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薫は、折り紙をくしゃくしゃにされてしまったことが、やはりそれなりにショックだったらしく、翌朝、幼稚園に行く段階になって少しだけ元気がなくなってしまった。
千春と相談し、紗和子と千春と春ノ助と一緒に行こうと提案するとほっとしたような顔をして頷いてくれた。
なので、あれから毎日、紗和子は千春と春ノ助と共に薫を幼稚園に送り届けている。犬にアレルギーのある子もいるだろうから春ノ助は、門の近くまで。薫にご指名されたほうが薫と一緒に玄関まで行っている。
日菜子曰、あの日以上に蓮人が泣き叫ぶことはないそうだが、毎朝、母親から離れるのを嫌がり、幼稚園に来ても誰とも遊ばず教室の隅に一人でいるそうだ。大人が声を掛けても見向きもしてもらえないらしい。
蓮人の母からは一度、連絡があり丁寧な謝罪を電話越しに受けた。だが、あれから朝、会うことはなく、帰りも時間が違うので姿は見ていなかった。
「すみません、忙しくて、時間がなくて」
金曜日、幼稚園に行き、玄関の中まで薫を見送り、春ノ助が敷地内には入れないため門の外で待っていた千春のところに戻ると蓮人とその母の御影京子が、日菜子と園長の杉山にぺこぺこと頭を下げていた。蓮人は、御影の脚にぎゅうと抱き着いている。
「御影さん、お月様コースは十九時までなんです。たまにお時間を過ぎてしまうくらいはこちらも目を瞑りますが、こうも連日ですとさすがに見過ごすことができません」
杉山が心配そうな顔をしながらもきっぱりと言った。
なんだかこの間見た時よりも、御影はやつれているように見えた。
「本当にすみません……忙しくて、本当に時間がなくて」
御影は、ぺこぺこと頭を下げる。
日菜子も杉山も、御影のあまりにやつれた様子に踏み込んで言うことができないようだった。
紗和子は、こっそりとゆっくり瞬きをして「糸」を見る。
思わず、息を呑んだ。
あの日よりもオレンジのレースのリボンは、ぐるぐると御影の腕時計に絡みつき、心のほうはぐしゃぐしゃ具合が酷くなっている。蓮人のほうもそれは同じで、黄色のリボンは母親にぐるぐると絡みついていた。
瞬きをして「糸」を消し、紗和子は改めて御影を見つめる。顔色も悪く髪がほつれて、ブラウスの襟が中へ入ってしまっているし、グレーのタイトスカートは皺だらけだった。
「あ、小花衣さん」
日菜子が気づいて頭を下げる。すると御影が「もしかして、先日の」と青白い顔をますます蒼くした。
「せ、先日は息子が大変、失礼を、申し訳ありませんでした……っ!」
突然、頭を下げられて紗和子と千春は顔を見合わせる。春ノ助が首を傾げる。
「お嬢さんの折り紙を奪って破った上に、お母様に体当たりをしたそうで、本当に申し訳ありません。直接謝罪にも行けず……っ」
「御影さん。その件は、先日、謝罪を頂きました。顔を上げて下さい」
千春が声を掛けて御影が顔を上げ、彼女の脚に抱き着いたままの蓮人に声を掛ける。
「蓮人、あなたもちゃんと謝りなさい」
御影の固い声が蓮人に向けられる。
紗和子も千春も蓮人の謝罪については、時間が必要だと考えていた。きちんと謝るという行為は、蓮人が他の子どもたちと打ち解けるには確かに必要なのだろう。だが、大人と違って、子どもは建前なんてものは作れない。今の蓮人にはまだその余裕がないと本人の様子や日菜子の話を聞いて思ったのだ。
「御影さん、今はまだ」
千春が取り成すが、御影は首を横に振った。
「いいえ。悪いことをしたら謝らなければなりません。蓮人、謝りなさい!」
御影が蓮人の腕を掴んで引きはがそうとすれば、蓮人は火が付いたように叫ぶ。
「やだ! やだやだやだ!」
「蓮人! 悪いことをしたら謝らなきゃ……いった!」
蓮人が御影の手に噛みついた。小さな歯がこれでもかと母親の手に食い込んでいる。
「蓮人! 何するの! いたたたた!」
「れ、蓮人くん! お母さんを噛んじゃダメよ!」
日菜子が慌てて手を伸ばすが、いつぞやと同じように蓮人はその腕を掻い潜ると、何故かまたも紗和子に体当たりをしようとする。
だが、今日は千春が紗和子に触れる前に蓮人の脇に手を入れて抱き上げた。
「こら、女性にむかっ、ぐ! あだっ!」
「ち、千春さん!」
蓮人の蹴りが千春の頬に入り、更に髪の毛を引っ張られる。
「蓮人!」
御影が悲鳴交じりに名前を叫ぶと千春の腕から子ザルのように逃げ出した蓮人は、幼稚園の園舎の裏側へ逃げていく。杉山が「日菜子先生! 追いかけて!」と指示を出し、日菜子がすぐに小さな背を追って走り出す。幼稚園の先生は大変だ。
続々と登園してきていた子どもや親たちが、何事かと驚いている。
紗和子は袂から取り出したハンカチで靴の後がくっきりついている千春の頬の泥を払う。
「ああ、なんとお詫びすればいいか……っ、申し訳ありませんっ!」
「小花衣さん、あのお休み部屋に!」
お休み部屋というのは、いわゆる保健室のことだ。杉山は、いつもどっしりと構えた穏やかな園長先生なのだが、さすがに今日は焦っている。
「いえ、帰って冷やしますから大丈夫ですよ。家はすぐそこですし」
「ち、治療費を!」
「落ち着いて下さい、御影さん。僕はこう見えて空手の師範も務めていますので、大したことじゃありませんよ」
「あのー、お取込み中すみません。えっと、蓮人くんのママですよね?」
二人の間に何度か見たことのある誰かのお母さんが入って来る。
「御影さんの車、白の大きなやつですよね? 中で赤ちゃん、泣いてますよ」
御影が「美智!」と叫ぶように娘の名を呼び、顔を蒼くする。
「御影さん、娘さんに何かあったら大変です。それにお仕事の時間も迫っているでしょう? 早く行ってあげてください。蓮人くんのことは、日菜子先生と園長先生に任せておけば大丈夫ですから」
千春の言葉に御影は「でも」と言葉を詰まらせた。忙しなく、園の東側にある駐車場を振り返る。
「御影さん、赤ちゃんに何かあったらそれこそ困ります。行ってあげてください。蓮人くんは、私たちが責任を持ってお預かりいたしますから」
杉山が、泣きそうな顔をしている御影の肩を撫でて言った。
御影は「本当に申し訳ありません。お騒がせしました」と紗和子たちや周りに頭を何度も下げると、杉山に「よろしくお願いします」と告げて、駐車場へと走り出した。
遠くなる背を見送って、紗和子は手を伸ばし千春の髪を直す。薫と同じ真っ直ぐな黒髪は、薫の細い髪より少し硬い。
「ありがとうございます、紗和子さん」
「いえ。庇って下さって、ありがとうございます」
紗和子がお礼を言うと千春は「護るという約束ですから」と照れ臭そうに言った。
それから何度も謝る杉山に見送られて、紗和子とと千春は並んで帰途に就く。春ノ助が少し落ち着かない様子でついてきた。
急いで家に帰って、千春を居間に座らせ、紗和子は濡らしたガーゼと氷嚢、救急箱を手に戻る。
小さな靴の跡がくっきり残る頬を濡らしたガーゼで丁寧に拭く。千春が自分で氷嚢をそっと頬に当てて冷やす。
「……なんだか、先日、お会いした時よりも御影さん、やつれていらっしゃいました」
「そうなんですか? 僕は今日、初めてお会いしたのですが……でも、随分と顔色が悪かったですね。まるで締め切りを五つ抱えた徹夜明けの僕みたいでした」
分かるような分からないような例えだが、なんとなく言いたいことは分かった。
紗和子はぐしゃぐしゃになっていた御影の「糸」を思い出す。オレンジ色のレースのリボンは、あたたかな陽だまりのような色なのに、それがぐしゃぐしゃになって、尚且つ、御影の腕時計に絡みついていたのが気にかかる。
「他人様のご家庭のことですから、あれこれ詮索はしたくはありませんが、何か解決の糸口が見つかるといいですね」
千春が言った。紗和子は、救急箱を膝に乗せながら「はい」と頷く。
「……蓮人くんも気になりますが、薫ちゃん大丈夫でしょうか? 騒ぎにびっくりしていないといいんですが」
まだ一緒に暮らし始めて一か月だが、薫がとても繊細で優しい子だというのは過ごしている内に分かってくる。千春が怪我をしていれば、自分のことのように胸を痛めるだろう。
「ざっと見た感じ、園庭にはいなかったのですが……結構な人数に見られていましたし、子どもに黙ってなさいと言うのは難しいですよね。薫が帰ってくるまでにこの頬はなんとかできませんかね」
「そ、それはどうでしょう。とりあえず冷やして、もし蓮人くんとのことを見ていなければ、湿布か何かを貼って、転んだよと誤魔化すしかないかもですね」
「う、やはりそうなりますかね。おや、春ノ助くん」
春ノ助が撫でろと言うように、千春の膝に顎を乗せた。骨ばった大きな手が春ノ助の頭をわしわしと撫でる。くるんとした尻尾が嬉しそうに左右に揺れる。
「こら、春ノ助」
「いいですよ。春ノ助くんはいつも良い子ですね」
千春に褒められて、春ノ助は得意げな顔をしている。
「でも、もう一つ不思議なんですが……なんで蓮人くんは、二度も紗和子さんに体当たりしようとしてたんですかねぇ」
「…………もしや、私が運動が苦手なのを察知しているのでしょうか? 子どもは鋭いって言いますし、こいつなら倒せるぞ、みたいな」
「……苦手、なのですか?」
「体育の成績はいつもビリでした」
紗和子は真剣に答えたのに、千春は「ぐっ」と変な声を漏らして手で口を押えてそっぽを向いた。
「ち、千春さん、なんで笑うんですか!」
「わら、わらっへ、なんか、ふふっ」
「笑ってるじゃないですか! もう!」
恥ずかしさに頬が熱くなる。殺しきれなかった笑い声が、大きな手の下から聞こえて来て、春ノ助が「なになに? 美味しいの食べてるの?」と千春の手をなめる。
「もう! 私、洗濯を干しにいきますからね!」
紗和子は救急箱を卓袱台の上に置いて立ち上がる。
後ろで千春が何か言っているが聞こえないふりをして、紗和子は洗濯機の元へと向かうのだった。
「これは、困りました」
「……困りましたね」
紗和子の腕の中には、蓮人に髪を引っ張られて、髪がぐしゃぐしゃになって泣いている薫がいて、二人の前には地にめり込む勢いで頭を下げる日菜子がいる。
ここは、小花衣家の玄関先である。
そろそろお昼にしようか、という頃、千春のスマホに連絡があり、薫が泣かされたことと、お家に帰りたいというのですが、と連絡があった。千春が迎えに行くと言ったが、日菜子が「お話があるので」と連れて来てくれたのだ。
薫は玄関に入ると同時に靴を脱ぐのも忘れて紗和子に抱き着いて来て、紗和子は玄関に正座をして膝に薫を乗せた状態で日菜子と対面している。靴は千春が脱がせてくれた。
「中へどうぞ」
千春が日菜子を中へと促す。
「すみません。無理を言って抜け出してきたので、あまり時間がないんです」
日菜子が申し訳なさそうに言った。
それもそうだろう。幼稚園の先生が一人抜ければそれはそれで、フォローが大変なのは想像に容易い。
「では、何があったかだけでも詳しく教えて頂けますか?」
「はい。もちろんです。……あの後、蓮人くんを何とか説得して教室に連れて行ったんです。それからは、いつも通りっていう言い方もあれですけど、部屋の隅っこにいたんです。でも、お昼の時間になってお弁当を広げていたら急に……薫ちゃんのお弁当をひったくって、投げつけた挙句、髪を引っ張りまして……本当に申し訳ありませんっ」
予想を上回る事態に千春と顔を見合わせる。
「……日菜子先生、蓮人くんは森山幼稚園に入る前は別のところに通っていたんですよね? その時からこうなんですか?」
ふと、紗和子は疑問に思って問いを投げる。
「いえ。前は保育所に通っていたそうですが、入園前に蓮人くんのお母さんが連絡帳を見せてくれたんです。前の担任の先生のコメントを読む限りでは、少々、やんちゃですが思いやりのある優しい子という印象でした。うちの園に入って来たころは、緊張している様子だったんですが、他の子とも遊べていたんです。でも、だんだんと……お母さんの余裕がなくなるにつれて、今の状態に……」
日菜子がまた「申し訳ありません」と頭を下げる。
「日菜子先生を責めたりはしませんよ。日菜子先生はいつも子どもたちと真摯に向き合っておられるのを知っていますから。薫はまだ森山幼稚園に通い出して五カ月ですが、本当に表情が明るくなって、僕も救われました」
日菜子が泣きそうな顔で「ありがとうございます」とお礼を言った。少し間をおいて、一度、大きく息を吸うと日菜子は顔を上げる。
「園長先生ともお話していたのですが、明日の土曜日、お家のほうに行かせて頂いて話し合いの場を設けようと思っているんです。このままだと蓮人くんも御影さんも、共倒れになりそうで。とはいってもまずは担任の私だけが行こうと思っているんです」
「それ、僕も一緒に行ってもいいですか?」
「え?」
「一度きちんとお話をしたくて。御影さんのご様子だと、気にしているでしょうし。ご近所さんですから何か力になれれば、と。そう思うのですが、どうですか紗和子さん」
いきなり話をふられた紗和子は、千春を見上げる。一重の眼差しは、紗和子を伺うようにじっとこちらを見ている。なんだか試されているというより、子どもが母親の様子をうかがっているような眼差しで、紗和子は思わずくすりと笑ってしまう。
「いいと思います。一人ではどうにもならないことは、たくさんありますから」
「……ありがとうございます。でしたら、予定では明日の午後一時頃、と考えています。その際、こちらに寄らせて頂いて構いませんか?」
「はい。一時ですね、お待ちしています」
「ありがとうございます。では、あの私も戻ります。本当に申し訳ありませんでした。……薫ちゃん、ゆっくり休んでね」
「薫ちゃん、先生が帰るそうですよ」
紗和子が声を掛けると薫は、ちょっとだけ日菜子を振り返り、小さく手を振った。日菜子が、なんだか泣きそうな顔で手を振り返し「またね」と声を掛け、ぺこぺことお辞儀をしながら幼稚園に戻っていく。
ガラガラと玄関の引き戸が閉められて、三人きりになる。
「薫ちゃん、ご飯食べますか? それともちょっと縁側でお休みしましょうか。それかもうしばらくこうやって、抱っこしててもいいですか?」
紗和子の問いかけに、薫はぎゅうーっとしがみつくことで応えてくれた。
「じゃあ、私のお部屋でちょっと一緒にぎゅーってしましょう」
よいしょ、と薫を抱えたまま立ち上がる。千春が転ばないように支えてくれた。薫は小柄なほうだが、それでも重い。
玄関脇の紗和子の部屋に入る。千春が押し入れから布団を出して敷いてくれ、紗和子はその上に座る。
「薫、僕はお仕事部屋に行って、ま……」
小さな手が千春の着物を掴んだ。
「か、薫ぅ……っ!」
千春が感動に顔を輝かせた。このところ、薫は紗和子一択だったので、ほっとしつつも、微笑ましくて笑ってしまう。
「じゃあ、三人で横になっちゃいましょうか」
紗和子の言葉に千春が「いいんですか?」と少し困ったように言った。
「いいですよ。薫ちゃんたっての希望ですから。はい、薫ちゃん、ごろーん」
薫を布団に寝かせ、すぐに紗和子も横になる。すると薫は、すぐに紗和子の胸に顔をうずめるように抱き着いて来る。その薫の隣に千春が寝ころぶ。一人用の布団なので、千春はほとんど落ちてしまっているが、その狭さが今は薫にとって一番いいだろうと思えた。
紗和子は、薫の心が落ち着くように願いながら、子守唄を口ずさみ、とんとんと優しく薫の背中を叩く。
するとだんだんと紗和子に抱き着く力が緩んで、穏やかな寝息が聞こえ始める。
ふと見れば、千春も一緒になって眠っていて、二人ともあどけない寝顔が可愛らしい。
紗和子は、そっと薫を千春の腕の中に誘導すると、薫は千春にぴたりとくっついて、すやすやと寝息を立てる。それを見届け体を起こす。
押し入れから薄掛けを取り出して、二人に掛けて、静かに部屋を後にする。後ろ手に襖を閉めると、春ノ助が居間から出てきた。
「寝ちゃったわ。この隙に家事を片付けちゃいましょう。そうすれば、薫ちゃんとゆっくり過ごせますからね」
賢い春ノ助は、わんと鳴いたりせず、紗和子の手に頭を擦りつけた。
小花衣家での生活が順調な滑り出しだっただけに、こんなことになるとは思っていなかった。出来れば丸く収まってほしいと願いながら、紗和子は台所へと向かうのだった。