失われた幻
ツクヨの想像した世界で、彼は水面に浮くことが出来ていたが、それは実際の海面をウユニ塩湖のような景色と思い込むことによる、謂わば暗示に近いもので水中に沈むことなく海面に立っていたが、水中とあらば話は別。
実際のウユニ塩湖は、浅い水深に空の風景が反射することで空と水面の境目に立っているような不思議な光景を生み出している。だが、ツクヨの足元は底の見えぬほど深い水深をした海。
如何に自己暗示で自分を騙そうと、その事実は変わらない。彼は思わず、そっと閉じていた瞼を力強く閉じてしまう。すると、彼の見ていたウユニ塩湖のような幻想的で美しい景色は失われ、実際の冷たくて暗い海中であることをまじまじと思い知らされてしまう。
海の中ということで目を開けることも出来ず、身体を動かそうと何に掴まることもなく、身につけた衣類が水を吸った重みでツクヨの身体はゆっくり海の中へと落ちて行く。
耳に水が入り、ボコボコと波で起こる空気の気泡と、もがいた時に掻き分けた水の音が静かに聞こえる。もう先程までのように周囲の気配を感じることは出来ない。完全にクトゥルプスの位置を見失ってしまった。
不安と焦燥に駆り立てられ、とてもじゃないが戦いに集中する余裕などない。今はただ、身体に含んだ僅かな空気を少しでも長く保ち、新たに新鮮な酸素を吸い込まなければならない。
ツクヨは、彼女をそっち退けで海面を目指し必死にもがく。僅かではあるが全力で水を掻けば上に上がっているような気がする。しかし、その動作を続けることは、身体に残された空気を一気に消耗し、身体に甚大な疲労感を与えてしまう。
それにしては、その労力に見合わない浮上の距離。上を見る限り、どこまで行けば海面から顔を出せるのか分からない。彼の瞼の向こう側には、光が届かない。
そんな彼の姿を見て、彼女は人間の脆弱さを嘲笑う。海の生物の性質を持つ彼女と、人間では住む世界が違う。陸地であろうと水の中であろうと、彼女は呼吸ができ人間以上の身体能力を振るうことが出来る。
生き物としての格の違い。彼女は目の前の獲物を前に自信と誇りを取り戻す。それと同時に、これほど下等な生物に良いようにやられていた事への、静かな怒りが込み上げてくる。
それは発散せねばと、彼女はツクヨの元へと動き出す。そして必死に海面を目指す彼目掛けて触手を伸ばす。彼の身体にスルリと巻き付いた触手は、彼の中にある残り少ない空気を絞り出すように締め上げる。
「ッ・・・!!」
身体が締め上げられるのと同時に、その衝撃と苦しさに大量の空気を吐き出してしまうツクヨ。ボコボコと大きな気泡が彼の口から吐き出され、その場からどんどんと離れて行ってしまう。
咄嗟に口を塞ぎ、これ以上空気を漏らさぬようにと試みるが、既に限界を悟ってしまう量にまで減らさせてしまい、彼の表情は徐々に青紫色に変わり始めていた。
酸素がなくなり、思考回路がまともに機能しない。ただ本能で空気を求め、その為だけに身体を動かそうとする。最早自分の意思ではない。少しでも身体に酸素を取り込もうと、必死に身体が動く。
初めは触手を振り解こうとしたが、びくともしない彼女の触手に拘束の解除は不可能であると判断し、少しでも上に上がろうと悲しい足掻きを見せる。
すると彼女は、縛り上げたツクヨを持ち、そのまま海面の方へと浮上して行った。身体が水を切り上昇していくのを感んじる。そして閉じた瞼が、僅かに空の光を捉えたのか、明るみを感じ始めた。
もう直ぐ海中から出られる。触手が解かれ、彼は自由の身となる。彼女の真意など分からない。今はただ、一刻も速く息を吸いたい。ツクヨの身体が希望を見出し、必死に上へ上へと水を掻いて上がろうとする。
だが、彼女にツクヨを助けようなどという気は毛頭なかった。わざと希望を見せ、必死に足掻く様を見て嘲笑っていたのだ。自身の受けた屈辱を晴らそうと生物の格の違いを見せつけ、どちらが上であるかを彼に思い知らせる。
彼女の気まぐれで、ツクヨの命はいともたやすく絶つことも生かすことも出来る。優越感で満たされた彼女は満足し、その表情から笑みが消えた。最早目の前の命に何の価値もない。愛想を尽かしたように彼女の顔は冷酷なものとなり、必死に生にしがみつこうとするツクヨを、激しく触手で打ちつけた。
最早不意の一撃という言葉が適切であるのかは分からない。彼にクトゥルプスの触手の動きを感知することはおろか、それに意識を割くことすら出来ていなかった。今のツクヨに対して彼女の攻撃は、その全てが痛恨の一撃になる。




