ガンダムとエヴァンゲリオン
自分はエヴァンゲリオン世代で、エヴァは一通りくぐった気がしているのだが、今は後方に霞んだ景色として見えている。頭の中にはシンジやアスカ、レイといったキャラクターのイメージ断片だけが眠っている。
一方で、ガンダムは後から、勉強も兼ねて見た。ガンダムにおいても、アムロとシャアという象徴的な二人のキャラクターが印象的であるが、ガンダムは、後の「イデオン」においてはっきりするような哲学が含まれていたと思う。
現在の地点から僕はある観点でこの二作品、初代ガンダムと新世紀エヴァンゲリオンを振り返ってみたい。なお、この観点に関しては特徴的な一つの視野であるので、作品全体の批評にはならない。ある視野の元に二作品を考えてみたい。
さて、では、その特徴的な観点とやらはどんなものなのか。それは簡単で、ガンダムにおいては、敵と味方の相対性が意識して描き出されていたのに対して、エヴァンゲリオンは敵を「使徒」という絶対的で理不尽なものに化してしまったという事だ。この一点において、大流行したロボットアニメとしては、エヴァはガンダムに対して一段後退したと考えている。作品全体の評価はまた別なので、それだけで価値判定はできないが、自分はそんな風に見ている。
ガンダムは、敵もまた同じ人間であり、蠢き苦しむ存在であるという事が意識されていた。相手もまた人間である、という地点から「戦争」が描き出されていた。これは「イデオン」においてはよりはっきりと打ち出され、敵と味方が相対的に描き出されている。ガンダムの方はまだ、連邦=善、ジオン=悪、という構図があるのだが、イデオンにおいては消えていた。そういう意味では、イデオンはガンダムよりも、芸術的な色彩を濃くしたと言えるかもしれない。
一方で、後発のエヴァンゲリオンは、敵を「使徒」というものに設定した。この敵は理不尽であり、絶対的な強者であり、それに踏み潰され、それと戦う部分に「味方」側の葛藤が生まれる。この葛藤と思春期の少年少女の葛藤を重ね合わせて、エヴァはそのドラマ性を作ったわけだが、この場合、「向こう側」はどういうものかわからない。ある意味で都合の良いブラックボックスになったと見ていいだろう。
アニメ全体を俯瞰するなら、小さな領域を主とする日常系アニメと、大きな領域を扱う世界を救うタイプの物語は、裏と表で補完しあい、両者の側から他者性を消し去ろうと努めている。日常系は、外部を排除し、内側にのみ閉じこもり、気持ちの良い空間を作ろうとする。世界を救う物語は、敵を絶対視し、どれほど殺しても罪を感じずに済む対象を作り出す事によって、内部における快感と正義を作り出そうとする。
世界を救う物語、敵をこっぱみじんに打ち砕く物語では、敵を悪という絶対として想定する事により内側をまた違う形で絶対化する。我々は自分達の正しさをあくまでも信じようとする。
思い返せば、大ヒットした「魔法少女まどか☆マギカ」もまた、敵を絶対的なものとして定めていた。少女達の内的葛藤と世界を救う戦いが重ねられるのはエヴァと同じだ。ただ、この場合でも、敵の存在は相対化されてはいない。「シュタインズ・ゲート」も非常によくできた作品だが、世界を牛耳ろうとする人達はロボットのように、理不尽なよくわからないものとして考えられている。
これらの事と社会的な事象を比べるのは危険と言えば危険なのだが、やるとすると、我々は自分達の「内輪化」をより強め、同時に、「他者の排除」「他者を悪として絶対化する」という方向に向かっている事になるだろう。
ガンダムとイデオンという作品を思い返せば、どちらかと言えば、気持ちが良いのはガンダムの方だし、敵をバッサバッサと切っていく話の方が「爽快感」がある。だが、この爽快感に対する反省がない所では、作品は芸術にならず、エンタメにしかならない。こう考えると、芸術は真実であるが不快なものを含み、エンタメは快感ではあるが嘘を含む、という風に整理できると思う。
…以上の文章では、ガンダムやエヴァ、まどか☆マギカなどの多様な要素を含む作品を、かなり単純化して捉えたので色々、批判もあるだろう。ただ、ガンダムが象徴していたもの、そうしてエヴァ、エヴァ以降のコンテンツを見て、また社会に沸き立つ議論を見ても、我々は自己の絶対化(善)と、外部の絶対化(悪)を強力に推し進めているように思われる。この行く先はおそらく、血塗られた世界であり、その先で、我々は自分達の罪や罰と向き合わなければならなくなるだろう。
僕が欲する物語は、現実を糊塗する物語ではない。現実を見つめ、そこから真実を抽出する物語だ。ソフォクレス「オイディプス王」、ドストエフスキー「罪と罰」のような自らの行為、行為からくる葛藤、自らに課せられた罰、こうした物語が何故普遍的なものとして残っているのか、我々は深く考えなければならないのだろう。そうして理性がそこまで届かないのであれば、我々はその領域を現実のものとしてしまうだろう。こうして我々は自分達は現実にいる普通の人物であると信じながら、知らない内に、悪夢の物語の主人公となっていくのである。