グルメの誘いは甘いワナ〜千鶴と美里の仲よし事件簿〜
「グルメの誘いは甘いワナ」前後編をまとめて掲載します。
一
「あかん、頭が、頭が。ああ、もうワシ終わりや。長いこと世話になったなあ。千、千鶴のことあんじょう頼むで」
「あんた、何言うてまんねん。気ィしっかり持ちなはれ」
「ああ、目の前が、目の前が真っ白や。もうお迎えちゃうか。おお、おおおお……」
政雄のあごが、がっくりと下がった。見守る美津子の手が彼の頭に静かに伸び、まくらをそっとつかんだ。
瞬間、まくらはひったくられていた。だるま落としの要領で、支えられていた政雄の頭はがくんと布団に落ちた。
「早よ起き! あほみたいな芝居してんと。相手になったったら、いつまでもふざけてるんやから。今日は海外出張やろ。遅れたら、関空で一日待たんならんで」
美津子がベランダのカーテンを手荒く引き開けると、朝の光が政雄の顔に突き刺さった。
「まぶしいがな。まだ時間あるし、もうちょっと寝さしてえな。頭痛うて、ほんまに死にそうやねん」
「当たり前や。昨日あんなにぐでんぐでんになるまで酔っぱろうてきたら、頭が変になるのはわかってますやろ。長年人間やって来て自分の限度が、まだつかめまへんのか。それに、あんなに飲めるだけのお金が、どこにおますねん。家では所帯が苦しい、苦しいて言うてまんのに」
にぎやかな二人のやりとりが、隣の部屋まで響いてきて、千鶴は目を覚ました。
父と母は新喜劇が大好きで、一方がおどけると、片方が受けて立つ。そういう点では結構相性がいいのだが、なぜか口げんかが絶えない。仲が良くて、じゃれあっているとも言えるのだが。
父は酒好きで、たびたび深夜のご帰館となり、翌朝のいさかいの原因をつくる。仕事の付き合いだと、本人はいつも弁解するが、どうやらそれだけでもないらしい。
大人がなぜ、あんなお酒を好きなのか、千鶴にはわからない。ときどき、夜中に足元をふらつかせながら、酔っぱらった父がほおをすり寄せてくると、臭くてたまらない。
あんな嫌なお酒が、なぜこの世の中に存在するのか、彼女は理解に苦しむ。ウチは大きくなっても、絶対お酒なんか飲まへん、へべれけになった父の醜態を見るたび、そう思う。
「早う起きて、下着替えはらんと、洗濯できまへんがな。早う。もう、手間のかかる、ええい」
隣の気配では、とうとう父は丸裸にされたようで、しきりに寒い寒いを連発していた。
しばらくして、千鶴がパジャマ姿のままダイニングへ出ていくと、父はボサボサ頭をかきながら、新聞を読んでいた。
「おはよう」
彼女のあいさつに父は、
「うん」
と、眠たげな返事をした。
「今日は、香港まで行くんでしょ。おみやげ買うて来てね」
「何が欲しいねん」
新聞を折りたたむと、政雄は尋ねた。
人差し指をほおに当てた右手のひじを、反対側の手で支えながら、千鶴はうーんと首をかしげた。ちょっと、おしゃまで可愛い。
「ブッチの手提げに、シャベルのハイヒール、それにサルマーネのスカーフがあったら、文句言えへんけど」
「わかった、わかった。千鶴の持ってるユニシロのワンピースと福オカメの靴下に似合うのがあったら買うてきてやるわ」
「あんた、漫才してんと、朝ご飯食べてしまい。ちづちゃんも、早うせんと学校遅れるよ」
母の朝は、早う早うで始まって、早う早うで終わってしまう。なぜ、こうも人を急かしたがるのだろうか。
世の中ゆっくりやろうじゃないか。会社や学校に遅れて、長い人生どれほどのことがあろう。脳みそで考えがシンクロした父と娘は、顔を見合わせ、外国映画よろしく肩をすぼめた。
ともかくも、しりをたたかれるようにして父は旅行かばんとともに家を出ていった。あとを追おうと、ランドセルを背負い玄関へ走り出した千鶴に、母が声をかけた。
「今日は早う帰っといで。お母ちゃんの免許証書き換えに付き合うてくれたら、あとでお好み焼きおごったるさかい」
お好み焼きの言葉が、千鶴の耳にゴシック体で聞こえた。
「うん、みさちゃん一緒に連れていってもええやろ」
母への問いかけに、
「ええよ」
の声が返ってくると、千鶴は
「やったあ」
と叫ぶなり、ドアを閉めるのも忘れてアパートの階段を駆け下りて行った。
二
「ほんなら、お母ちゃん、ここで手続きをしてるから、あんたら、どこかその辺で遊んどき。講習があるからちょっと時間かかるかも分からんけど、ワテは無免許無違反、いや違う、無事故無違反やさかい、すぐ済むはずや」
「早うしてな。すんだらお好み焼きでも食べよ言うから、おなか減らして、一緒について来たんやよって。ウチらもうペコペコや。なあ、みさちゃん」
隣にいる友達の美里も、その通りや、と言わんばかりの愛想笑いを送った。
ここは、住成署の受付である。庁舎は最近建て替えたばかりで、床もぴかぴか、機材も新しく広々している。来署者もそう多くなく、ホールはがらんとしていた。
「もしかすると、手錠をつけた犯人でも見られるんちゃうかと思うて来たんやけど、やっぱりおらへんなあ」
美里はがっかりした様子で、千鶴にささやいた。
「ほんまや。警察いうところも、普段は市役所なんかと変われへんわ」
めったに入ることのない警察署だけに、もしかすると、ワイドショーの中継にあるような“事件”も見られるのではないかと、二人は期待してきた。
頭からコートをすっぽりかぶった容疑者を追うテレビカメラの隅っこにでも写してもらえたら、友達に自慢できるのに。少々胸をときめかせてきた二人に、閑散とした雰囲気は当てはずれだった。
この警察署の管轄区域は、市内の割に比較的静かな住宅街が多く、特異な事件はあまり起こらない。そういった光景を期待するほうが無理だった。
千鶴らは行動的で、何にでも興味を示す元気な小学三年生である。同じクラスで、マンションも一緒。千鶴は三階、美里は七階に住んでいて、家族同士も付き合いがある仲のいい遊び友達だ。
「あ、そんなら、あそこの商店街で、あんたの靴下買うといで、お金渡すから。ちょうどアーケードの改装記念で、福引きやってるわ。補助券あげるから、これとあんたの買い物とで二回引けるやろ。一等は液晶テレビ、二等は冷蔵庫、三等が「一流楼」のお食事券やなかったかなあ。終わったら、ここへ帰っといで。がんばるんやで」
当てが外れて退屈していた二人は、母親からお金を受け取ると、にっこり顔を見合わせ、表へ飛び出した。
警察前の大通りから少し入ると、公設市場やミニスーパーもある、大きな商店街だ。こちらも、最近、大理石風の通路にやり直し、汚れて薄暗くなったアーケードをしゃれたガラス張りに造り替えたばかりである。二人は、魚屋や乾物屋、甘辛く煮つけた揚げさんや、出し汁も並べたうどん屋、コロッケを揚げている肉屋の店先を通って、賢く道草もせず、目的の店へと向かった。
洋装店「マドレーヌ」で靴下を買って、商店街出口近くの抽選場へ行くと、列の後ろへ並んだ。
「ウチ、くじ引き弱いねん。みさちゃん、代わりに引いてえな。お願い」
くじ運の良くない千鶴は、福引に当たったことがない。そのくせ、ベランダにあるポリタンクからストーブの灯油を補給しに行く、くじを家族三人で引くと、三回に二回はピタリと当てる。それも、今冬一番とか、十数年ぶりの異常寒波が襲来した日などに限って自分の番になるのだから運がない。
腹の立つことに、ガラス戸越しに見える暖かい室内で、こたつの父親が熱いお茶をこれ見よがしにすするのである。
大体、千鶴の父親は大人げないところがある。悪気はないのだが、いたずら半分に意地悪をする。この前なども、友達と電話でしゃべっている前へ来て、両手で自分の目と鼻と口を左右に引っ張って、モモンガーをした。おかげで、相手がまじめな話をしている最中だったにもかかわらず噴き出したため、その子と長い間気まずくなってしまった。
それはともかく、頼まれた美里もそうくじ運が強いわけでもない。しかし、彼女は根性があるから、何か困ったことがあっても、逃げない。腹をすえて事に取りかかるから、踏ん張りがきく。
「そんなん。えらい緊張するなあ。責任重大や」
そう言いながらも、友は抽選器の取っ手をしっかりつかみ、エイヤッと回した。赤玉だ。スカである。スカは、外れのことである。
しかし、彼女は、瀬戸際に追い詰められてから絶大な力を発揮する。腹に力を入れ、ハンドルをつかみ直した手が、今度は重厚にぐるり一回転すると、コロンと転がり出たのは、何と黄色玉、三等賞。係員の持った鐘が、ガランガランとアーケード内に鳴り響いた。
三
「三等賞やて。すごいやんか、みさちゃん、一流楼のお食事券や。やっぱり頼んだかいがあったわ。お母ちゃん、喜ぶで。みさちゃんも一緒に食べにいこ」
「ウチも信じられへん。一流楼て、ものすごう高いところやろ。あそこ、入って座っただけで、何も食べェでも席料とかいうてお金取って行くらしいで」
賞品を手にして帰る千鶴と美里は大喜びだった。
一流楼は、市内でも屈指の高級住宅街にある。マツタケなどでも国産のものしか使わない、タイやヒラメも瀬戸内海で取れたもの、松坂牛や神戸牛の上等肉しか出ないという、超がつく高級の和風料亭だ。普通のサラリーマンや家族連れなどが、ふらっと入って行けるようなところではない。
「学校の帰りに前をよう通るけど、中は見たことないわ。みさちゃん、あんた知ってる?」
チンチン電車の走る大通りを歩きながら千鶴は、たずねた。美里は、首を振った。
「ウチかて入ったことないもん」
「知ってる人の話では、ものすごいデラックスな所らしいよ。会社の社長さんや市長さんらが行きはるんやて」
その、いかにも魅力的なところらしそうな話しぶりに、友の好奇心もうずうずと、うごめいた。
「ちょっと、どんなところか見学に行けへん? お母ちゃん、まだもうちょっと時間がかかりそうやし」
わくわくと想像を巡らしていた美里に異存のあるはずはなかった。こっくりうなずくと、二人はきびすを返し、料亭へと駆け出した。
通りから少し奥まった、閑静な家並みのなかに一流楼はあった。黒塀から見越しの松がのぞいていて、門のわきには盛り塩がしてある。
「ここ、本当に料理屋さん? 表にショーウインドーあらへんやん。何食べさせてくれるんやろ」
「値段もわからへんしなあ。大きなのれん、つってあるだけやわ。中のぞいたろ」
千鶴と美里は、普段出かける回転ずしや焼き肉屋と勝手が違うので、少々戸惑っていた。
「ちづちゃん、ちょっと来てみ。えらい広いわ」
中に入った美里がのれんから首を出し、友を誘った。千鶴も、おずおずと身をすべり込ませた。
門をくぐると前栽があり、建物の玄関まで那智黒を敷き詰めた通路がしつらえられてある。両側の植木に水が打たれ、しっとりとした雰囲気を漂わせていた。
格子戸のはまった玄関から中へ入るのはためらわれて、二人は横の垣根から中庭の方へと忍び込んだ。
建物をぐるりと回ると、離れ風の座敷がいくつか並んでいる。一面芝が敷かれ、母屋から飛び石がそれぞれの玄関先へと続いていた。千鶴らは、その一つに近寄って行った。
四
座敷では、二人の男が酒を飲んでいた。
「今度のセンター建設は、大手の業者も狙うてるらしいやおまへんか。そやさかい、ぜひセンセの力で、この金欲建設が請け負えるよう配慮してもらいたいんですわ」
赤ら顔の、いかにも強欲そうなのが、えへらえへらと笑い顔をつくり、相手の男に酌をした。頼まれた男は猪口を差し出し、いわくありげな表情をつくった。
「そやけど、あんたとこの造ったあの小学校体育館、評判悪いで。三年しかならへんのに、もう天井から雨漏りしよるらしい」
「いや、あれはワテ知りまへんでしてん。下請けの中抜工設が、けったいな材料使いよりましたんや。そやさかい、水が染みこみましたんやろ。昨日、ネンドつめて修理しときましたから、また二、三カ月は、持ちますわ」
離れになっていて、仲居にも近づかないよう言いつけているので、大丈夫だと思ったのだろう。大きな声でしゃべるから、千鶴らが入り込んで来た、ぬれ縁のところまで丸聞こえである。
「お前とこ、下請けが、従業員がて、いつでも他人に責任転嫁しよる。ずるいやっちゃ」
先生と呼ばれた議員は、あきれたように、業者の顔を見た。
「そんなこと言うたって、センセもそうだんがな。この前選挙違反で捕まりそうになったときかて、あれは運動員がやったんやて強弁して助かったん、ちゃんと知ってまっせ」
反論するような、それでいておもねるような、悪徳業者らしい卑屈な表情を見せ、男が言い返した。
「ま、国レベルでも、秘書がとか、妻がとかいうて言い逃れしとる。世の中、みんなそんなもんや」
議員は口元にいやらしい笑みを浮かべ、業者をひじでつついた。
身を乗り出して中の様子をうかがっていた千鶴は美里にささやいた。
「何や、国が、秘書がってえらい大きな話してはるで。中にいてるの、かなり偉い人とちがうか」
「ほんまや。それに、言うてはること正しいわ。ウチの父ちゃんかて、何か調子が悪うなると、お前が悪いんやて、お母ちゃんに当たり散らすもん。責任転嫁は男の習性やて、お母ちゃん言うてはったわ」
男二人は、聞かれているとも知らず、相変わらず大きな声でしゃべり続けた。
「そやけど、ほんまに今度は難しいんや。課長が、なかなか数字を出しよらんのや」
議員の催促を悟った業者の方は、胸をぽんとたたいた。
「分かってまんがな。そやさかい、今回はちゃんと三本用意してきましたんや。いつもと違いまっせ」
無理に渋面をつくっていた議員の顔が、一度にほころんだ。
「ええっ、三百万。えらい張り込んだやないか。よっしゃ、まかせとけ。たとえ天と地がひっくり返っても、この工事、金欲建設に落とさせたる」
「そうだっか。頼んます。いや、業者仲間の方はワシに任せといておくんなはれ。やせても枯れても、この金野欲太郎、談合の金欲といわれた男や。文句は言わせまへん」
タンカを切った業者は封筒に包んだ札束を手渡した。議員の手がそれをつかもうとしたとき、外でガタンと音がした。
「だれや、そこにいるのは」
驚いた業者が大声を上げ、障子をぱっと開けた。
五
「何や、お前らは。ここで何してるねん。ひとの話を立ち聞きしてもええんか」
業者は障子を開けるなり、二人を怒鳴りつけた。
千鶴らはびっくりして声も出ず、じっと大人たちを見つめた。
「えらいこっちゃ。話を全部聞かれたんとちゃうか。サツにでもたれ込まれたら、ワシらおしまいやで」
それまでどっかりと偉そうに構えていた議員の方が、慌てふためいた。業者は、任しておけといわんばかりに、格好をつけて言った。
「大丈夫ですがな、こんな子供。まだ、何も分かりますかいな」
そう胸を張って、彼は千鶴らの方に向き直った。
「おまえら、何しに来たんや、ここに」
彼の剣幕ははったりだったが、子供には効いたようで、千鶴らはただおろおろするばかりだった。
「返事せえへんかったら、お巡りさん呼ぶで。黙ってひとの家に入ったら住居不法侵入罪で刑務所行かんならんねやから」
刑務所という言葉にびくっとした千鶴が口を開いた。
「あの……」
「あの、何やねん」
「あの、ウチら、あの、オショクジケン、オショクジケンのことで……」
この一言で形勢が逆転してしまった。いままでしかめっ面で威圧的に振る舞っていた業者は、一転青ざめ震えだした。
「お、汚職事件て。あ、あんたら、何でそんなこと知ってるねん。ここの話全部聞いたんか」
二人はうなずいた。千鶴のオショクジケンという発音を耳にした議員は、転がるようにして縁側へ出てきた。
「そやから、言うたやろ。大きな声出したら、だれが聞いてるかわからへん、て注意したのに、お前が、ここは離れでだれも来えへんから、大丈夫やなんていうから。ああ、えらいこっちゃ。この子らに全部聞かれてしもうたやないか」
ごくりと、つばを飲み込んだ業者は、千鶴に聞いた。
「あんたら、汚職事件てどんなことか知ってるのんか」
「うん、ただで飲んだり食べたりできるんや」
千鶴の答えは、大人二人を絶望のどん底に突き落とした。
「あかん、こいつら、よう知っとる。テレビなんかでいろいろ教えるから、こんなませたガキができるんや。マスコミはろくなことしよらん。一杯飲ましただけでも贈賄罪になるいうことを聞いてるんや」
議員が、がっくり腰を落とした。
「それで、ウチらオショクジケンのことを警察にいてるお母ちゃんに報告しに行かんとあかんねん。そやからもう帰らして」
この言葉が、さらに駄目を押した。彼らの悪巧みをすっかり聞かれてしまい、警察に通報されようとしている。そうなれば、自分たちの方が刑務所行きをまぬかれない。
男たちは、完全にパニック状態に陥った。彼らは悪いことをするくせに、両方とも大した度胸もなく、交通違反でお巡りさんにつかまっただけでも、しどろもどろになって舌がもつれてしまうという、情けない連中だったのである。
六
議員は、業者をふすまの陰に呼び、小声でささやいた。
「あかん。もう、おしまいや。この子の母親は婦警らしいやんか。ワシら逮捕されてしまうで」
「どないしまひょ。センセ」
「どないしょ、言うたって。今さらどないなるねん。くそっ、最近のサツは子供まで使うて内偵さしとるんか。汚いやつらや」
どちらが汚いかあきれてしまうが、しょせん人は身びいきなものなのである。
「しかし、どないかせなあかん。どないしょ」
「センセ、同じこと言うてどないしますねん。この子ら、警察へ行かさんようにどこかへ閉じ込めるとか」
業者の知恵のなさに、議員はあきれるように怒鳴った。
「あほか。誘拐は罪が重いんやぞ。贈収賄の方が、ずっと早う出て来られるやないか。見つかったときのことも考えんかい」
男たちは、千鶴らが逃げないように見張りながら、思案をめぐらした。
「どうです、あいつらを買収するというのは」
金野は、業者らしい悪だくみをひねり出した。
「センセかて、この前一杯飲ませてもろたら、幹部のセクハラ問題を議会で追及するのん、やめましたやろ。あの手ですわ」
「そらまあそやけど、うまいこといくやろか」
「人間だれでも、うまい物や、きれいな女には弱いもんですわ。まあ、任せなはれ」
もう一つ気乗り薄の議員をなだめながら、彼は、これまでと打って変わった作り笑顔で縁側へ出ていった。
「怒鳴って悪かったなあ。いや、おじちゃんら、ガタンと音がしたから盗っ人が入って来た、 怖い!と、びっくりして、大声を出してしもうたんや」
どこぞの泥棒が料亭の座敷に来るものかと思うが、そんな矛盾はお構いなしに、業者は二人に語りかけた。
「ところで、おねえちゃんら、おなかすいてないか。何かおいしいもん、ご馳走したろか」
男の猫なで声と、「おねえちゃん」という、少々持ち上げ気味の表現に二人の表情はゆるんだ。
「おいしいもんて、何食べさしてくれるの」
どちらかというと、食べ物に弱い美里の方が、先に身を乗り出した。彼女は空き腹を抱え、さきほどから千鶴の母親のおごってくれるというお好み焼きが、目の前を前後左右にスクロールしているところだったのである。
「何、なに?」
千鶴も顔をほころばせて、喜びの表情を体一面に表した。業者は、しめたとばかりほくそ笑んで、交換条件を持ち出した。
「その代わり、ここで聞いたこと黙っといてくれるか、おかあちゃんに」
「そらあ、かまへんけど。そやけど、オショクジケンのことは、一応お母ちゃんに言わんと」
男は、いやらしい笑みをさらに増幅させた。
「そこや、そこやんか。な、ギブ・アンド・テークでいこうやないか。あんたら、マツタケ食べるやろ。国産の焼きマツタケや。一本ン万円もするやつやで。おいしいで」
千鶴は目を輝かせた。
「うそー、日本でマツタケ取れるん? マツタケて、韓国から来るんやてお母ちゃん言うてたけど」
「そやそや、ウチかてカナダとか中国産のしか知らんわ」
二人の貧しい食体験を、哀れむかように業者は説明を始めた。
「マツタケっちゅうのはな、赤松の林に生えるんや。京都の丹波産は最高やで。香りマツタケ味シメジ言うてな、香りが大事なんや。このにおいをかいだら、スーパーなんかのは見向きもせえへんようになるわ」
男は、千鶴らにぐっと体を寄せて、誘うようにささやいた。美里のおなかがグーッと鳴った。
「それに、神戸牛のステーキいらんか。松阪牛のすき焼きでもええで。霜降りのところをじゅうっと焼いて、真っ白なご飯と食べたらもう向こう三年間、何も食べいでも、生きてられるというシロモノや。なんぼ食うてもええんやで」
ぐっとつばをのみ込んだ千鶴ら二人は、デュエットをするように答えた。
「食べる!」
「食べる!」
そして、二人は縁側の靴脱ぎに履き物をそろえると、部屋の中に飛び込んで行ったのである。
七
「遅いなあ、あの子ら。どこで遊んでるんやろ。こんな時間になってしもうたら、お好み焼きどころか、晩ご飯の支度にも間に合えへんやんか」
母の美津子は、住成署の玄関で子供たちの帰りを待ちわびていた。時計はもう五時を回ろうとしている。ドアから外を眺めていた彼女は、とうとう我慢できなくなって、受付へ歩み寄り、座っていた職員に声をかけた。
「すんません。実はここで子供と待ち合わせをしましたんですけど、いつまでたっても現れませんねん。もしかして、私が帰ったあとに立ち寄りましたら、家へ戻ったと伝えてもらえませんか」
頼まれた警官は、機嫌良く引き受けてくれた。
美津子は通りに出てからも、あちこち見ながら自宅の方へ戻って行った。
「ほらほら、出来てきた。おいしそうやろ。お皿のうえでジュージューいうておどってるやんか、お肉が」
議員は、うれしそうな顔で食器を取ってやりながら、二人に食べるよう勧めた。
「ほんまや、家でステーキ焼いても余りにおいせえへん。このお肉本当においしそうやわ。第一色が違うもん。中がピンク色や」
千鶴は舌なめずりをせんばかりにして、フォークとナイフを握った。
「うわあ、鉄のお皿で油がダンスしてるぅ。ウチおなかぺこぺこや。いただきまぁす」
言うより早く美里のはしが肉切れを口へ運んでいた。
「おいし〜。かみちぎらんでもええお肉なんて初めてや」
「お口の中で舌がうまいうまい言うて、けいれんしてるわ」
二人は顔を見合わせながら、ほっぺたをいっぱい膨らませて、肉をほおばった。
「あわてて口に入れたら、のど詰まるで。時間はなんぼでもあるんやから、ゆっくり食べたらええ」
議員と業者は、女の子たちの無邪気な食事っぷりを見て、にやりとした。
「えらそうに言うても、子供は子供や。食べ物で釣るなんて、うまいこと考えたなあ。金欲、お前もワルよのう」
「そんな、江戸時代の悪徳商人、越前屋みたいに言いなはんな。それやったら、センセはお代官さまでっせ」
議員の皮肉に、業者もやり返し、二人は見つめ合って、ほくそ笑んだ。
子供たちの方を向き直った男たちは、コンロを指さしながら、
「マツタケも焼けたで。土瓶蒸しも、そこに来てるさかい、やけどせんようにして、お上がり。ほかにしてほしいことがあったら、何でもいうこと聞いたげるで」
ヤギの面をかぶったオオカミたちは、かわいい子ヤギたちに、目を細めた。
「おじちゃんら、親切なんやなあ。最初怒られたとき、もっと怖い人やと思うたわ」
千鶴は、男たちの下心も知らず、満面の笑みを見せた。
こんな彼らでも、小さな子から親切やと言われたらうれしいのか、これも食べるか、こっちもつつくかと、まさに大盤振る舞い。
「あ、そうや。飲み物がないがな。お姉ちゃんら、ジュースでええか」
「うん、ウチ、ジュース大好きやねん」
「ウチも」
二人は声を合わせて答えた。
「おい、お前。ちょっとジュース持ってきたってくれ」
議員は、業者に飲み物を運んでくるよう指示した。
「はい、はい」
と答えた業者は、離れを飛び出して行くと、間もなくグラスのたくさん乗ったお盆を抱えて戻ってきた。
「台所だれもおらなんだけど、うまいことにオレンジジュースを入れたコップが置いてあったから取って来たった。ぎょうさんあるさかい、なんぼでも飲んでや」
と言って、彼はジュースを二人に手渡した。
「ありがとう」
礼を言った彼女たちは、グラスを口へ運んだ。
「どや、おいしいか」
業者の言葉に、美里は答えた。
「ちょっと苦みもあるけど、うまいわ」
千鶴も、少しばかりマユをしかめたものの、
「いつも飲むのと違う変わった味で、なかなかいけるわ」
「そうか、ほんならなんぼでも飲みや。ようけあるから」
大人たちも、うれしそうに答えた。
この業者の軽率な行動が、のちにどんな騒ぎを引き起こすか、このとき彼らは予想だにしていなかった。
八
「いややわあ。あの子ら、まだ帰って来よらへん。どこへ行ったんやろうか。もしかしたら、みさちゃんとこやろか」
日が暮れきっても、帰宅せぬ子供たちに美津子も不安になって、美里の家へ電話した。
「もしもし、あ、奥さん。ウチの千鶴お邪魔してません? 美里ちゃんと昼間一緒に買い物に行ったまま……。ええっ! 美里ちゃんもまだ帰ってまへんのか。おかしいでんなあ。迷子になる年でもないし。とにかくお宅へ寄せさせてもらいますわ」
受話器を置くなり、美津子は玄関を出て、アパートの階段を駆け上って行った。
九
「えらい暑いなあ。この部屋暖房入れ過ぎちゃう? 汗かいてきたわ」
額にへばり付いた髪の毛をかき上げながら、美里が大きく息を吹いた。
「ほんまや、むんむんしてるわ。それに、なんか頭ふわふわして、ええ気持ちや。うち、セーター脱ごう」
千鶴も、部屋を見回しながら、ブラウスだけになって、足を投げ出した。
「あの子ら、えらいリラックスしとるなあ。そやけど、えらい顔が赤いで。それに、一人の子は体がふらふらしとるけど、大丈夫か」
議員が子供たちを見、けげんな顔つきで業者に話しかけた。
それまで、割合おとなしく食べていた千鶴たちが、ジュースを飲み始めたころから、急に冗舌になり、キャッキャッと笑い声を上げてふざけ回るようになった。
当初、大人たちは子供らが打ち解けてきたからではないかと喜んでいたが、どうも調子が変なので、先程来、首をひねりながら観察していたのである。
「あ、あかん。あの子おしっこ行きよるみたいやけど、足がもつれとる。一緒に連れて行ったらんと、ひっくり返りよるで。入り口のタヌキの置物ンつかんで、ほれ、いっしょに倒れかけとるやないか。ちょっとあの子の面倒みたらんとあかんがな」
業者に指示して、手洗いへ連れて行かせたのを見送った議員が、おかしく思って残っているグラスをちょっとなめたとたん、顔色がさっと変わった。
「これジュース違う。カクテルや。スクリュードライバーか何かやないか。あいつ間違うて、酒飲ましよったんや。子供ら赤い顔してふらつくの無理ないわ。酔っぱろうとるんや。こらあ大変や」
「ええっ、おっちゃん、これお酒か。そうか、お父ちゃんいつもこんなええもん飲んで帰って来とったんか。そらあ遅うなるはずや」
彼のつぶやきを聞いた千鶴はグラスをのぞき込んで、酔っぱらった父の帰宅を思い出していた。こんなおいしい物なら毎日飲んで帰ってくるのが当たり前だと納得したのである。
トイレから戻った美里に、千鶴は早速報告した。
聞いた美里は、
「お酒て、おいしいもんなんやなあ。大人てずるいわ、ウチらに内証でこんなもん自分らだけで楽しんでるんやから」
と口をとがらせた。
「そやけど、夜中までお酒飲んでたら、おなかいっぱいになって膨れてしまうやろ。あんな遅うまで何してるんやろか」
つぶやいた千鶴に、美里は教えた。
「大人は、お酒飲みながらいろいろ遊びをするんや」
「どんなことするの」
千鶴の質問に、美里は
「テレビなんか見てると、こんなときは芸者を呼べ、ていうで」
聞いた千鶴は、大人たちの方を向いた。
「おっちゃん、何でも言うこと聞いてくれるて言うたやろ」
彼らは、少々ためらいながらも、うなずいた。
「芸者さん呼んでえな」
千鶴の思いがけない注文に、彼らは目をぱちくりして、一瞬あっけに取られた。まもなく、我に返った議員は、業者の頭を横にあった扇子でぴしゃりと張って、声を荒らげた。
「あほ、お前がこの子らに酒なんか飲ますさかいに、酔っぱろうて芸者遊びしたいていうとるやないか」
怒鳴られた業者は、縮こまりながら千鶴らに弁明した。
「あ、あの、手違いであんたらにお酒飲ましてしもうたけど、二十歳になってない子供はアルコールが禁止やねん。そや、そやから、芸者さんもやっぱりあかんのやないかと思うねんけど。どやろ、もうこの辺でお開きということで……」
しどろもどろの説明に、千鶴らはぷうっとふくれっ面を見せた。
「おっちゃんらウソついたんか。ほんなら、さっき聞いたこと、みんなお母ちゃんにしゃべってもええんやな」
「そやそや」
美里も同調の声を上げた。
「この子らえらい酒癖悪いがな。ワシら脅しよるんやから」
半泣きになった議員は、渋い表情で業者を促した。
「仕方ない、お前、芸者呼んだりぃな。ここまで来たら、もうしょうがないがな」
業者も、
「しょうおまへんな。ほんなら、なじみのぽん太でも来るよう電話しまひょか」
と、二人は子供たちの説得をあきらめ、しぶしぶ芸者を呼ぶ段取りを始めた。
十
「警察に電話して、この辺で子供の交通事故がなかったかどうか、聞いてみましたけど、なかったそうですわ。奥さん、ひょっとしたら、誘拐ちゃいまっか」
「えーっ、誘拐。誘拐いうたら、あの人さらい、子取りのことでっかいな」
美里が住んでいる七〇一号室に飛び込んだ美津子は、母親の幸恵の言葉に息をのんだ。子供たちと別れてから、もうすでに四時間ほどたつのに何の連絡もない。家の近所で迷子になる年ごろでもない。だれかにさらわれたのに違いないというのである。
「何を忘れても、ウチの美里はご飯の時間にはきっちり帰って来ますんや。あの子食い意地だけは人一倍張ってまっさかいに。それがもう、夕食からでも一時間になりまっしゃろ」
美津子の胸にむくむくと重圧感がわきあがって、胃が重くなった。
「ウチの子、クラスのなかでも飛び抜けて可愛らしおまっしゃろ。そやさかい、変な男にでも連れ去られたのと違いますやろか、あんたとこの子もいっしょに。ああ、こんなときべっぴんの子は損や」
美津子はむっとした。ほな、ワテの子は、刺し身のツマで、ついでに連れ去られたんかいな、と口まで出かかったが、けんかしている場合ではない。
「いずれにしても、待ち合わせの場所が住成署でもあるし、いっぺん警察へ行きまへんか。ここで、うだうだ言うてても仕方おまへんさかい」
娘が帰ってきたら、いっぺんどっちの子供が可愛いか、第三者に判定してもろて勝負をつけようやないかなどと思いながら、美津子は促した。
「ほんまでんなあ。行きまひょ、行きまひょ」
と、幸恵はつっかけに足を通した。
「ちょっと、あんた。誘拐犯から電話あったら、録音ボタン押して、声を取っとくんでっせ。それから身代金はできるだけ負けてもらうように交渉しなはれや。いざ出さなあかんとなったら工面できる額でないと、美里の命おまへんで。最近の警察は頼りないんやから。事件にならんとかいうて、仕事せんとことしよるよって。自分らの身は自分らで守らんと。他人はアテになりまへんで。よろしおまっか」
一息でしゃべり終えると、幸恵は、ほな行きまひょか、と美津子をせきたて、住成署へと向かった。
十一
「カーさん、お久しぶり。あら、センセもご一緒? また、よからぬもうけ話の相談でっか」
ぽん太は、三味線を下に置きながら、開口一番、親しさの表現とも嫌味とも聞こえるあいさつを披露した。議員と業者は、目配せで、いらぬことをしゃべるなと合図を送った。
「何でんねん、難しい顔して。あらっ、可愛らしいお嬢ちゃんでんな。お孫さん? えっ、ちゃう? ほんなら、だれでんねん。ええっ、知らん子!? 誘拐でもしてきはったんですか」
ぽん太は、軽口をたたいて、女の子の方へにじり寄った。
「お嬢ちゃん、どこの子? あら、いややわ、この子ら、顔真っ赤にして。お酒飲んでまんがな。だれでんねんッ!こんな小さい子にお酒なんか飲ましたんは」
グラスを子供たちから取り上げ、ぽん太は業者らをたしなめた。
「いや、これにはいろいろ訳があって。こいつが、カクテルをジュースと間違うて飲ましたんや。そしたら、二人とも酔っぱろうてしもうて、芸者呼べ、ていうて聞かへんもんやから、あんたを呼んだんや。頼むからなんとか相手してやってえな」
議員が、ぽん太に説明がてら説得に当たった。
「いやでんがな、ウチ。長いことこの商売やってますけど、子供の座敷なんかつとめたことおまへんで」
ぽん太は彼女たちを見やりながら、ふくれっ面を見せた。
千鶴はしゃっくりを繰り返し、美里は、逆さまにした空のグラスを舌の上にのせ、底をぽんぽんとたたいて“ジュース”のしずくを落とすのに躍起だった。
「そら、分かってる、分かってるけど、そこを何とか。特別手当はずむさかい。でないと、ワシらやばいことになるんや」
業者が両手を合わせた。
「あんたは、ややこしなったら、いつもウチに頼みにくるんやから。月々のお手当も少ないし、あんな汚いアパートに住まわしといて。ねえ、もっと新しいオートロックのマンションに住みたいわあ。ね、お願い」
「そんなん言うたって。最近銀行が貸し渋りよって、いま資金繰りが苦しいんや。ま、手当のことはこの次会うたときのことにして、今日のところは、な、な、機嫌直して」
「ウチ、あんただけが頼りなんよ。ほかの男になんか目もくれんと今まで過ごしてきたのに、あれではちょっとあんまりやと思えへん。ね、いいでしょ」
彼女は、上目遣いに業者を見ながら、しなをつくった。
「よっ、ご両人」
横目で見ていた美里が、半畳を入れた。足を投げ出してふうーっと、大きく息をしている千鶴のかたわらで、美里はあぐらを組んでいた。空のコップを片手にした、その目はすでに据わってしまっていた。
「見てみい、子供にからかわれてるやないか。とにかく、頼むわ。ええい、このさいしょうがない。うまいこといったら、マンションの話考えたってもええで」
「ええっ、ほんま!?」
旦那の約束に、ぽん太はしめたとばかり、指を打った。
十二
「いややわあ、やっぱりおらへん。あの子ら、ほんまに誘拐されたんやろか」
商店街や学校付近など二人が遊びに行きそうな所を見て回ったあと、母親たちは住成署に立ち寄った。美津子は、夕方子供への言づてを頼んでいた受付の警官に確認しようと、近づいた。
「子供さんは、来ませんでしたよ」
心配そうな美津子らの顔を見た職員は、彼女が口を開く前に答えた。
「先ほど、事故がなかったかどうか問い合わせてきたのは、あ、そちらのお母さんですか。一体どうしたのですか」
美津子は手短かにいきさつを話した。
「それは、おかしいですねえ。友達の家には? あ、電話してみたんですか。学校へは行った? あ、そうですか。それで、中へは入ってみましたか」
「いいえ、門が閉まっていたものですから。職員室の明かりがついてましたから、だれかいたんでっしゃろけど、電話に出まへんし」
誘拐されたのではないかと、口まで出かかった美津子らだったが、別段身代金の要求が来たわけでもなく、どこかで遊びほうけていて時間のたつのを忘れているかもしれないので、ぐっとこらえた。
「わかりました。だれか職員をつけてやりますから、まず学校で様子を聞いてみてください」
親切な対応に、美里の母親の幸恵も少し安心した。
十三
「芸者のおねえちゃん、やったあ言うてえらい喜んでたけど、何してええかわからんで、悩んどるで」
美里の耳元で千鶴がささやいた。
マンションの件で安請け合いしたものの、子供相手では、小唄や端唄を聞かせるわけにもいかず、さりとて踊りを見せても喜ぶわけはない。翌朝、執行される死刑囚の前で何か一席話すよう頼まれた落語家のような顔をして、彼女は考え込んでいた。
「早う何かやって、遊んだりいな」
業者がせっついた。
「そない言うたって。子供でもわかるのいうたら、野球拳くらいしかあらへん。あれやったら、じゃんけんがあるから子供でも相手できるけど」
「あほか、子供と服の脱ぎ合いしてどないするねん。あっちの方がずっと体が締まってて、きれいやないか。おまえみたいに電子レンジでチンし過ぎた冷凍豚まんみたいなのと違うで」
酒の席とはいえ、あまりにもひどいからかいに、ぽん太も言い返した。
「何言うてまんねん。あんたかて、食い過ぎの小錦みたいなお腹して」
これには、業者もカチンときた。
「おい、ワシは仮にも客や。パトロンやで。その言い草はないやろ」
「パトロン、パトロンて、偉そうに言いなはんな。ワテかて、初めからこんな体形やおまへんわ。田舎から出てきたときは、まだ十九の初な娘やったのを、何やかやと、うまいことだまして、おもちゃにしたんやおまへんか。それを今になって豚まんや、チンし過ぎやと……」
たもとからハンカチを取り出し、ぽん太は目元を押さえた。前の座敷で、そこそこ飲んでいて感情も高ぶっていたのだろう、急にワッと泣き出した。
「何やえらいもめてるで。豚がチンチン電車に乗ったとか、乗らへんとか」
美里は出来上がってしまっているのか、話をちゃんと聞き取れない状態に陥っていた。
「違うがな。男の人が悪口言うたんで、おねえちゃん泣いてはるんやんか」
倒れかけてきた美里の肩を支えながら、千鶴が説明した。
「かわいそうに、ウチおねえちゃん慰めてきたろ」
気のやさしい千鶴は、ぽん太の横へ座って、声をかけた。
「おねえちゃん、酔っぱろうてる男、まともに相手したらあかん。ウチのお母ちゃんいつもそう言うてるわ。酒飲んだ男は大脳と口を動かす神経がプッツンしてもうてるねんて。そやから何言い出すかわからんのや。酔いが冷めかけて、頭のしんが痛んでるときに、言うたこと思い出させながらチクリチクリといびるのが一番効果的なんやて」
子供にいたわられたぽん太は、はなをすすりながらも気を静めた。見ていた美里もそばへ寄って来た。
「おねえちゃん、男運悪いんちゃう? ウチのお父ちゃん言うてた。手相の良うない女は、いつもカスな男つかむんやて。いっぺん見せてみ」
偉そうにして、ぽん太手を取った美里は、千鶴にささやいた。
「芸者さんて、手相見てあげたら喜ぶんや。古い映画みてたらやってたわ」
美里は彼女なりに、ぽん太を励まそうと気を使っているのである。
「手相見るのは男が左手、女は右手て決まってるんやけど……」
美里は父の受け売りを振りまきながら、彼女の手をひねくり回した。
「この人差し指と親指の間から下がっているのが生命線、中間のが知能線、一番上にあるのが感情線。天王寺回り鶴橋行き、近鉄線乗り換えの環状線とは違うで」
ところどころ、くすぐりを入れながら女性の手をいじくり回し、芸者遊びが初めてとは思えない憎い所作を示す美里であった。これも、父親が酔いにまかせて、教え込んだたまものである。
どんな親や。
「おねえちゃん、知能線長すぎるわ。これが、こう長いと情に傾きやすいて言われるねん。そやさかい、男に入れ込むんや」
初めは子供のお遊びに付き合ってやっているつもりだったぽん太は、いつの間に身を乗り出し、ふんふん、とうなずき、
「それで、どないしたらええん?」
と、いつしかまじめな顔に変わっていた。
「ほら、ここの線が途中で二つに分かれてるやろ。これが運命の別れ道や。もと来たのがすぐ細うなって消えてしまってる。枝道の方がだんだん勢いが強うなってるわ」
ぽん太の目が、自分の手のひらと、美里の顔を見比べ、次の言葉を待った。
「ここが、思案のしどころや」
父の口まねをしながら、美里は続けた。
「いままでのは、あかん。新しいのが出て来るからそっちに乗り換えた方がええわ」
聞いたぽん太は、やっぱりそうか、とばかりにうなずいた。そして、美里に小声でささやいた。
「いや、ウチ実はほかに付き合うてる人がいてるねん。割合ええ男で、いまはもう一つパッとせんけど、将来性があるて、皆の評判がええんよ」
あんた一筋と言っていたはずなのに、もう別の男ののろけ話を子供にしているぽん太だったが、そんな矛盾はどこ吹く風。三人は額を合わせて話し込んでいた。
急にささやき声になったぽん太に、気になったのか、業者が割り込んできた。
「子供相手に深刻な相談してどないするねん。パッといこ、パッと。そや、カラオケいこ。おねえちゃんらも歌好きやろ。だれが、ええ?幸田行未か、それとも浜崎ヒカルか」
千鶴がさっと手をあげた。
「おっ、元気ええなあ。何がエエ」
「双葉あき子の岸壁の母や」
業者がにこっと笑った。
「えらいシブいのを知っとるやないか。なんでや」
千鶴は、鼻高々に答えた。
「ウチのお父ちゃん、お酒飲んだらいつも歌うから、覚えたんや。おいしいもん食べさせてくれた、おっちゃんらへのお礼や」
「そうか、ほんなら聞かせてもらおか。ボリュームいっぱい上げて景気ようやろ」
議員も、ほほえみながらカラオケをセットした。前奏が始まり、男たちの手拍子にあわせて、千鶴はマイクを口に近づけた。
十四
「この辺、夜は暗うて寂しおまんなあ。一方は料亭で、反対側は神社でっしゃろ。一人やったら、よう歩きまへんわ」
千鶴の母、美津子は両手をこすりながら肩をすくめた。
「ほんまでんなあ。今日は特別よう冷えてるし。こんな寒い晩に、あの子らどこへ行ったんやろか。ウチらがこんなに心配して捜し回ってますのに」
美里の母も左右を見ながら答えた。これで、お巡りさんがいなかったら、二人でもちょっと気持ち悪いようなところである。
「そやけど、大きな料亭でんなあ。不景気で首つろかという人もおるのに、こんな豪華なお店でお酒飲んでる人も、いてまんねんなあ」
美津子はうらやましそうに言った。
「ほんま、ほんま。景気ええんでっしゃろなあ。大きな音でカラオケしてるんのが聞こえてきまんがな」
幸恵も相づちを打ったが、マイクを通して来る声がちょっとおかしいのに気がついた。
「あの声、あれ歌うてるの、子供でっせ。それにロレツが回ってまへんがな。お酒飲んでるのとちゃいまっか」
「ええっ、子供が酔うてカラオケ歌うてまんのか。おお怖わぁ、子供がお酒なんか飲んで。もう、親の顔がみたいわ」
あきれている美津子の手を、幸恵がぐいと引っ張った。
「奥さん、あ、あの声」
「どないしましてん」
美津子は驚いて振り向いた。幸恵の顔がこわばっていた。
「あの、あの声、ちづちゃんやおまへんか」
「ええっ、そんな。千鶴がお酒飲んで歌なんか……。ええーっ、いやや、あれ千鶴やわ。なんであの子、歌なんか。そういうたら、あの後ろの掛け声、みさちゃんでんがな」
「えーっ、うそ〜……。いや、ほんまやわ。かけ声かけて手ェ打ってるのは美里やないの」
後ろをついてきた中年の警官は、耳を澄ましながら、彼女らに尋ねた。
「おたくのお子さん、いつもお酒飲んではるんでっか」
間の抜けた質問に、母親たちはマユを逆立てた。
「あほなこと、言いなはんな。どこの世界に小学三年生が毎日晩酌やりまんねん。ウチらの子はそんな子供やおまへん」
怒られた警官は首をすくめた。
「そやけど、あの子らどこにいてるんやろか」
幸恵は辺りを見回した。
「何やら塀の中から聞こてきまっせ」
美津子が背伸びして跳び上がりながら、中をのぞこうとしていた。
「あきまへん。見えまへんわ。呼んでみたろ。千鶴〜ッ、どこにおるんや、千鶴〜ッ」
幸恵も同じように、大声を上げた。
「美里ーッ」
「千鶴、ちづちゃーん。大丈夫かあ」
「みさっぽ、美里。お母ちゃんやで。誘拐されてへんかあ?」
どこの世界に誘拐犯が子供にカラオケ歌わせるか、考えてみたら分かりそうなものなのに、母親たちはわが子のこととなると、前後の見境がなくなるのであった。
「岸壁の母」の二番の歌詞にかかろうとしていた千鶴の耳に、美津子の声が聞こえた。
「あっ、お母ちゃんや。おかーちゃん、ここや、ここや。一流楼の中や。みさちゃんも一緒やで」
マイクを通して千鶴が叫んだ。
驚いたのは、男たちである。
「あかん、えらいこっちゃ。捜査二課の連中が来とるらしい。早よ逃げんとあかん」
「センセ、一人で逃げなはんな。ワシも行きまんがな。ちょっと待っておくんなはれ」
二人はあわてて、座敷の玄関に走って来たが、業者は履き物が見あたらず、まごまごしていた。
「お前、早うせんかいな」
「いや、ワシのゲタがどこかへ行ってしもうて」
「お前、いまどきゲタなんか履いてるんか、古くさい。靴くらい買え」
「いや、出てくるとき、いつも履いてるのが見つからなんだんですわ。それで、散歩に使うてるゲタを……。ああ、あった、あった。うわー」
さがしていた業者が、すっとんきょうな叫び声を上げた。
「何や、にぎやかなやつやなあ。もうちょっと静かにせんと、居場所教えてるもんやないか。どうしたんや」
業者は、いまにも泣き出しそうな顔でゲタを震えながら指さした。
「履き物の上に犬のうん、うんこが。玄関開けとくさかい、野良犬が入って来よったんや」
しかし、業者の嘆きなど、慌てている議員にお構いなどなかった。
「どうでもええから、早う行け」
議員は業者の背中をどんと突いた。押された方は前のめりになって、左足が宙を泳いだ。避けよう、避けようと試みながらも、人間というものは真逆の結果を将来するものである。運悪く問題のゲタの方を、しっかりとらえてしまった。そして、ずるっとすべった彼はその場に転んだ。
「何しまんねん。そんなことするから、踏んづけてしまいましたがな。トホホホホ……」
そのとき、入り口から駆け込んでくる母親らと警官の姿が見えた。
「うわあ、もうあかん。制服までついて来とるがな。お前のせいや、こんなことになったんは」
「あほなこと言いなはんな。あんたが、金を請求せえへんかったら、こんな騒ぎに巻き込まれんですんだのに。贈収賄は一人で成立しまへんで。こうなったら、一蓮托生や」
往生際の悪い二人は、最後まで互いに罪をなすくりあっていた。
十五
「千鶴、大丈夫か。けがはないか」
心配する母に、千鶴は酒臭い息をぷんぷんさせながら答えた。
「このおっちゃんら、親切なんよ。おいしい物、いっぱいごちそうしてくれたん」
美里も、とろりとした目つきで母親のそでを引いた。
「ほんまや。ステーキやら焼きマツタケ食べさしてくれたん。お母ちゃん知ってる? マツタケて、日本でもとれるんよ」
「おじちゃんら、面白いねんよ。ウチらがオショクジケンて言うたら、どきっとして跳び上がりはるねん。そして、部屋の外で聞いた話は黙っとけ、いうて何でもおごってくれはるねん」
「それに、芸者さんも呼んでくれたし。お酒も飲ましてくれたんや」
子供たちの話を聞いた母親らは、びっくりした。一瞬開いた口がふさがらなかったが、間もなく怒りが噴き出した。
「あんたら、何ちゅうことするねん、こんな小さい子供にアルコールを与えるなんて、まともな大人がすることかいな」
そのとき、後ろに控えていた警官が口を開いた。
「あれ、議員の原野九郎兵衛さんと、建設会社の金野さんじゃないですか。こんな所で、何の会談ですかな。いずれにしても、未成年に酒を飲ましたとなると、ちょっと問題ですなあ」
議員は、あわてて弁解に努めた。
「いや、この男がカクテルをジュースと間違えたのが発端で、知って飲ませたんじゃないんですわ。いや、あは、あははは」
「そ、そう、そうですねん。ちょっとした手違いで」
業者も、もみ手をしながら、お追従笑いをして答えた。その間も、左足は芝生の上で回転させていた。
「しかし、なぜ、あの子供たちに、そんなごちそうをしたのですかな。聞けば、超豪華な食事だったようですが。それに、オショクジケンとは何ですか」
議員と業者は、顔をこわばらせ、しどろもどろになった。
「いや、それは子供の聞き違いでっしゃろ。小さい子は何言い出すかわかりまへんからなあ」
「いやあ、ほんま、ほんま。私ら、子供らがお腹をすかせてたから、ごちそうしてやってただけですわ。汚職事件て、そんな話してまへんで。あ、この子らお酒飲んで、頭がおかしなってるんとちゃいまっか」
議員の言葉に、業者は口を合わせた。
あまりの逃げ口上に、千鶴ががまんし切れずず叫んだ。
「うそや。ウチらがオショクジケンていうたら、おっちゃんら、お母ちゃんにそのことしゃべれへんかったら、何でも言うこと聞いたるていうたやんか。そんなうそつくんやったら、今度は三百万円やとか、工事はお前とこに任せたるとか約束してたの、みんな言うたるで」
男たちがいらぬことを口にしたおかげで、千鶴らは腹を立てて、あらいざらいぶちまけてしまった。
警官は事情を悟ったようで、にやりとした。
「まあ、今日は遅いし。まあ詳しいことは後日、本署でゆっくり聞かせてもらうことにしましょか」
しょげ返っている議員らを促した警官は、千鶴らを褒めた。
「えらいなあ、あんたら。よう汚職事件てよう知ってたなあ。感心したわ。お手柄や」
「そらそうや、きょう商店街の福引で三等のお食事券当てたとこやもん」
千鶴は、胸を張った。
「えーっ、オショクジケンて、食券のことかいな。それが分かってたら、何もこんな大騒ぎせいで良かったのに。ちくしょう、えらい聞き損ないや。これというのも、お前の耳が悪いからや」
「何言うてまんねや。あんたかて青い顔してどないしょう、どないしょうて慌ててましたやないか」
と、二人はまた、責任のなすり付け合いを始めた。
「さ、早う帰ろ」
母親たちに促され、千鶴と美里は足元をふらつかせながら、立ち上がった。
「二人とも、元気になったら、今日聞いた話全部教えてや。大事なことやさかい」
警官は子供たちに頼んだ。
「はーい」
二人は元気に返事をした。
十六
「お母ちゃん、アタマ痛いわ」
「当たり前や。小学生がロレツの回らんくらいお酒飲んだら、頭くらい痛うもなるわ。ええ勉強になったやろ」
次の日、千鶴は二日酔いに苦しんでいた。父親のは見ていたが、こんなにつらいものだとは知らなかった。
「迎え酒したらええんとちゃうか」
「あほなこと言いなはんな。千鶴の身にもなってみなはれ。無理やり飲まされたようなものやおまへんか。あんたみたいに遊びほうけて、飲み回ってるのとちゃいまっせ」
要らんことを言って、父は怒られていた。
「みさちゃん、どうやった」
か弱い声で千鶴が聞いた。
「みさちゃんも、ベッドの横に洗面器置いて寝てたわ。可哀そうに」
先ほど七階までのぞきに行ってきた美津子は答えた。
「学校には二人とも風邪引きで休みますて届けてあるさかい、ゆっくり寝てなさい。まさか、欠席理由を二日酔いやて届けられへんし。寝てたら治るから」
酒は良くない、千鶴はそう思った。こんなもの、世の中からなくしてしまえばいい。そうすれば、父も二日酔いで苦しまなくてすむし、母とけんかすることもない。
ようし、元気になったら、台所の酒瓶はすべて捨ててしまおう。会社の社長さんへ、お仕事でお父さんにお酒を飲まさないようにしてちょうだいと、手紙を書こう。帰りに寄り道しないよう駅まで毎日迎えに行こう。それから……。千鶴は痛い頭を抱えながら布団の中で考え続けていた。
(「グルメの誘いは甘いワナ」おわり)
〔これらの物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは関係ありません〕
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●千鶴と美里の仲よし事件簿『尿瓶も茶瓶も総動員、人質少女を救い出せ』『昔の彼は左利き』
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(上段もしくは、小説案内ページに戻り、小説情報を選んで、作品一覧からクリックしていただければ、お読みになれます)