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結局、昨日、一時間後に二人を起こし、遅い昼食を食べた。その後、薫は紗和子と千春にずーっと張り付いていて、どちらかがトイレに立つのにもついてきた。
そして、夜も紗和子の部屋に布団を二枚敷いて、昼間のように三人で眠り、朝になってようやく薫はいくらか落ち着いたようだった。
いつも通り、朝のお手伝いをしてくれて、朝ご飯もしっかり食べられた。日菜子が来て、千春が出かけていく時は、少し寂しそうだったが、泣いたりはしなかった。
「さて、薫ちゃん、何がしたいですか?」
薫に問いかけると、薫は紗和子の手を引き、居間に行き、テレビを指差す。
「テレビが観たいんですか?」
薫は、こくん、と頷いてテレビの下の台からDVDを一枚、見つけ出して紗和子に差し出す。薫が一番好きな、田舎に越してきた姉妹たちが主人公で、大きな森のお化けや、化け猫のバスが出てくるアニメ映画だ。
「あ、薫ちゃんのお気に入り映画ですね。なら、ジュースを飲みながら観ましょうか」
こくこく、と薫が嬉しそうに頷き、紗和子は台所にいってリンゴジュースを二人分、グラスに注いで戻る。
準備万端で待っていた薫に座るように促されて、座布団に腰を下ろすと薫が膝に乗り、リモコンの再生ボタンを押した。春ノ助は、ちょっとつまらなそうに千春の座布団の上で丸くなった。
真剣に見入っている薫は可愛い。驚いたり、笑ったり、ハラハラしている表情をこっそり眺める。
映画が終わりに差し掛かり、迷子の妹と姉が再会したところで「ただいまもどりました」と千春の声が聞こえてきた。薫が真っ先に立ち上がり、玄関にお出迎えにいく。紗和子は、とりあえず映画を止めておこうと一時停止ボタンを押す。それから立ち上がったところで、何故か薫が慌てたように戻って来て、紗和子の後ろに隠れた。
「薫ちゃん? どうしたんです?」
「紗和子さん、すみませんが来ていただけますか?」
「はい、今行きます」
薫をくっつけたまま、廊下へと出て「あらあら」と目を瞬かせる。
玄関にいたのは、千春だけではなかった。
日菜子に、ちょっとした応援を込めて帰りにお菓子を渡そうと思っていたので、連れて来て下さいとは伝えてあったのだが、千春は何故か眠る蓮人を抱えていた。千春の後ろには日菜子に支えられるようにして立っている御影と、そして、八カ月くらいの女の子の赤ちゃんが御影の腕の中にいた。多分、この子が蓮人の妹の美智だろう。
「とりあえず、お茶の支度を頼んでいいですか?」
気のせいでなければ、千春は出かけた時より、くたびれた様子だ。髪が乱れて頬の湿布がはがれかけている。
「分かりました。どうぞ、おあがりください」
紗和子は人数分のスリッパをラックから出して並べ、薫と共に台所に行き、お茶の支度をする。
紗和子の部屋の向かいの二間続きの和室は、手前を応接間として使っている。
中に入れば、長方形の机を挟んで御影と千春が向かい合うように座り、日菜子は、中立の立場を示すように御影親子と千春を見守れる入口側の席に座っていた。美智と蓮人は、くっつけた座布団の上で寝ていて、千春の羽織が掛けられていた。
御影の前にお茶を出す。
「どうぞ」
「大丈夫です、ありがとうございます」
御影がか細い声で言った。
なんだか昨日よりやつれている。今日は化粧もしていないのだろう、目の下の隈が酷い。
千春の隣に用意されていた座布団の上に紗和子は腰を下ろす。薫が自分の座布団をくっつけるように置いて、紗和子の脇に抱き着いて来る。小さな頭を撫でて、彼らに向き直る。
口火を切ったのは、千春だった。
「まず、紗和子さんに状況を説明しますね」
「はい、お願いします」
紗和子は隣の千春を見上げる。
「日菜子先生と御影さんのお宅に伺ったんですが……蓮人くんが見つからなくてですね」
確かに御影家は、外から見る限りなかなか大きなお家だが見つからないとはどういうことだろうかと首を傾げる。
「今日は……朝から」
千春が喋るより早く御影が口を開いた。彼女は俯いたまま、か細い声で言葉を紡ぐ。
「美智がぐすっていて……離乳食も、食べさせるのに手間どって、なのに蓮人まで食べさせてほしいとぐずって。それで私が「我が儘を言わないで!」と叱ったら、蓮人が火がついたように泣き出して……。私、とても苛々して蓮人を無視して、美智にご飯を上げて、でも、気づいたら蓮人がいなくて……お約束の時間になってっ」
だんだんと涙声になって、遂にはぼろりと涙が零れた。紗和子は部屋の隅にあったティッシュをケースごと、御影に差し出した。御影は、震える声でお礼を言ってティッシュで涙をぬぐう。
涙に言葉を詰まらせる御影に代わって、千春が口を開く。
「それで日菜子先生たちと一緒にまずは蓮人くんを探したんです。蓮人くんは、二階の自分の部屋のベッドの下にいまして……まあ出て来てもらうのにひと悶着ありまして」
千春が苦笑を零す。なんとなく想像が出来て、紗和子は誤魔化すようにお茶を飲む。
「それで何とか蓮人くんを宥めて。どうにか泣き止んだら寝てしまったのです」
「でも、何故、うちに?」
蓮人が寝たのならば、落ち着いて三人で話ができたのではないかと首を傾げる。
千春が気まずそうに視線を逸らす。日菜子も、なんとも言えない顔をして、お茶を飲む。
「ええとですね、御影さんのお家は、ちょっとあの」
「ち、散らかってるんです」
言い淀んだ千春の言葉を、御影本人が引き継いだ。
御影は目にティッシュを当てたまま、口を開く。
「ものすごく、散らかって、もはやごみ屋敷なんです……っ」
確認の意味を込めて千春と日菜子を見れば、二人は揃って深々と頷いた。千春が「撮影許可は頂きましたよ」とさりげなく、スマホの画面を見せてくれた。
引っ越しの段ボールがまだリビングの隅でタワーになっていて、脱ぎ散らかされた服や、蓮人や美智のおもちゃ、コンビニ弁当の残骸が散らばっている。
紗和子は、驚きよりも先に「やっぱり」と納得した。
家事に手が回っていないという家政婦の勘は正しかったようだ。
「それでここは前職家政婦の紗和子さんの出番だな、と連れて来ちゃいました」
千春がまた母親の機嫌を伺う子どものような目で見つめてくる。三兄弟の末っ子だからか、千春は甘えるのがとても上手で、ついつい甘やかしてしたくなってしまう。
しょうがないでですねえ、と笑って紗和子は御影に顔を向ける。
「御影さんは、家事が苦手ですか?」
紗和子の問いに御影は深く深く頷いた。
「夫が、家事が大好きなんです。私は、料理も、洗濯も、掃除もろくにできないんですが、夫はすごく上手で……っ。以前は、Y市のマンションに住んでいたんですが、私の所属する事務所が移転することになって、丁度いいからと家を建ててこちらに越してきたんです」
御影の声は、まだ涙が滲んでいる。
「夫は、建築士で引っ越し気を機に独立する予定だったんです。家の一部を事務所にすれば、家のことは自分が出来るから、京子は好きに働いていいよ、と……。ですが、夫が会社を辞める直前に、夫が中心となって完成させたはずのプロジェクトで問題が起きて……社運をかけた大きなお仕事だったので、夫も現地に行かなければならなくなったんです」
「旦那様は、いつ頃、お戻りに?」
「早ければ、二か月後には……私、本当に家事が苦手で夫に頼りきりだったので、徐々に家の中が散らかって、仕事も難しい案件を抱えていて……ご飯も失敗して、まずいものばかりで……だけど、蓮人は『おいしいよ』と食べて、くれて……っ」
ひっく、と御影の――京子の背中が揺れる。
紗和子は、薫を千春に任せて立ち上がり、京子の隣に膝をつく。その背中にそっと触れ、あやすように撫でると嗚咽が零れた。
「れ、蓮人は……本当は、とても優しい子なんです……っ。美智の面倒を見てくれて、私が仕事から帰ると肩を揉んでくれたりしてくれて……っ。でも、今までは大樹くんが、家のことを整えてくれていたから、そういう時間が取れて……だけど、私は、何もできなくて、苛々して、蓮人が……、蓮人を、――叩いてしまったんです……っ」
ひときわ大きな嗚咽が漏れる。
「おと、一昨日っ、美智にミルクをあげていたら……っ、蓮人がヤキモチを妬いて、美智の手を叩いて……それで私、思わず、蓮人の手を叩いてしまって……謝って、謝ったんですけど、私、蓮人を傷つけてしまって……っ」
「大丈夫、大丈夫ですよ、御影……いえ、京子さん」
紗和子は、そっと京子の背を撫でる。
「わか、わかってるんです、蓮人が、寂しがって、いること……っ。お兄ちゃんになったからって、おかあさんって私を呼んでたのに、また、ママって呼んでるのも、甘えているんだって……でも、私が甘えさせてあげられる、よゆうが、なくて……っ」
しゃくり上げながら、京子が必死に言葉を紡ぐ。
「ごめ、ごめんね、ごめんね、蓮人、美智っ、駄目なママで……ごめんねぇっ」
「お、おれも、ごめんなざい」
実は、少し前から起きていた蓮人の声に京子がはじかれたように顔を上げた。
蓮人が顔をくしゃくしゃにして泣きながら、四つん這いで京子の下にやって来る。
「ママ、わがままいって、ごめなんざい、かおる、かおる、ちゃんにもいじわる、して、おれさみしくて、美智ばっかり、ママといっしょにいくから、ずるくて……ごめんなざい、ごめんなざい、かおるちゃんも、ごめんなざい、おれ、かおるちゃん、ママといっしょなの、うらやましくて、いじわるしてごめんねっ……おれ、ママすきだから、おれ、おれっ」
京子ががばりと蓮人を抱き締めた。
「ママのほうこそ、ごめんね……ごめんねっ。ママだって、蓮人が大好きよ。もう世界中で一番大好きよ……っ」
「ま、ママぁぁっ」
声を上げて泣き出した蓮人を京子は力の限り抱き締めて、同じようにわんわんと泣きだした。
もらい泣きをしている日菜子にもティッシュを差し出して、紗和子は千春の隣に戻る。
「千春さん、お耳を貸して頂けますか。薫ちゃんも」
「はい、どうぞ」
千春が体を傾ける。薫も膝立ちになって耳を貸してくれた。
「……今日は、京子さんと蓮人くんと美智ちゃんと、お泊り会をしませんか?」
「そうですね、あのお家に戻っても解決できそうにないですし、僕は賛成です」
紗和子は、薫を振り返る。薫が嫌だと言ったら、申し訳ないがお泊り会は無しだ。紗和子が一番に優先させるべきは、薫だからだ。
だが、薫は指でOKを作って、笑った。
「いいんですか、薫ちゃん。嫌じゃない?」
薫は、こくこくと頷くと、蓮人を指差してから、自分の両手で握手をして、お辞儀をした。どういうことだろう、と首を傾げると、ずびずびと鼻を啜りながら日菜子が解説してくれる。
「そ、それはごめんなさいと仲直りの合図なんです。握手と、ごめんなさい……っ。ぐすんっ」
日菜子の言葉が正解、というように頷くと、今度は泣き真似をして、次に何かを撫でるように小さな手が動き、次にぎゅっと短い腕が何かを抱き締める。
「ぞ、ぞれはぁ……泣いてる子には、やざじぐ、しましょという合図ですぅっ」
日菜子がだばだばと泣きながら教えてくれた。
「なるほど……蓮人くんがごめんなさいしてくれたから、薫は許してあげて、それで、泣いているから優しくしてあげてということですか?」
千春の問いに薫は、通じたことが嬉しかったのか笑顔でこくこく頷いた。そんな薫を感極まった千春がぎゅうと抱き締める。
「薫、なんて良い子でしょう……っ、さすが、僕の薫です……っ」
薫は、千春に褒められてくすぐったそうに笑った。
蓮人や京子、日菜子が落ち着くのを待って、紗和子は「今日はお泊り会です」と決定事項を告げた。
「あ、あのう、小花衣さん。私も蓮人くんの担任です。何か、出来ることがあれば、むしろ、何かお手伝いさせてください」
「でしたら、日菜子先生も泊まっていってください。それで、美智ちゃんのお世話を助けてくれるとありがたいです。蓮人くんに一番必要なのは、ママに思いっきり甘えて過ごす時間だと思うので」
「お任せください。森山幼稚園に来る前は、保育所で未満児クラスの担任だったんです!」
日菜子が拳を握りしめ、力強く言った。
「あ、でも、私までお泊りなんていいんですか……? ご迷惑じゃ……」
「いえ一人二人増えても大丈夫ですよ」
「ですが、大人数なのでお風呂は近くの銭湯にでも行きましょうか」
千春の提案に薫がぴょこぴょこ跳ねて嬉しそうにする。
薫は、紗和子が小花衣家に越して来た日に初めて行った銭湯が大好きなのだ。週末は、銭湯に行く習慣でも作ろうか、と千春と話しているほどだ。
「でも、まずはおやつでも食べましょうか。今日は、プリンを作ってあるんですよ。あ、皆さん、アレルギーとかありますか?」
ないです、と返事が返ってくる。
すると千春が「じゃあ」と口を開く。
「おやつにしましょう。皆さん、よければ洗面所で顔でも洗ってきてください。紗和子さん、手伝いますよ、ね、薫」
薫がこくこくと頷く。
「ふふ、じゃあお願いします」
紗和子が立ち上がると、皆がそれぞれ動き出す。
この二間の和室は、廊下に囲まれているので、紗和子たちが座っていたほうの襖を開けば、すぐそこが洗面所だ。
三人が出て行くのを見送り、紗和子たちは台所へ移動して、おやつの支度をする。居間で寝ていた春ノ助が「僕もー!」と今度は一緒についてきた。
応接間に戻って、おやつの仕度をしていると顔を洗った蓮人が、薫の下にやってきた。薫がちょんと紗和子の袖を掴む。
「あ、あの、薫ちゃん、オレ、いじわる、いっぱいして、ごめんなさいっ」
蓮人がぺこりと頭を下げた。薫は、にこっと笑うと言葉の代わりに、蓮人の頭をよしよしと撫でた。
蓮人が驚いたように顔を上げると、薫が両手を前に二回出して、それから部屋を出て行く。
「今のは、待ってての合図なんです。ちょっと待っててくれますか?」
千春の言葉に蓮人が頷く。
「あ、あの、薫ちゃんのおかあさんとおとうさんも、おれ、ひどいことして、ごめんなさい……っ」
泣きそうな顔で蓮人が頭を下げる。
あの暴れようが嘘のようだ、と感心しながら、紗和子はよしよしと薫を真似するように蓮人の頭を撫でた。
「蓮人くんはきちんと謝れて、とても良い子ですね」
「僕も別にこれくらいは何ともないから大丈夫です。それよりとてもいい蹴りを持っていますから、もし興味があれば道場にでも遊びにきてくださいね」
「どうじょう?」
「空手という武道……うーん、戦い方や強さを学ぶところですよ」
千春の言葉に蓮人が「どうじょう」とまた呟いた。ちょっと興味があるのかもしれない。
ぱたぱたと足音がして、薫が戻ってきた。
薫が手に持っていたそれを、蓮人に差し出す。
青い和柄の折り紙で折った、お花だ。
「……オレにくれるの? オレ、薫ちゃんのおはな、だめにしたのに……」
薫は、にこにこ笑って蓮人の手を取ると、お花をその手に乗せた。
蓮人は泣きそうな顔で「ありがとう」と笑った。