痛みの意味
…………長い沈黙。項垂れ、何も言葉にできず沈黙するジン・ジェスターを前にヴィは言葉を言い淀んだ。
――諦めよう。わたし達だけで、この場所に居よう。
これ以上、ジンに傷ついてほしくないから。これ以上、離れてほしくないから。そう、言葉にしたくて。けどそれはヴィコラ・ミコトコヤネの言葉じゃなかった。
ヴィの想いだ。わたしの意見だ。だから、唾を呑み込んだ。溢れかけた自分の言葉を必死に閉ざし、ぐしぐしと切り替えるように目を何度も擦る。
「へへ……ジンの言う通りっすね。わたしはヴィコラじゃないよ…………。ヴィなんだ。だから、ジン、ジンのことが今でも大切に思えるんすよ」
僅かな吐露。これもヴィの言葉だ。分かっているけれど、抑えきれなかった。未だ砂塵漂うなか、乾いたぼやきが力なく響いていく。
「俺はすぐに君を選べなかった。【錆染】の顔は見えなかったが……見なくてもわかるぞ。……失望だ。ただ憎いだけなら、彼女を差し出せばよかったはずだ」
手で相貌を覆った。何をすればいいか分からない。手足は動きそうにない。振り出しに戻ったようだ。いや、……それ以下だ。
――今のお前は正気じゃない。復讐をしたいだけなのかも分からなくなっているじゃあないか。殺し過ぎればお前自身が自分を見失うのがわからないのか。
そんな【錆染】の言葉がずっと胸を締め付けている。無力で、傍にいた一人さえ守れなかった自分を戒めている。
ジンは力なく微笑んだ。必死になって自嘲を浮かべると、震える口は僅かに言葉を発することができた。
「……ヴィ、ヴィコラが気に入ってくれていたのは【無式】なんだよ。……俺じゃないんだ。軽蔑してくれていい。罵ってくれていい。……俺はすべきこともわからないまま、君が来てくれたときから……何も動けないんだ」
――復讐のためにと言い聞かせていた肉体が嘘だと気づいてしまった。殺しすぎれば見失う。……そのとおりだ。
怒りを、無力を、全て吐き出して空っぽになれば振り出しに戻れると思ったから、やり直せると思ったから。島に残る研究者達を手当たり次第に殺し回った。メリアを苦しめるために光を与えようとした。
そうして過去にしがみついて、元の道に戻ろうとするうちに。道は無数の躯の山と墓標で埋まっていた。
「……何も変われはしない。目的が無くなってからずっと……正しい道に戻ることもできない」
全てを終わらせれば前を向ける? 確証もない思い込みのためにメリアを連れて行くうちに、彼女の見る光があまりにも眩しくて、俺自身を醜く映し出していることに気づいて。
刃は段々と深くまで突き刺さり痛んだ。……メリアを差し出せなかった。
だというのに、彼女が前に出るのを止めることもできない。ヴィを選ぶこともできない。……何も選べない。
ヴィコラが倒壊に巻き込まれて、小さな喘鳴を残して動かなくなった日から。……何も考えられちゃいない。
「俺は【錆染】と違って、傍にいた一人だって守れやしなかったんだ。……ただ、幸せがほしかっただけなのに。……俺はどうすればよかったんだ?」
挙げ句、敵を仕留めることさえ躊躇った。未だに手が震えている。自分自身の血で赤黒く染まった手袋は醜悪だ。
「ヴィ――」
名前を呼んだときには、彼女の眼は、すぐ目の前にあった。翡翠の双眸がじっとこちらを覗き込んで、小さな手が頬を撫でる。
そして、鋭い熱が顔面を叩きつけた。
ヴィが本気で平手打ちをしたらしい。……痛みはなかった。鈍く、痺れが僅かに伝う。それから彼女は胸ぐらを掴んで、犬歯を軋ませた。
「ジン……! わたしを見るっす! ヴィコラは【無式】のジンが好きだったかもしれないけど、今のわたしはヴィコラを模したヴィなんすよ……。わたしのことを、わたしだって思ってくれてるのはジンだけなんすよ……? 【錆染】は見てくれない。わたしを見てくれないんすよ……」
翡翠の瞳のなかでぐるぐると、言いたい言葉が混ざり合って、頭が真っ白になってくる。ヴィは混乱をごまかすように、掴んだ胸ぐらを何度も揺さぶりながら、唾がジンに掛かるのも構わず、声を張り上げた。
「どうすればいいかなんて、わたしは正しい答えは言えないっすけど。答えてやるっす……。怒りをぶち撒けて! 殺し回って! それでもどうにもならないことがわかったならメリアちゃんのことを忘れてわたしだけを見てればいいっす。それがヴィを幸せにすることだと思って。けど――」
ヴィは小さく首を横に振った。いつも気だるげな相貌は、真摯に強張っていた。くしゃくしゃと、言い淀むように乱れた髪を更に乱し掻く。
「けどそうじゃなくて、少しでも何かが痛んだなら。……悲しいなら。…………苦しいなら。選択できない理由があるなら――。追えばいいと思うっす。痛みがあるなら、ジンに何も残ってないのは――嘘なんすよ。わかってないだけなんすよ」
ヴィは強引にジンの顔を掴んだ。前を向けさせる。目と目が向かい合う。逸らすこともできずに、光のない黒い眼差しが静かに、ヴィを見据えた。
「だからあの子の、メリアちゃんの道の果てを、光を見届けるべきっす」
瞳が揺れていた。目の前のヴィは、あまりにも眩しい。だというのに眼を逸らすこともできなかった。彼女の眼差しの奥にある光が覗き込んでいる。
「……感傷を、同情を抱いているだけかもしれないだろう」
ジンは否定的にぼやいた。咎められることもなく、ただじんわりと身体の芯が熱い。
「同情も愛も。わたしには特段違うものには思えないっすけどね。わたしに対する感情が同情じゃないって言えるんすか? わたしの、ジンに対する感情だって同情と言えばそうかもしれないっす。なにもかも、曖昧で。けど、痛みがあるなら……その先が地獄でもいいから、まだ歩いたほうがマシなんすよ」
ふんと、得意げにヴィは鼻を鳴らした。照れくさそうに赤らんだ頬を搔いて、わたしはどこにでも着いていくっすよ。と、付け足すように呟く。
「ジンが折れたってわたしはいいんすよ。むしろ、ずっと弱さも見せてくれなかったから。今初めて、安心したんすよ。けど、……何もないなんて言わないで欲しいっす。わたしがいるし、あの子がジンの代わりに選択をした理由は。とっくに言ってくれてるじゃないっすか…………」
――ワタシのたった一人の友人を傷つけないで欲しいの。今日が一番良い日だったわ? そう、思えたのは貴方のおかげよ。ジン・ジェスター。
飄々としたメリアの言葉。思い出すたびに幾つもの刃に切り裂くように血に熱が戻ってくる。痛み、指先が痺れた。視界が眩む。
痛むほど、ヴィコラへの罪悪が蝕んで何も見えなくなってくる。暗闇と苦痛が呑み込んでくる。それでも、今更立ち上がった。
ジンはしばらく、苦悶するように呻いていたが。
――――いままで、ずっとどん底だったから。少なくとも今日は絶対に、今までのワタシより良い日が来るわ?
最後には、殺そうと思っていたはずの女の言葉に後押しされるように、立ち眩む足に力を込めた。
「……武器を、修理してくれ」
それ以上の言葉は浮かばなかった。なんて、無様だろうか。色付きの便利屋をやめていて正解だった。……こんな三流以下の奴には荷が重すぎる。
ガシャンと。切り替えるように無意味に空間を鳴らすと、ヴィは呆れるように、にへらぁと、涙を滲ませながら安堵するように微笑んでいた。




