3-2
「城井さん、どうされたんですか?」
お盆にトマトの煮麺と漬物、男性陣にはおにぎりも添えて応接間に行くと、いないと思っていた春ノ助を抱き締めて、しくしくと泣いている城井がいた。
「……また失恋したそうです」
「は、はぁ」
何と言っていいか分からず紗和子は、とりあえず煮麺を二人の前に置く。薫が箸をおくとすぐに紗和子の後ろに隠れる。
「どうしたんですか、薫ちゃん」
「薫は割と人見知りで、恵太のことは、嫌いではなさそうですがそこまで懐いてはいませんねぇ。紗和子さんのことは大好きみたいですけど」
千春が言った。紗和子は、薫に顔を向ける。薫は、目が合うと紗和子を指差し、次に両手でハートを作って、にこっと笑った。
言葉にされずとも「大好き」と言われた気がして、いや、絶対に言われて、紗和子は思わず薫を抱き締めた。
「私も薫ちゃんが大好きですよっ」
細い腕が紗和子の首に回されて、ぎゅっとされる。可愛すぎて可愛いすぎて、涙が出そうだ。
「……イチャイチャだ……俺は、ひとり」
「はいはい、うちの妻と薫をうらやまないでください。ほら、せっかく、紗和子さんが作ってくれたんですから、食べなさい。薫と紗和子さんも、一緒に食べましょう」
千春がそう声を掛けてくれたので、台所にある紗和子たちの分の昼食も応接間に運ぶ。
千春が座布団を敷いておいてくれたので、薫を間に挟む形で並んで座る。
「では、いただきます」
いただきます、と挨拶をして箸を手に取る。
どんぶりが三つしかなかったので、紗和子と薫はお椀に取り分けて食べる。薫のクマの描かれたお椀に味噌風味のトマトスープに浸かった素麺をよそう。
「おかわり、お待ちしていますね」
こくこく、と頷いて薫がお椀を受け取り、美味しそうに食べる。
今日の具材は、ツナとほうれん草だ。
「え……なにこれ、うま……」
しょんぼりしていた城井がぱちりと目を瞬かせる。ようやく、彼に解放された春ノ助は、彼の隣に堂々と寝そべっている。
「紗和子さんは、世界一、料理上手なんですよ」
ふふん、と千春が誇らしげに言った。
あまりにも臆面もなく言われた言葉に、頬が自然と熱を持つ。誤魔化すように俯いて麺を啜る。
「まじでうまい、俺のぼろぼろの心にしみわたる……っ」
「はいはい。三か月なんてもった方じゃないですか。今回はなにがいけなかったんですか」
胡瓜の糠漬けを箸で摘まみ上げながら千春が言った。
「……趣味が、バレた……」
そんなにドギツイ趣味なのだろうか、薫がここにいてもいいのだろうか、と千春に視線をやると、千春は、やれやれと肩を竦めた。
「大丈夫ですよ。……ただのオカルトマニアです」
「オ、オカルト……お、おお、お化け、ですか?」
ぞくぞくっと悪寒が走る。煮麺を啜っていた薫が不思議そうに紗和子を見あげている。
「……紗和子さん、もしかして、お化け苦手ですか?」
千春が紗和子の顔を覗き込んでくる。
「い、いえっ。わ、私は優秀な家政婦なので、お化けが怖いなんてそんなっ」
「紗和子さん、声がひっくり返っていますし、何も繕えていませんよ」
薫がとんとんと紗和子の膝を撫でてくれた。紗和子は、箸を置き、両手で顔を覆う。
「……申し訳ありません。私、大抵の業務をこなすことに自信はありますが、お化けだけは、……お化けだけは……っ」
二十五歳になって情けない話だとは思うが、子どものころからそう言った類のものは一切ダメだった。
今でこそ平気になったが「糸」が見えることだって、子どもの頃は怖くて怖くて仕方がなかった。七歳くらいの頃から徐々に見え始め、一番困ったのは十二歳の頃で今みたいに制御が出来なくて、見たくなくても全て見えてしまうのが常だった。
「恵太。紗和子さんが怖がるので、我が家でオカルト話は一切禁止します」
「そ、そんなぁっ! お前、面白がって聞いてくれてたじゃん!」
城井が泣きそうな声を上げる。
「い、いえ、千春さん。私も貴方の妻になった身です。貴方の親友様のご趣味なのですから、受け入れなければなりません! ……ですから、あの……私に聞こえないようにそういったお話はお願いいたします!」
よく分かっていないだろうに紗和子の決意表明に薫が、ぱちぱちと拍手を贈ってくれた。
「……しょうがないですね。紗和子さんの心遣いを無駄にしないために、僕の仕事部屋でのみ許可します」
「ありがとう、紗和子さん!」
千春の言葉に城井がふにゃんとした笑顔で頷いた。
しかし、やっぱり失恋の傷は深いのが、良かった良かったと言いながらも城井には元気がない。
「……今回の子はさぁ、合コンで知り合ったんだけどさぁ」
早々に煮麺とおにぎりを食べ終わった城井が口を開く。紗和子は、薫のお椀におかわりを入れてやりながら耳を傾ける。
「すごくいい子で、オカルト以外の話も合うし、人の好きなものを尊重できる素敵な人だったんだ。でも、でも……オカルトだけは、どうしても駄目だってぇ……っ!」
うあぁぁん、と城井が机に突っ伏した。寝転がっていた春ノ助が、ちょいちょいと鼻でつつくと、がばりとまた彼の腕に閉じ込められる。どうやら春ノ助なりに慰めてあげているらしい。
紗和子はゆっくりと瞬きをする。
恵太の「糸」はライムグリーンのキラキラしているテープだった。それが彼の左胸でぐしゃぐしゃになってねじれている。ふと、一本だけそれがどこかへ伸びているが、少し離れたところでぷつりと切れている。彼女への想いだろうか、と考えながらまた瞬きをして「糸」を見えなくする。
「……恵太は、見目もいいですし、性格も悪くないのですが、長続きしないのです」
千春がじゃことカリカリ梅のおにぎりを食べながら言った。
「それは、ご趣味が原因で?」
「なんというか業が深いというか……恵太が好きになって恋人になった女性が軒並み、オカルトが苦手なんです」
「それは、なんとも……」
「それに恵太の場合は、大学でもそれに準ずるような、例えば民俗学とかの講義をとって研究するほどでして。恵太も多少学習して、過去にはホラーが好きな女性とお付き合いしたこともあるのですが、温度差が激しく、それで『ついていけない』とフラれました」
「ま、まあ……」
それ以上、何と言っていいか分からなかった。
「もうだめだ……俺は一生、独身なんだ……俺だって薫ちゃんみたいに可愛い娘が欲しいーっ! うわぁぁん……っ」
「城井さん、お酒を飲まれて……」
「いえ、素面です。フラれると僕の家に来て、こうして管を巻いて一泊します。放っておけば明日には立ち直るから大丈夫ですよ。うちの恒例行事みたいなものです。ね、薫」
おかわりをも綺麗に平らげて満足そうな薫が、こくん、と頷く。どうやら小花衣家では見慣れた光景のようだ。
「そうですか。でしたら後でお布団を干しておきますね。どちらのお部屋にお泊りですか?」
「隣の座敷です。でもいいんですよ、そんなに気を遣わなくても」
「いえ、千春さんの大事な方ですから」
「……ありがとうございます」
ふふっと千春が照れくさそうに笑った。
昼ご飯を食べ終わったら、薫はお昼寝の時間だ。城井の腕の中から出てきた春ノ助が「僕の仕事」と居間に敷いたお昼寝布団に寝ころぶ薫の傍に寄り添う。薫も嬉しそうに春ノ助を抱き締めると、紗和子が子守唄をうたっている間に眠ってしまう。薫は寝起きもいいが、寝つきもいい。
それから来客用の布団を応接間の押し入れから出して、縁側に干し、筍を火から降ろして冷ます。
城井は応接間で座布団を枕に横になって、薫同様、昼寝をしていた。
千春が「泣き疲れたんでしょう。まるで子供です」と呆れた顔をしながら布団をかけてあげていた。それでも恒例行事と言って付き合うのだから、彼にとって城井は大事な友人なのだろう。
薫が寝ている間に洗濯物を取り込んで、お風呂を掃除して、夕食の下ごしらえなど、諸々の家事を片付ける。
三時には、薫も起きてくるので、おやつを一緒に食べる。千春は、その日の仕事の具合で食べたり、食べなかったりだ。今日は、忙しいのか調子がいいのか、お茶だけの要望だった。それでも夕方、春ノ助の散歩には、薫と一緒に出掛けて行った。春ノ助との散歩は、良い息抜きになるそうだ。
「はい、薫ちゃん、袋を持って下さいね」
すっかり冷めて灰汁の抜けた筍を薫に手伝ってもらい、皮を剝いて、二つほどジッパー付きのビニル袋に入れていると千春がやって来る。
「おや、もうできたんですか?」
「はい。普段使わない糠を使ったりするので、手間がかかりそうに見えますが、筍の灰汁抜きはそんなに難しいものじゃないんですよ」
「僕にもできるでしょうか」
「ええと……千春さんには私がいます」
「ふふっ、そうですね。今の僕には紗和子さんがいます」
千春は、ころっと笑って「楠木さんのところに届けて来ますね」と紗和子からそれを受け取り、ご機嫌に出かけて行った。
彼は強火信者だ。とにかく強火一択。火加減という言葉が彼の辞書にはない。
曰く「生だけはいけないと教わったので」とのことだ。一体、誰に教わったのかは知らないが、出来れば弱火でじっくり焼いても火は通る、と併せて教えてあげてほしかった。
「さて、薫ちゃん。今日は、筍や菜の花などを使った春のお料理です」
薫が楽しそうにぱちぱちと拍手をする。薫は、煮物や煮つけ、あえ物といった和食も好んでよく食べる。
「さて、まずは筍ご飯の支度をしましょうか」
はーいと薫が手を上げる。
米は既に浸水してあったので、一度、水を捨てて笊に上げる。それを脇において、油抜きをしていた油揚げを手に取り、細かくちぎる。
「では、薫ちゃんはこの油揚げを、これくらいの大きさにちぎってください。できるだけ小さくお願いしますね」
こくこくと頷いた薫にパットに油揚げを二枚入れて渡す。それを受け取った薫は作業机の方に行って、仕事を始める。
紗和子は、筍を取り出して一口大よりやや小さめに切って、少し取り分け、残りは深めの皿に入れ、米の傍に置いておく。薫の仕事が終わったら、また先に進める。
「そうですねぇ、折角ですし……」
一個ずつジッパー付きビニルに入れて、二個は冷凍庫に今日は残りの二個を使って料理を作る。
まずは穂先の柔らかい部分を一個分だけ薄くスライスして、四角い皿に盛り付ければ、あっというまに筍のお刺身の出来上がりだ。堀り立てだからこその贅沢な食べ方だ。
とりあえず、刺身はラップをかけて冷蔵庫に入れ、薫が仕事を終えたので筍ご飯を仕上げる。
紗和子は、用意しておいた土鍋をコンロに乗せる。これは千春が割ったものではなく、戸棚にしまわれていた数人用の大きな土鍋だ。
薫が炊飯器を指差して首を傾げた。顔に「お米を炊くのにお鍋なの?」と書いてある。
「ふっふっふ、今日は特別に、土鍋ご飯です。まずはお米を入れて、次にだし汁と醤油、お酒、塩を入れて、はい、薫ちゃん、油揚げと筍を投入してください」
踏み台に上った薫が手に持ったパットから油揚げ、そして、皿から筍を入れる。
「そうしたら、蓋を閉めて、火を入れます」
窓辺に置いてあったタイマーを十分でセットする。
「ではお次は、薫ちゃん、小麦粉を出してきてください。それで小麦粉を出したら、チラシを二枚と後ろが白いチラシを一枚、持ってきてください」
薫が頷き、踏み台を片付けて任務を全うしに行く。
紗和子は、片手鍋にお湯を沸かし。冷蔵庫からボウルに卵を五つほど取り出して作業机に置いておく。他にもあれこれ冷蔵庫から取り出す。ぱたぱたと足音が聞こえ、薫がチラシを手に戻ってきた。
「ありがとうございます。まだお手伝いしてくれますか?」
うん、と薫が頷いた。
「なら、卵を割って下さい」
そう薫にお願いして、紗和子はパットに薫が持ってきてくれたチラシを白いものを上にして、その上にキッチンペーパーを乗せコンロの横に置く。
薄力粉をベースに片栗粉を少し、更に塩を少々。ふるいにかける代わりに泡だて器でかき混ぜて、冷水を注ぐ。そして、根元の皮を剝いて三等分にしたアスパラと薄くくし切りにした筍に薄力粉をまぶす。
揚げ物用の鍋に油を注いでいると隣におすそ分けに行っていた千春が帰って来る。
「ただいま戻りました。茹でておいて正解でしたね、楠木の奥さんとても喜んでいましたよ。お礼にタラの芽をくれました。楠木さんが知り合いからもらったそうです」
「春ですねぇ」
小さな半透明のビニル袋一杯に、タラの芽が入っている。
「ううっ、誰か、お水……」
酒を飲んだわけでもないのに、二日酔いのような顔色で城井がやってきた。
紗和子は、慌ててグラスに水を汲んで城井に差し出す。城井は、一気に飲み干し、ふう、と息をつく。
「千春、ビール」
「だめです」
「なんでぇ、いつもビールくれるじゃん!」
「紗和子さんと薫が腕によりをかけて作ってくれるんですから、そっちを食べなさい」
「千春さん、おつまみでもお作りしますから、先に飲まれていても」
「だめです。恵太は驚くほど酒に弱いんです。ビール何て飲んだら、酔っぱらって折角の料理の味も分からなくなってしまいます」
千春がきっぱりと言い切った。城井が反論しないところをみれば、本当に酒に弱いのだろう。
「いつもは酔っぱらって延々泣き続けるお前を見守るところですが、今日は紗和子さんの美味しいご飯があります。酒で泣いて憂さを晴らすより、心が元気になりますよ。僕と薫が保証します」
思いがけず貰ってしまった言葉は、紗和子の胸をじんわりと温かくする。
「美味しいご飯、作りますからね」
勝手に綻んでしまう頬をなんとか両手で押さえるが、やっぱり勝手に緩んでしまう。千春が「はい」と嬉しそうに頷いて、城井を促し、台所を出て行く。
そのタイミングで、ピピピッとタイマーが鳴り、紗和子は慌ててコンロに戻って、火を弱め、タイマーを五分にセットする。
一度、油の火を止めて、もらったタラの芽を処理する。山で採れたものではないようで、あまり棘がない。これなら薫も食べられるだろうが、大人の味だからどうだろうかと考えながら、さっと洗って根元の袴を落として、水気を切り、置いておく。
とんとんと机をたたく音に振り返る。コンロに火がついている時と包丁を使っている時は、危ないので用がある時は机や手を叩いて知らせるようにと約束したのだ。
「はい、ではこれであっちの机を拭いて来て下さい」
卵を割り終えた薫に台拭きを渡すと、こくん、と頷いて椅子を降り、台所を出て行く。
紗和子は、再び油の鍋に火を入れて、菜箸で温度を確かめる。ふつふつと小さな泡が上がったので、薄力粉をまぶした筍を天ぷらの衣にくぐらせて、満遍なくつけたら、そっと油の中に入れる。
じゅわわわわっ
柔い雨のような音が広がる。
再びピピピッとタイマーが鳴る。そのタイミングで、薫が千春と共に戻ってきた。
「薫ちゃん、次はこれとお箸をおねがいします。千春さんは、よければこの土鍋を運んでいただけますか?」
薫に鍋敷きと箸を渡しながら尋ねる。
「分かりました。これはなんですか?」
「御所望の筍ご飯です。このタイマーが鳴ったらしゃもじでかき混ぜて下さいね」
鍋掴みを千春に渡し、しゃもじも渡す。
「筍ご飯、とても楽しみにしていたんです。タイマーが鳴ったらですね」
しゃもじを土鍋の蓋に乗せ、よいしょ、と千春が土鍋を持ち上げる。紗和子は、さくっと上がった天ぷらを鍋の縁の網の上に置きながら、台所を出て行く彼の背に声を掛ける。
「千春さん、タイマーが鳴るまで絶対に蓋を開けないで下さいね。開けると台無しになりますからねー!」
「分かりました。命に代えても開けません!」
その返事を聞きながら、紗和子はまた筍を油の中へと入れ、薫が割ってくれた卵の入ったボウルを手に取り、別の料理も同時に作り始めるのだった。