものだ」
夫婦が揃って同じように口を曲げるのを見た国王は、苦笑しながらも遠い目を王都の方角へ向けた。
「私が始末した異母兄弟達の支持者達には、今でも私が目覚ましく活躍するのが気に食わない連中がいるのだ。そういった奴らの難癖にしか過ぎないのだが、今回の花嫁騒動が火種となってしまったようだ」
「私が旦那様の元に嫁いだことが? どうしてですか?」
「それがな。なんとも馬鹿らしいことに、私が公爵の花嫁を探していたのは、王位に就いた礼として、生贄を捧げるためだったと噂されているのだ」
やれやれと首を振った国王は、アホらしい噂だと呆れたように鼻を鳴らした。
「そんなわけだ。私と父さんが不正な取引をしたと勘繰る輩が一定数いる、ということだけ頭に入れておいてくれ」
純粋に生きてきたラリサにとっては衝撃的な噂だったが、同時に納得もできる気がした。
そっと隣を見たラリサは、蝋燭の灯りに照らされた青白くてハンサムな夫の横顔に見惚れてしまう。
(こんなに素敵な方の花嫁になれて、こんなに素敵なお城に住めるのに、他の令嬢達が名乗りを上げなかったのは、そういうことだったのね。なんて勿体無いのかしら)
「お聞かせくださってありがとうございます。よく分かりましたわ。世の中には、なんとも残念で気の毒でお可哀想な方達がいらっしゃるということですわね」
しみじみと呟いたラリサの言葉に、一瞬の沈黙が広がる。
「……ふっ、」
「ブハッ」
次の瞬間、二人同時に吹き出した公爵と国王は、腹を抱えて笑い出した。
「なんだラリサ、可愛い顔をして、なかなか辛辣じゃないか!」
ガハガハと笑う国王の向かいで、公爵もまた肩を震わせながらラリサを見遣る。
「我が妻は、容赦がないな」
可笑しそうな二人を見て、ラリサは不思議そうに目を瞬かせ続けるのだった。
「私、なにか変なことを言ったかしら?」
「実に楽しいひと時だった。ラリサ、それで……嫁いで暫く経つが、体調に変化はないか?」
一頻り笑い、帰宅の準備を始めた国王が帰り際にラリサに目を向け問い掛けた。
「はい? いいえ、特には何もございませんわ」
わけが分からず首を傾げながらも、正直に答えたラリサ。
「そうか。まあ、焦らず待とう。こういうのは授かりものだからな」
「?」
そう言いつつ、どこからどう見ても残念そうな国王はマントを纏うと公爵に盛大なハグをして王都へ戻って行った。
「あの、旦那様? 陛下はいったい何のことを仰っていたのでしょうか?」
「さあ?」
残された夫婦は首を傾げ合いながら、まあなんでもいいかと互いに微笑み合った。
「それよりも旦那様、グリちゃんがそろそろ狩りから戻る頃ですわ。出迎えてあげましょう」
「そうだな。庭に行こう」
鋭い爪の伸びた手を優しく差し出す夫に身を委ねて、ラリサは大好きな公爵城の庭に出る。
今日も今日とて霧が立ち込め、ジメジメと湿る陰気な公爵領は、どこまでも深い闇の中で蠢く怪異達の息遣いが、風に乗って聞こえてくるようだった。
「んん〜、今夜もいい夜ですわね」
その空気を胸いっぱいに吸い込みながら深呼吸するラリサ。
「ああ。君と一緒に過ごす夜はいつだっていい夜だ」
妻の様子を目を細めて見ていた公爵は、綻ぶ口元を隠すこともせず、朧月のぼんやりとした光を浴びていた。
「あ、グリちゃんが戻って来ましたわ!」
ラリサが指差す夜空には、大きな獲物を咥えたヒッポグリフ。成獣に満たない体でラリサ大の獲物を狩って来た公爵夫妻の愛ヒッポグリフは、フサフサの毛並みを風に靡かせながら、大きな翼で上手に着地した。
「えらい子ね、グリちゃん」
上半身の羽毛はフワフワ、下半身の馬の毛並みはサラサラ、一度に二度美味しいヒッポグリフを慣れた手付きで撫で回すラリサ。
「ふぉん、おぅん」
まるで仔馬が母馬に甘えるように鳴きながら、鋭い嘴をラリサに擦り付けるヒッポグリフ。
「うふふ。擽ったいわ」
ヒッポグリフが戻った気配に気付いたのか、同じ日に公爵城に仲間入りした夫妻の愛ケルベロスが、眠っていたはずの城のソファから飛び起きて庭に走り出て来た。
「きゃうん、わうん!」
三つの頭をそれぞれに振り乱し、舌を出して喜ぶケルベロスと、親友の出迎えに喜んでゴロンと横になるヒッポグリフ。
じゃれ合う愛ケルベロスと愛ヒッポグリフを眺めながら満面の笑みの公爵夫妻は、手を取り合って今宵も幸せな時間を過ごすのだった。
「ラリサからの返事が来たわ」
エレナは、執事のアルミンに一通の手紙を差し出して見せた。
「元気で過ごしているから心配しないでっていうのと、公爵がとても素敵で公爵領は素晴らしいところだって書いてるわ。……本当に信じられない」
公爵は夜な夜な人の血を啜り、公爵領はとても人間が住めるような場所ではないと聞いていたエレナは、ラリサの手紙の内容を一つも信じていなかった。
「これは好機です、お嬢様」
手紙の文面に目を通したアルミンは、眼鏡に光を反射させながらニヤリと笑う。
「公爵夫人は間違いなく化け物に洗脳されています。この手紙をビクター様に見せるのです。きっとビクター様は、現実を受け入れたがらないでしょう」
エレナは頷きながら、ビクターがどう反応するか想像する。
「そうね。きっと、公爵領に乗り込むと言い出すわ」
「お嬢様やビクター様が会いに行ったところで、洗脳状態にある公爵夫人は冷たい態度を取るだけ。その様子を目の当たりにして傷心したビクター様をお慰めするのです」
なるほど、と感心したエレナは、ふと以前アルミンが言っていたことを思い出した。
「でも、公爵領には関所があるんでしょう? 入れなかったらどうするのよ」
「公爵は公爵夫人の友人を門前払いなどしないはず。そうすれば夫人の身に何かあったと言っているようなものですから。このような手紙を書かせたくらいです。公爵も夫人が健在であることを見せたいのです。それを逆に利用しましょう」
アルミンに唆されたエレナは、ビクターにラリサからの手紙を見せた。
「嘘だ! こんなのは有り得ない、何かの間違いだ! この目で見るまで信じるものか!」
案の定、目を血走らせたビクターが怒鳴る。
「もう我慢ならない。こうなれば、両親の許可など要らない。今すぐ公爵領に向かう。君も来てくれるんだろう、エレナ?」
「ええ、もちろんよ。あなたを一人では行かせられないもの。私もついて行くわ」
エレナはビクターの手を握り、勇気づけるように微笑みかけたのだった。




