オートグラフ
黒い妖艶なドレスを見に纏い、マネージャーと思しき男と長い廊下の方からツクヨ達のいる会場へとやって来る。彼女の魅力は男性だけでなく、女性の視線をも惹きつける魅力があった。
「ねぇ、ツクヨさん。あの人・・・」
「あ、博物館で怒ってた人だよね?確か展示の仕方にケチつけてた・・・。でも宿屋で見た雑誌には有名な歌手として載ってたよね」
「あっちから来たって事は、あの人も偉い人なのでしょうか?」
「ん〜・・・偉いっていうよりは、有権者?って言うのかな。恐らくだけど、彼女もVIPルームっていうところに入れるだけの権利を持っているんだろう。音楽の街だから、音楽の関係者も有権者になるのかな?」
「有権者・・・」
自然と彼女に視線を奪われるアカリは、その姿を目で追っていた。すると、彼女の姿に虜となっていたのはアカリだけではなかったようだ。会場にいた音楽学校の学生と思われる格好をした女子生徒が数人、彼女の元へと駆け寄ってくると色紙のようなものを渡しているのが目に入ってきた。
「あれは何をなさっているのですか?」
「ん?あぁサインでも貰ってるのかな?」
「サイン?お名前を書いて貰ってるのですか?」
「ただ名前を書いて貰うだけなのですか?それをあの方々はどうするのです?」
「どうするって・・・。飾ったり自慢したりするのかなぁ。あと名前を書くと言っても普通に名前を書く訳じゃなくて、アレンジを加えた特別なものなんだよ。だから有名人のサインっていうのは、それだけで価値のあるものになったりするんだ」
記憶を失っているアカリにとって、サインを書いてもらうという文化自体が理解できないものだったようだ。
有名人のサインというものは、別名オートグラフとも呼ばれ筆者の名前を様式化して書いたもので、その手のファンと呼ばれる者達の間でしばしば収集されている。
「アカリも欲しいのかい?」
「ん〜・・・どうなんでしょう。あまりお名前を書いてもらう事に、あの方々のように嬉しいといった感情が湧く気持ちが分からないのですが・・・」
するとツクヨは、何を思い立ったのか近くのウェイターに頼み色紙を入手してくると、アカリに彼女のサインを貰ってみることを提案する。
「なら、貰ってくるといいよ。色々考えるより、実際に体験してみる方が手っ取り早いしより理解しやすいだろ?」
「そっそうかもしれませんが、私が頼んで貰えるものなのでしょうか?」
「それは彼女次第だけど、アカリの何らかの記憶に繋がるものがあるかもしれないだろ?私も一緒に行ってあげるから。ツバキ、ちょっと・・・」
「あぁ?何だぁ?」
一人ツクヨ達の会話を聞き流しながら料理を堪能していたツバキは、一人テーブルに残すわけにもいかないとツクヨに事情を説明されながら、渋々ツクヨ達についていく事になる。
女学生らが彼女から離れたタイミングを伺い、ツクヨとアカリがサインを求めて彼女に歩み寄る。だが、彼女のマネージャーと思われる人物に時間がないと止められてしまう。
有名な歌手ともなれば、この後のスケジュールもびっしりと埋まっていてもおかしくない。タイミング的に先程の学生らが最後だったのかと、サインは別の機会にと諦めようとするツクヨ達だったのだが、意外なことに彼女本人がマネージャーに対しサインくらいならと言ってくれたのだ。
「あら、いいじゃない。折角私のところにまで来てくれたのだから」
「しかしカタリナ様、この後一般の会場にて歌唱の予定が・・・」
「調整の必要はないわ。私を誰だと思っているの?喉の調子もいいし、気分もあの時とは大違いだもの。十分過ぎるほどの歌声をみんなに披露できるはずよ」
「カタリナ様が・・・そう仰るのなら・・・」
カタリナはアカリの手から色紙を受け取ると、慣れた様子でサインを書いていく。
「ここの学生じゃないみたいね。可愛い子・・・貴方も音楽が好きなのかしら?」
突然の質問に驚いた様子を見せるアカリ。記憶を失っていることを敢えてカタリナに話す程でもないと、その事には触れずに素直な自分の気持ちでカタリナの質問に答える。
「その、本格的な音楽に触れるのはこの街に来てからが初めてだったので、式典の合唱や演奏を聴いてすごく感動しました」
「そう、式典にも参加してたのね。あの時は私は歌わなかったけど、それで音楽に興味を持ってくれたのは嬉しいわ。もしよければ、この後一階の会場で歌を披露する事になってるの。時間があればぜひ聴きに来てね」
優しい笑みと共にサインを書いた色紙をアカリに手渡すカタリナ。その姿は博物館で見た時の彼女からは想像もつかない程の印象を受けた。余程あの時の彼女は気が立っていたのだろう。
それほど彼女の気に触る事とは何だったのか。そんなことを考えながら、ツクヨはカタリナとアカリが握手をするのを見届ける。手を振って立ち去るカタリナとマネージャーを見送った三人をどこからか見ていたのか、ジークベルトの護衛と思しき格好をした者が彼らの方へとやって来る。
「彼女のファンか何かかい?」
突然見知らぬ人物に話しかけられ、何事かと思いながらもツクヨはアカリを自分の後ろに下げて答える。
「そのようなものです。何かいけない事でもしてしまいましたか?」
「あぁ、そうじゃないんだ。実は俺も彼女のファンでね。護衛という形ではあるが、実際に彼女をこの目で見れるなんて思ってもみなかった。いや、アルバの式典の護衛任務という時点で期待していなかった訳ではないが・・・」
「すみません。まだ彼女のことを知って日が浅いもので・・・。彼女は一体どんな人なんですか?」
博物館とさっきの様子で、まるで別人のような顔と態度を見せたカタリナに興味を持ち始めていたツクヨは、彼女のファンだと語るその護衛にカタリナという人物について尋ねてみた。すると彼は、公表されている情報とファンの間で噂になっている範囲で、カタリナ・ドロツィーアという人物について教えてくれた。




