魅惑の匂い
血の滴る槍を手にしながら、朱影は動けぬシンに手を差し伸べ肩を貸す。そして懐から液体の入った瓶を取り出す。これが先ほど言っていた、小型モンスターを倒した際に落ちたというアイテムだろう。
朱影はそれを、腕の上がらないシンの代わりに瓶の蓋を器用に親指で弾き飛ばす。落下した蓋を床に落とさぬ様、朱影はギリギリのところでそれを水の中へ、蹴って落とした。
そして中身の液体をシンに渡すでもなく飲ませるでもなく、そのまま頭から一気にかけたのだ。まだ足元が覚束ないシンは、突然の彼の行動に驚くが、効果はすぐに表れた。
「ッ・・・!身体が、痺れが取れていく・・・」
「何すんだよって思ったろ?」
シンの心を読んでいたかのような言葉が、朱影の口から飛び出す。思わず思考を止めて驚いた表情をしたシンは、必死に隠そうと言葉を連ねる。だが、それをも見透かしていたかのように、朱影は鼻で笑う。
「ありがとう、もう大丈夫だ」
彼の肩から腕を外し、照れるように距離をとる。すると、通路の奥の方から何やら音が聞こえてくる。互いに息を殺し、表情を見合って今の音を聞いたかというような視線を送った朱影に、シンは頷いた。
真っ暗な暗闇から聞こえてくるのは、まるで全身ずぶ濡れの子供が素足で廊下を歩くような足音。それが複数に渡り聞こえてくる。
小型のモンスターが、二人を探して戻ってきたのだ。どういう訳か、途中で朱影を見失い、再び何かを感知して二人の元へ迫っていた。
「大丈夫だ・・・。こいつらは“音“じゃぁねぇ」
周囲を見渡しながら歩き回る不気味なモンスター達の前で、小声でシンに向かって喋りかける朱影。気付かれて戦闘になるかと思ったが、彼が言ったようにあの小型のモンスター達は音で二人を探している訳ではないことを、証明してみせた。
「だが、あまり大きな物音は立てんなよ?デカブツが戻ってくるからよ・・・」
まるで水中に逃げた大型のモンスターが、どうやって二人を探しているのかを知っている様な口ぶりで話す朱影。彼の不明瞭な言葉に、シンは質問をする。
これから戦う相手のことを、仲間にわざわざ黙ったままにしておくメリットなどどこにもない。朱影もそれは分かっている筈で、足手まといになられるのも困る筈なので、彼はきっと答えるだろうという確信を持っていたシン。
その期待に応える様に、彼は口を開いた。
「お前が投げたゴミ。あれの音を聞きつけて、水の中に逃げてったデカブツはお前を追い始めた。それを俺は見ていた。だからでけぇのは、大きな音に気をつけてりゃ問題ねぇ」
「なら小さいのは?奴らと戦ってみて、何か発見したことはないのか?」
「さぁな・・・。余計に分からなくなっちまったって感じだ。お前が言ってた光や音じゃねぇ・・・。さっきまでの俺達にあって、今の俺達にないもの。それが“カギ“だな」
彼に言われ、下水道に入ってきた時と今で、何か違うことはないかと思考を巡らせるも、思い当たるものがなかった。こんな短時間の間に、何を失ったというのだろう。
「失ったもの・・・?この短時間でそんなものッ・・・」
「変化でもいい。俺達おかれている環境で、何か変わったことだ。何か心当たりはねぇか?」
「そんなもの・・・麻痺、状態異常・・・」
その時ふとシンの脳裏に過ったもの。それは“臭い“だった。不意に鼻をすすった時に、同時に鼻をつく臭いがしたのだ。
「臭い・・・?」
「あぁ?」
「俺達の身体からする臭いなんじゃないか?ほら、下水の水を浴びさせられただろ?もしかしてあのモンスター達がアンタを見失ったのも、それからなんじゃないか?」
思い返せば心当たりがあった。大型モンスターがシンの投げたゴミに驚き飛び出したことによって、二人のいる下水道を押し流すほどの大波が起こった。
その時天井に槍を突き刺し難を逃れていた朱影は、下水道で這いつくばりながら朱影を探す小型モンスター達の動向を目にしている。
モンスター達は、下水の臭いがついた朱影を見失い、それまで一目散に向かってきていたのが、目的もなくただ彷徨う様な動きを見せていた。
モンスター達の鼻が慣れたのか、それとも二人の身体から下水の臭いが薄れ、本来の人間の匂いが戻ってきたのだろうか。今、複数の小型モンスター達は徐々に二人の元へ向かってきている。
「それならどうするってんだ?もう一度汚ねぇ下水の中に入って、臭いを付けるか?」
だが、水の中に入ればそこは大型モンスターの独壇場になる。水中では人間など驚くほど無力になる。もしも大型が音による感知だけでなく、別の方法も携えているのなら、一方的な展開になるのは必至だった。




