2-1
浮上していく意識に目を開ければ、目の前に稚い少女の寝顔があった、
「ええと……」
混乱する頭が次第に冷静さを取り戻し、紗和子は昨夜、自称婚約者に連れ去られそうになったところを助けてくれた千春の家に泊まったのを思い出す。
隣の布団で寝ていたはずの薫が、何故か紗和子の腕の中ですやすやと眠っている。
だが、その可愛いらしい寝顔を見ていると自然と笑みが零れる。そっと、目にかかる前髪を払うように撫でる。起きる様子もなく、薫は穏やかな寝息を立てている。薫の向こうでは、春ノ助が気持ちよさそうにお腹を上に向けて眠っていた。
紗和子は、枕元のスマホを手に取り、時間を確認する。
「……習慣ってすごいですね」
いつも通り五時半に目を覚ました自分に苦笑する。
昨夜、お風呂に入ったあと、紗和子は玄関横の部屋で薫と布団を並べて眠った。千春はまだ少し仕事があると言っていたのでいつ寝たのかは分からない。
まだ朝ご飯の支度をするにも早すぎると紗和子は、ぼんやりと薫の寝顔を眺める。
長い睫毛はくるんと上を向いていて、まろい頬はふわふわのお餅みたいだ。ちょんと指でつつくとその柔らかさに感動する。
「可愛いですねぇ……」
思わず心の声が零れてしまう。
紗和子自身、子どもは好きだ。割と本気で保育士になりたいと思っていたが、悩みに悩んで食事に関係する道を選んだ。
それからしばらく薫の寝顔を眺めて時間を潰し、朝ご飯の支度をするのにちょうどいい時間になり薫を起こさないようにそっと体を起こす。布団の上に座ったままぐぅっと伸びをして、息を吐く。
春の朝は、ほんのりと明るく柔い光に包まれている。
紗和子は、布団を抜け出す。さすがに春ノ助が目を覚ますが「薫ちゃんをお願いしますね」と声を掛ければ、春ノ助は尻尾を振って返事をしてくれた。
廊下へと出ると足の裏に冷たさが染みる。もうすぐ四月と言っても、まだまだ朝は冷える。
紗和子は、お手洗いを済ませて、洗面所で顔を洗って、昨日、千春が用意してくれた来客用の使い捨ての歯ブラシで歯を磨く。亜麻色の髪を梳かして、部屋に戻る。
こっそりと洗って干しておいた下着を身に着け、昨日と同じ服に着替えて、軽く化粧をして身支度を整え、紗和子は台所へ行く。
昨夜、眠る前に朝ご飯の確認をしたら千春に「ぜひ!」とお願いされたのだ。
料理が苦手だという千春は「食材に選択肢がたくさんあれば、何かできるのではないか」という考えに従って、ありとあらゆる食材を買い込んでいるそうなので、食材には事欠かない。
タイマーをセットした炊飯器でご飯が炊けているのを確認して、支度にとりかかる。
確認したところ朝は和食派らしいので、お味噌汁と玉子焼き、他に何を作ろうかと冷蔵庫を開ける。
甘塩と書かれた鮭があった。なぜか四切れもあるので、これをメインにしようと取り出す。他に野菜室でホウレン草を見つけたので、おひたしにしようと取り出す。
先にほうれん草を茹でて、おひたしを作る。茹でて水で冷やしたほうれん草をひと口大に切り分けて、小分けの鰹節を掛けて、めんつゆと醤油、うま味調味料を掛けて、よく混ぜて、小鉢に盛り付ける。
次に空いた片手鍋で味噌汁を作る。紗和子としては出汁を取りたいが、食材はあっても、出汁用の昆布やかつお節はない。今日のお味噌汁はお手軽に顆粒出汁を使う。
本日の味噌汁の具は長ネギと豆腐、油揚げとキャベツだ。紗和子は、作り立てより少し時間を置いて、お豆腐に味が染み込んだ味噌汁が好きだ。
水で薄めたみりんを塗った鮭を魚焼きグリルに並べて、スイッチを押す。四切れとも焼いて、余ったらほぐして、お昼にでも食べられるようにおにぎりの具にする。
出汁巻玉子も顆粒出汁で作っただし汁と砂糖で味を調え、専用の玉子焼き器はなかったので、小さなフライパンに流しいれる。
じゅわわっと軽やかな音を聞きながら、手早くまとめて形を整えていく。何度かにわけて卵液を流し込めば、楕円形の玉子焼きの完成だ。
まな板の上で玉子焼きを切り分けていると、カチカチと爪が廊下に当たる春ノ助の足音が聞こえて顔を上げる。振り返ればひょっこりと居間から薫が顔を出した。薫の後ろから春ノ助も顔を出す。
「おはようございます、薫ちゃん。もうすぐ朝ごはんが出来ますよ」
薫は、こちらに来ると少し背伸びをして、紗和子の手元を覗き込む。
「玉子焼き、好きですか?」
こくこくと頷く薫に笑みを零して、切れ端を摘まんで、ふーふーと息を吹きかけ冷ましてから、薫の口持ちに運べば、ぱくんと薫が食べる。
もぐもぐと動く頬に比例して、薫の顔がぱぁと輝く。
「美味しいですか?」
うんうんと薫が何度も頷く。
「では、千春さんを起こして来て下さい。そうしたら朝ご飯にしましょう」
はーいと手を上げて薫が春ノ助とともに台所をでていく。
その背を見送って、紗和子は居間に朝食の仕度をする。焼き上がった鮭を皿に盛りつけ、お茶碗やお箸を見つけ出し、お椀によそったお味噌汁を卓袱台に運び終えたところで、薫に手を引かれた千春が居間にやってくる。
「……おはよーござます」
どこまでも眠気が感じられる声で千春が一応、朝の挨拶をしてくれたが、目が開いていない。寝間着らしい浴衣の襟がはだけているし、さらさらの黒髪には盛大な寝癖がついている。
「おはようございます。あの……まだ起こさないほうが良かったですか?」
「……いえ、かおを、あらってきます」
そう言って千春は、よろよろと洗面所へ歩いていく。春ノ助が心配そうについて行った。
「薫ちゃん、もしかして千春さん、朝はいつもあんな感じですか?」
紗和子は卓袱台の上のご飯を嬉しそうに眺めている薫に思わず尋ねる。
顔を上げた薫は、うん、と一つ頷いて、部屋の隅に積んであった座布団を卓袱台の周りに並べてくれた。
それにお礼を言って紗和子は、台所に戻り炊飯器からご飯を茶碗によそい、他に冷蔵庫の中にあったたくあんを取り出す。千春が切ったらしいそれは、厚さがまちまちだった。
お茶の支度をして、紗和子が居間に戻ったタイミングで、千春が戻って来て、薫が用意した座布団に座った。
「朝ごはん、用意して下さったんですね」
千春の頭はまだ寝癖が爆発していたが、目は覚めたようだ。
「はい。こんな感じで大丈夫でしょうか?」
「むしろ、十分すぎます。こんなまともな朝ご飯、何年ぶりでしょうか」
そう告げる千春の顔が、卵焼きを食べた時の薫にそっくりで紗和子は思わず笑ってしまいそうになるのをなんとか堪えて、千春にお茶を出す。薫は、朝は牛乳派のようで、自分で冷蔵庫から出してきたものを、千春がコップに注いでいた。
「……紗和子さん」
ふとやけに強張った声に名前を呼ばれて顔を上げる。
「紗和子さんの分がないような気がするのですが」
彼の言う通り、卓袱台の上に並ぶのは二人分の食事だ。そこに紗和子の分はない。
昨夜は千春に「紗和子さんも食べて下さいね」と言われたので、オムライスを自分の分も作ったが、そうでなければ助けてもらって、更には泊めてもらった上に朝ご飯までもらっては、図々しすぎるだろう。
「私は帰ってから食べますので大丈夫です。台所にいますから何かあったら呼んでください。玉子焼き以外は、おかわりもありますので」
そう告げて立ち上がろうとした紗和子だったが、ぐっと手を引っ張られて、上げかけた腰が止まる。中途半端な姿勢のまま顔を向ければ、薫が紗和子の手を小さな両手で握りしめていた。
「薫ちゃん?」
薫は、困ったように辺りを見回して、左手で紗和子の手を押さえたまま、右手で自分のお茶碗を紗和子に差し出してきた。
訳も分からぬままに紗和子がお茶碗を受け取ると、薫はそのまま紗和子に横から抱き着いてきた。バランスを崩して畳の上に逆戻りするが、薫は離れない。紗和子の胸に顔をうずめて、ぎゅうとしがみつかれる。
思わず助けを求めて千春を見れば、千春も驚きに目を瞬かせて薫を見ていた。
紗和子は、手の中の小さなお茶碗と薫を交互に見る。
今朝、起きた時に薫が何故か紗和子の腕の中にいたのを、どうしてか思い出した。
卓袱台に茶碗を置くと、コトリ、と小さな音がした。薫の腕の力が少し強くなる。
空いた手でそっと薫を抱き締め返した。
「やっぱり、一緒に朝ご飯をいただいてもいいですか?」
あやすように背中を撫でて、サラサラの髪を指先で梳く。
「ご飯を食べ終えたら、お片づけをして、薫ちゃんの髪の毛、可愛くしてもいいですか?」
薫の腕の力が、また少し強くなる。
「そうしたら、お家の片づけをしましょうか。奥座敷のお洗濯ものを片付けて、廊下に雑巾がけをして……そうだ。お昼は何が食べたいですか?」
ようやく薫が顔を上げてくれた。少し潤んだ大きな目が、じっと紗和子をみつめている。
紗和子は、髪を撫でていた手で薫の頬を包み込んで、微笑みかける。
「私の朝ごはん、運ぶの手伝ってくれますか?」
うん、と薫が頷いて立ち上がる。差し出された小さな手を取って、紗和子も立ち上がった。
「千春さん、私も朝ご飯を頂いてよろしいでしょうか?」
「も、もちろんです。僕も手伝いますよ」
「いえ、大丈夫です。どうぞ、お先に食べていてください」
はっと我に返ったように千春が立ち上がろうとするのを制して、紗和子は薫と共に台所へと行き、自分の分の朝ご飯の支度を整える。
居間へ戻ると薫の座布団の隣に紗和子の分の座布団が置かれていた。
「……ありがとうございます。千春さん」
「いえ」
千春は少し照れくさそうに目を伏せた。
支度が整ったのを見計らって、待っていてくれた千春が手を合わせる。紗和子と薫もそれに倣う。
「いただきます」
千春に合わせて挨拶をして、箸を手に取る。紗和子の分は、来客用がなかったので割り箸だ。
「薫ちゃん、お魚、ほぐしていいですか?」
薫は、うん、と頷いてお皿を紗和子の方に寄せてくれた。紗和子は、鮭を丁寧にほぐして骨を取り除く。薫は、紗和子の手元を見てなんだか、わくわくしながら待っている。
「はい、どうぞ」
骨を取り除いて、ほぐした鮭を薫の前に戻ると、薫はぺこっと頭を下げた。彼女なりのありがとうだろうと思い「どういたしまして」と返す。
薫は幼いながらに綺麗な箸遣いで鮭を摘まみ上げて頬張った。とたんに可愛い顔が、美味しさに輝く。
紗和子は、薫の笑顔にほのぼのしながら、自分の分へと箸を伸ばす。
ふとやけに静かだな、と千春に目を向けて、紗和子は思わず笑みを零す。
千春の箸は、忙しなく動いている。その顔が言葉よりも明白に「美味しい」と語っている。
昨夜のオムライスもそうだったが、この二人は、その顔に浮かぶ表情が言葉より何より「美味しい」と紗和子に伝えてくれる。
結局、薫はおひたしを千春はご飯とお味噌汁、鮭もおかわりして、朝食は綺麗さっぱりなくなったのだった。
居間で薫の後ろで膝立ちになって、その美しい黒髪を櫛で梳かす。
子ども特有の細い髪は、サラサラな上に艶々していて、ダメージという言葉とは無縁そうだ。枝毛などありそうにない。
「綺麗な髪ですね」
紗和子の問いに薫は、照れくさそうに首を竦めた。
春ノ助は居間の片隅で眠っていて、千春は部屋で着替えをしている。ご飯を食べ終わった後、彼の左手の包帯を巻きなおしたが、まだまだ火傷は痛そうな様子だった。紗和子のおかゆを作ろうとして負った火傷なので、なんだか申し訳ない気持ちになる。
紗和子は、部屋から持ってきたポーチを開ける。
このポーチの中には使い捨ての細いヘアゴムやちょっとしたヘアアクセサリーやリボンが入っている。そのヘアアクセササリーもリボンも百円均一産だが、昨今のそれはとてもおしゃれなのだ。
紗和子は、薫の髪を二つに分けて、編み込みにする。耳たぶの後ろくらい編み込みを止めて細いヘアゴムで結んでから、薫に青とピンクのリボンを見せる。
「どっちのリボンが良いですか?」
薫は少し悩んでピンクを指差した。紗和子は「じゃあ、これにしましょう」と青のリボンはポーチに戻して、鋏を取り出す。みつあみを止めているヘアゴムの上にピンクのリボンをリボン結びにして、適当な長さでパチンと切る。
「はい、完成です」
両方にリボンを結んでそれらをポーチに戻す。
薫は、自分の髪の毛をつまんだり、リボンにそっと触れたりして、嬉しそうに紗和子を振り返った。ぴょんと抱き着いてきた薫を受けとめる。
「ふふっ、気に入ってもらえてよかったです」
「おや、薫、随分と可愛くしてもらったんですね」
聞こえてきた声に顔を上げて、紗和子は思わず目を瞬かせる。薫もぽかんと口を開けて、入り口に立つ千春を見ている。
「ち、千春さん、ですか?」
「はい、そうです。……洋服は着慣れないのですが、どこか変でしょうか?」
そう言って千春は、不思議そうに首を傾げた。
何故か彼は、ネイビーの三つ揃えのスーツを着ていた。髪も後ろに撫でつけられていて、整った顔立ちがより際立っている。
先程までの寝癖をつけていた姿が信じられない。まるで大手商社に勤めるエリートサラリーマンといわれてもしっくりくる。先ほどまでの彼とはまるで別人だ。
紗和子は、これまで多くの家庭で仕事をしてきた。家政婦を雇うということは、やはり経済的な余裕がある家庭がほとんどだ。故にそれなりに目は肥えている自負はある。
千春のそれは間違いなくオーダーメイドだ。彼のスタイルを最大限に引き立てるラインは、間違いなく彼のためだけに作られた一着だと分かる。ボタンや生地にも細やかなこだわりが見て取れら。
「薫、紗和子さんとお留守番、できますか?」
薫は、ぽかんと口を開けたまま頷いた。千春は満足げに頷いて紗和子に顔を向ける。
「紗和子さん、申し訳ないのですが出かけて来てもよいでしょうか?」
「え、あ、はい。何時ごろお戻りですか?」
思わず家政婦時代の返事が口から勝手に出ていた。
「そうですね、おやつの時間くらいまでには。何かあったら遠慮せずに連絡をください」
「……は、はあ」
なんとも気のない返事をしてしまった。
「やっぱり、似合いませんか?」
不安そうに眉を下げた千春に紗和子は、慌てて首を横に振った。
「とんでもありません。あの、お着物の時と印象が全く違うので、驚いてしまって。とても素敵です!」
自分でも何を口走ったかよくわからなかったが、千春は嬉しそうににぱっと笑うとこちらにやって来て、何故か紗和子の隣に膝をついた。
「薫、写真をお願いします」
そして何故か薫に自分のスマホを渡した。薫は慣れた様子でカメラを起動させて、少し離れてそれを構える。
「え。え?」
ぐいっと肩を抱かれて、千春が顔を寄せてくる。
「はい、紗和子さん、笑って下さい」
「え? あの」
男性とこんなに近づくことなどこれまでの人生で一度もなく、羞恥に頬が熱くなる。
するとカメラを構えていた薫が、とんとんと足で音を立てた。顔を向ければ、自分のほっぺを指差して、にこっと笑った。つまりこれは「笑え」という指示だ。
紗和子は、そんな薫が可愛かったのでわけが分からないままにつられて笑った。
ピロリンと音がして写真が撮られたことだけは分かった。
「あ、あの千春さん?」
紗和子の肩を放して立ち上がった千春が薫からスマホを受け取り、画面を確認している。
振り返った千春は、にこっと笑う。
「紗和子さんに素敵だと言って頂けたので記念に残したくて。それでは行ってきます。薫、良い子にしているんですよ」
そう言って千春は、薫の頭をぽんと撫でてスーツの襟を正すと、颯爽と出かけて行った。ガラガラと玄関の引き戸が開閉する音が聞こえた。
紗和子は、薫に頬をちょんとつつかれて、我に返る。
あまりにマイペースに事を進められ過ぎて、脳内の処理が追い付いていなかった。
「す、すみません。びっくりしてしまって……洋装だと雰囲気が全然違いますね」
薫もこくこくと頷いて、手を口に当てて驚きのジェスチャーを見せてくれた。薫も驚いたということは、あの格好はかなりレアなのだろう。
「職業、モデルさんと言われてもしっくりきちゃいますね」
だんだん驚きと戸惑いが落ち着いて来ると、自然と笑いが零れる。ふふっと笑いながら言うと薫も、笑った。