見ることはできない
周囲の景色が薄暗くなっていく。ジンはまた、死体の山で道を築いて、巨大な研究施設の鳥籠のなかで業務を果たした。
血まみれになって俯く。腐臭と薬品臭が血と混ざって鼻腔を呑みこむ。そんなとき、不意に光が足元から差し込めた。
ふわりと、紫紺の蝶が地面をすり抜けて瞬いて、空間の亀裂のなかさえも平然に羽ばたいていく。一匹や二匹ではなかった。
数多の蝶が地上へ向かおうと、光を目指そうと羽ばたき、漂い、幻想のように揺れる。施設全体に響く警報。赤い非常灯が点滅を繰り返す。
ジンは頬を引き攣らせた。ヴィコラの元へと疾駆していく。蝶の羽ばたきが、警報が、赤い灯が追憶の終着点を見せていく。ワタシの記憶が混ざり合っていく。
「メリア、君には長い苦しみを与えてしまっただろう。もうその必要はない。役目を終えたからには痛みなく眠らせよう」
――遥か地の底でワタシの終わりが見えたから。ただ自由になりたかっただけなのに。
「ワタシは……皆が見ている希望の光を見ることもできないのね」
地上を見たいだけだった。そうでなくても、皆が見ていた光のなかにいたいだけだった。だから、だから全部壊したんだ。だけど、……今は違う。いやだ。止めて欲しい。
メリアは過去の自分に叫んだ。現実と記憶の狭間のなかで、無意味な嘆きが反響していく。残響を重ねていく。
「い、やだ……ワタシは。ジンを傷つけたくない…………ヴィコラを、こわしたくない。殺したくない……」
そうなるぐらいなら自分が終わってしまったほうがいい。知ってしまったから。後悔と苦痛のまま叫び続ける。――変わることはない。
メリア・イクリビタは光を紡いだ。
望まれていた沈静化に従わず、科学で説明できない力の流れを帯びて研ぎ澄ましていく。周囲を瞬く蝶達が強く光輝し続ける。
「……ワタシは自由になりたいわ? だって、そのためにずっと貴方達が見ていた希望の光をワタシも見ていたの。ワタシはもっと知りたい。自由になりたい。死にたくない……!」
ただそのときは――理解してほしかった。耐えきれないほどの苦痛が、光輝し続ける。蝶の羽ばたきが輝き続ける。ジンとヴィコラのいる部屋さえも包み込んでしまって。
真っ白な光が研究者達を、部屋を、天井を、施設を貫いた。血肉を焼く熱。途方もない轟音と衝撃。崩壊し降り注ぐ瓦礫の山。無数の死を誰かに押し付けたのを覚えている。
やがて頭上を覆う全ての物が消えた。白い光が途絶える。暗い地の底に陽光が差し込めた。晴天は遥か遠く、降り注ぐ砂塵のなか滝のように水が流れ落ちていく。
メリア・イクリビタが自由になったとき、ジンの視界に残されたのは崩落した部屋と瓦礫の突き刺さったヴィコラの姿だった。
「ヴィ……ヴィコラ……!!」
被さる瓦礫を消滅させて、しかし突き刺さった鉄柱をどうすることもできなかった。引き抜かなくとも、引き抜いても助からない。
ラインフォード社が用意してくれている非常時の薬品も、個人個人の特注だ。……ヴィコラが使えるものは全て砕け壊れていた。
「ジ、ン……」
「喋るな!! すぐに運ぶ……治療院なら地上だ……助かる。光が直撃じゃなくてよかった。まだ助かるはずだ」
背負うと小さな呻きが零れた。喘鳴が耳元を撫で、生暖かい感触が背を伝う。広がって、染み付いていく。
「ッあ……っひ、っぁ…………!!」
絞ったような悲鳴。腕から伝わるどうしようもない震え。…………間に合わない。ジンは静かに、瓦礫の上にヴィコラを下ろした。小さな手が必死に傷口を押さえて真っ赤に染まっていく。
「……ヴィコラ、っ……すまない。俺は…………離れたくない。一緒に、いるから好きになれるんだろう……。ヴィコラ――――」
突き刺さった鉄柱に亀裂を走らせ、消滅させた。傷口が開いて血がさらに溢れていく。ヴィコラはもう喋れなかった。ただ痛みだけがそこにあったから、ジンは深く息を呑んだ。
そっと彼女の顔を撫でて、向き合うこともできずに目を瞑る。――ガシャンと。周囲に際限なく亀裂を走らせた。ヴィコラとそれ以外をすべて隔離するように何もかもを消し飛ばして。
最期に、ヴィコラ・ミコトコヤネの時間を停めた。異界道具の奥の手の行使。止められるものは1つだけだった。生死も曖昧な停滞。
「ああ……あああ。ああああ……!!」
ジンは相貌を覆った。自分自身が誰よりも停滞の無意味さを理解していたから。どうしようもなく脚から力が抜けてその場で崩れ落ちて倒れた。
「うそだと言ってくれよ。……いつもの冗談だと笑ってくれよ…………」
誰に語り掛けても答えはなかった。ただ崩壊の残響だけが施設を鳴らし震わせていた。額に水滴が落ちる。すぐ横で底の見えない大穴が覗いていた。
晴天が遠い。白い陽光が刺すように眩しい。数えきれないほどの蝶達が、地上に届くこともなく、羽根を揺らして散っていく。
――――ワタシの光がなにもかもを灼き貫いて……ぜんぶ、壊れた。
ジン・ジェスターは目を閉じた。光が閉ざされて黒色が広がる。途端、――引き戻される。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「…………」
喋ることもできずに沈黙し、追憶から離れられずにいた。
現実に曝け出された身体はあまりに弱弱しく震えて、メリアは嗚咽を抑え込むこともできずにその場で吐瀉した。
何もかもを吐き捨てようとして、何度も、何度も、気道が引き攣る。胃液だけが糸を引いた。水たまりを濁して、息が果てる。
「ふーー……ッーー……」
庇うように蝶達だけがひらひらと、細い指先に止まって瞬く。【錆染】はじっと見下ろしていた。無機質な兜の奥に隠れた表情を、想像することさえ恐ろしくて、メリアは引き攣った表情で、目を見開いて地面だけを見つめた。
「ワタシは……前に、進みたかっただけなのに。ワタシは――……ジンに、救われたのに。……たすけてもらったのに。ワタシが、ジンの…………」
うわ言だった。なにもかも分からなくなってくる。自由になって、何がしたかったの? 大切な……たった一人の友人を傷つけてまでして、どうして自由が欲しかったの?
自問自答に答えられない。牙が軋むだけ。
「ジン・ジェスターは怪物を殺すためにお前に会ったんだ。不老不死の呪いがなければすぐにでも手にかけていただろう。地上に向かうように助力した理由を理解しろ。……地上に向かうが。お前は自分がどうあるべきかを考えろ。自分がどうあるべきかを考えろ。お前に抵抗する価値はない」
言葉が光を錆びつかせる。視界がじわりと滲んだ。
「自由には責任を伴うのさ。生まれたときから、死ぬまで。絶えず葛藤して後悔し続ける……。ジンだけじゃない。テンルもそうだった。お前の存在は誰の幸せにもならない。お前はジンだけが支えだったのかもしれないが、ジンに見えているものはお前への憎しみと怒りだ」
たくさんの人を犠牲にした。無駄死ににしちゃいけないって言われた。だというのに。口は動かない。瞬きもできない。
――ただ理解してほしかった。だから自由になりたくて、変われる気がして、死体の山を築いたのに。……けどそうはならなかった。
なにもかも、最初から壊してしまっていたのだから。どうしようもなく涙が流れていく。
光は見えない。
――ワタシにとって、ジン・ジェスターが灯になっていたから。
自分自身で燃やして、灼き消えていたことに今更気づいた。




