今の世界線の正史
ツバキが気持ち良さそうに酒を飲んでいるミアの付き添いをしていたアカリに、どうしてこんな事になっているのかと問う。彼女も必死に弁明しているが上機嫌なミアに邪魔をされまともに会話が出来ない程、他の客を巻き込み盛り上がってしまう。
「一旦ミアを連れ出そう!私が会計を済ませてくるから、みんなで彼女を店の外に」
「了解!」
「はぁ・・・何だってこんな事に」
シンとツバキがミアを外へと誘い、アカリが先導して道を確保する。その間ツクヨが店員に、彼女が頼んだ注文内容を確認して会計を済ませる。流石にのみなれているのか、ミアは一人で歩けるくらいには意識はしっかりしている。
呂律もはっきりとしている事から、ある程度自分で量を調整していたようだ。買い物をする前にツクヨに注意されただろとシンがミアに言うと、お前らが遅いからだと言い返され、旅に関係のない楽器を買っていた事を思い返すと何も言えなくなっていた。
「何だよ、意外と酔い潰れてなかったんだな」
「アタシを誰だと思ってるんだ?ちゃんとまともに判断出来るくらいにはt、調整して飲んでたさ。ツクヨの奴、余計なことしやがって・・・会計くらい自分で出来るっての!」
「まぁまぁ。でも良かった、これくらいなら博物館を追い出される事もなさそうだな。アカリ、何かお酒に効く薬とかってある?」
店の近くにあったベンチにミアを座らせたシンは、漢方などで少しでも身体のアルコールを分解出来るものはないかとアカリに問うと、彼女も既に薬の準備をしていた。
「飲む前にミアさんに聞かれました。“お酒に効く薬ってのもあるのか?”って。・・・こういう事だったんですね」
ミアは飲む前からアカリの薬を当てにしていたようだ。万が一飲み過ぎてもいいように、準備は怠っていなかったようだ。水と一緒に薬をアカリから受け取ったミアは、それを一気に飲み干すと彼女の身体から酒の匂いや顔の火照りが消えていく。
「やっぱり“こっち”はいいな。直ぐにアイテムを使えば一気に酒が抜けるんだもんな。これなら運転も出来そうだ」
「まぁこっちじゃ長距離移動は殆ど人任せだったり、転送装置に頼る事になるから運転なんて趣味くらいでしかしないけどな」
「“こっち”?シン達の故郷じゃ、あまり乗り物とかなかったのかよ?」
現実世界の話をしていたシンとミアの会話を聞いて、二人がまるで田舎町から出てきたとでも思ったのか、ツバキが素朴な疑問を投げ掛ける。注意していても、やはり同じ世界から来たもの同士だと、自然と会話の中に向こうの世界の事が出てきてしまうもの。
一瞬だけドキッとするシンだったが、少し前の会話を思い出してみてもマズイ発言は無かった筈だと、辻褄を合わせた言葉選びでツバキに答えた。
暫くすると、店内で会計を済ませてきたツクヨがやって来て、全員揃った一行は当初の合流地点だったバッハ博物館を最後に回ってから、ケヴィンの言っていた北の山を目指す事にした。
博物館の前には多くの人々が行き来していた。観光客が殆どなのだろうが、他の名所と比べても人の往来がまるで別物だった。
「さて、ここのバッハがあのバッハとどう違うのか、はたまた同一の人物なのか。確かめるとするか」
「おっおい、ミア」
「分かってるって」
言葉には気をつけろというシンを適当に遇らうミア。だが二人とも、特別音楽に詳しい訳ではなかった。故にバッハと言われても、その正式な名前や家系図については全く分からない。
知っていることと言えば、学校や教材などで目にしたことのあるバッハの肖像画くらいのものだった。
列に並んでいる間、一行は入り口付近で配られていたパンフレットに目を通しながら、それぞれのバッハについての知識について話し始めた。
「そう言えばシンとミアは音楽について詳しいの?」
「いや、俺はあんまり・・・」
「アタシも最近の曲には疎いかな?」
「そうじゃなくて・・・。まぁいいか、それじゃぁツバキとアカリは?バッハについて何か知ってたり聞いたことある?」
現実世界から来た三人は、完全にバッハについての知識は無いらしい。恐らく三人とも肖像画を見た事がある程度で、あの特徴的な髪型を想像している事だろう。
そんな中ツクヨは、こちらの世界の住人であるツバキとアカリにも尋ねてみた。だがアカリはそもそも記憶喪失で、シン達と出会う前の記憶がない事から、実質的にツバキの知識が頼りになるのだが、彼もまた俗世から離れた生活をしていた人物。
海賊達を相手にする港町出身の彼に、音楽についての教養が果たしてあるのだろうか。期待を込めたツクヨの質問に、意外にもツバキは世間では知れ渡っている範囲の知識を彼らに披露した。
「そりゃぁ噂話程度にはな。港町ってのは何も海賊ばかりを相手にしてた訳じゃねぇ。交易船や別の街からやって来る商人達から色んな話が聞ける。何でも金持ち達の間で有名なバロック音楽って中じゃ、特にバッハの名前は世に知れ渡っている名前らしいぜ?」
「へぇ、意外だな。機械弄りの他にも知識が豊富なんだな」
「まぁな。豊富って程じゃねぇがそれなりにはな」
珍しくミアがツバキの中から情報を引き出そうと、彼を煽て始める。そうとも知らずに気分を良くしたツバキは、知っている範囲でバッハという人物について語る。
「鍵盤楽器の演奏家として有名で、音楽の基盤を構築した作曲家の一人で、音楽の源流であるとも言われてるんだとよ。一部じゃ音楽に父なんて呼ばれてたりして、バッハ一族なんて言うほど、音楽家の家系だったみたいだ」
「要するに音楽家の家系だったって訳かい?」
「バッハの一族はそれはそれは有名な音楽家の家系で、多くの音楽家を輩出していたらしい。だから一括りにバッハと言っても、他にもバッハの名を持つ音楽家がいるんだ。まぁその中でも特別だったのが、ここの博物館にもなってるバッハなんだろうな」
「なるほどな。じゃぁ詳しい人からすると、バッハってどのバッハ?ってなったりするのかな?」
「そんな会話聞いたこともねぇが、まぁ俗に言われてるバッハってのは、このパンフレットにも載ってるように“ヨハン・ゼバスティアン・バッハ”のことを指すって認識で良いと思うぞ」
「“ヨハン・ゼバスティアン・バッハ”・・・か」
「どれどれ、見せてみ?」
ツクヨの広げているパンフレットを覗き込むミアとシン。そこには見覚えのある肖像画と共に、ツバキの言っていた彼の名前が記されていた。三人は顔を見合わせて、現実世界でも有名なあのバッハであると確信する。
この時既に、彼らの存在する世界線の歴史は、クリストフが望んでいた歴史に書き換えられていたのだ。
最初にアルバへ訪れた時、このWoFに伝わっていたバッハの名前は“ヨルダン・クリスティアン・バッハ”だった筈。しかしそれは別の世界線で起きた宮殿内の事件で、計画を成就させたクリストフの望んだ正史に書き換えられている。
一行がそれを理解する事は、恐らく永遠に来ないだろう。彼らにとっても、そのバッハの名前は初めて耳にするものとなる。他の観光客や地元の住人達からも、それに疑いを持つような会話は聞こえてこない。
どこまでの範囲で記憶の改竄が行われたのかは分からないが、少なくともアルバの街とその周辺地域では、バッハと言えば“ヨハン・ゼバスティアン・バッハ”と言う事で統一されていた。
列が進み、博物館の中へと入っていく一行。新たな認識で訪れるバッハ博物館での体験は、現実世界で知られるバッハのものと同じものになっている。
しかし後にアルバを訪れた遠方の者からは、稀にヨルダン・クリスティアン・バッハの名前が上がったそうだが、それは間違った知識としてアルバの者達によって修正されていったと言う。




