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第九章 斯くして扉は開かれる

寝坊だ。

アルマはブスッとした表情で図書室のテーブルで日記を書いていた。

朝方、目が覚めた。

理由は単純。夢見が悪かったのだ。

数年ぶりに親友のコティが夢に出てきた。会えたのは嬉しいが内容はあまり思い出したくない。


『アルマ…ちゃんと考えてね。一度してしまえば、もう取り返しがつかないから。』


何年も前に言われた台詞。

でも、忘れていない。忘れられない。

彩なら大丈夫と思い込んでいる部分は多分にある。直感と言えばそうだろう。希望的観測。

何度も考えている事柄が頭の中をリフレインする。

明け方にコティの悲劇のシーンの再演を見て声にならない悲鳴を上げて、目が覚めた事を今でも鮮明に覚えている。

昼間の追憶が良くなかったに違いない。釣り合いが取れねば、人形契約になってしまう事は分かりきっている。

分かってる。

でも、信じたい。大丈夫だと。

きっと、コティもこんな心境だったに違いない。

だから、コティの一言を思い出したのだ。


『アルマ…ちゃんと考えてね。一度してしまえば、もう取り返しがつかないから。』


その一言で目が覚めて、まだ暗いからと二度寝してしまい…起きた時には枕元に由乃のおにぎりが置かれている始末である。

恥ずかし過ぎて、由乃にお詫びをして、早々に図書室に逃げ込んでいる。

お陰で朝は彩の顔すら見ていない。

まだ時間が早いのか、図書室は誰も利用者がいないので静謐を絵に書いたようだ。

時間的には早朝からの講義が始まったくらいだから当たり前と言えば、当たり前だが。

アルマは暇つぶしに日記の続きを書いて気を紛らわせる。

本来なら、リクライニングチェアでのんびりする彩がいるのだが、今日はまだ来ていない。

興味のある授業の時には度々放って置かれる事もあるが、いざ一人と分かるとやっぱり寂しい。

一行日記を書く毎に出入口に現れぬ影を求めてしまう。

だから、最初に足音を聞きつけたのは待ち人来たらずのアルマであった。


「おはよう!アルマちゃん。鈴宮くん、来てる?」


期待していたのとは違ったが、見知った顔に笑みも溢れる。

櫻子が奥のリクライニングチェアを見ながらアルマに問う。


「ううん、まだ見てないわ…どうしたの?櫻子お姉ちゃん。」

「教室に来てないから、またサボってるのかなー?と思って連れ戻しに来たんだけどね。」

「私は寝坊したので、朝食の時も見てないわ。」

「そう言えば、私も見てないわね。」

「もしかして、まだ寝てる!?とか?」


自分の寝坊をさておき、アルマは自分より長く惰眠を貪る彩の寝顔を思い描いて少し腹が立ってきた。


「よし、起こしに行きましょう!」

「え!?あ?!」


アルマは日記をパタンと閉じて、立ち上がる。

唖然とする櫻子の手を引いて、図書室を後にする。

この場合、アルマ一人でも良いのだが、男子が寝ている部屋に一人で入って行くのに抵抗を感じたからである。

『旅は道連れ、みんなで渡れば怖くない!』と人間界では言うらしい。

そういうところはまだまだ初心な乙女なのだ。


コンコン…コンコン。


彩の部屋の前に着いた二人は緊張気味に部屋をノックした。

何回目かのノックに少し苛立ったアルマが白いワンピースのスカートのポケットから白いキーカードを取り出した。


「最終手段…清掃用マスターキー!…にやり!」

「ア、アルマちゃん。なんだか今とっても悪い笑顔になってたよ。っていうか、そんなもの何処から持ってきたの!?」

「…シーツ交換のときに返しそびれた…という事に。」


ぺろりと桜色の舌を出して、櫻子にニコッとする。


「えー、大丈夫かな?」

「エッチな本が置いてあったら櫻子お姉ちゃんが処理してね。」

「え?いや、そんな、困るよ。」


一瞬、水着写真を見てニヤける彩を想像して櫻子はぷるぷると首を振る。

想像出来ないのと、想像したくないのと半々くらい気持ちがないまぜになり、心の中で二人の自分が闘っている。

櫻子としても許可なく男子の部屋に入るのは気が引けていた。

というか、兄の部屋にも許可なく入った事などないのだ。増してや、同級生の異性の部屋などに忍び込むのは初めての経験だ。

少しだけ躊躇して、でも櫻子はアルマの所業を遮ったりはしなかった。


「あれ!?」


アルマの素っ頓狂な声と共にドアが勝手に押し開く。


「鍵が開いてる…お邪魔しまーす。おはよー、彩!」

「お邪魔しまーす…。」


元気の良いアルマとは対照的に、櫻子はコソコソと後ろに付いて、部屋に入る。

アルマはベッドの中で安眠を貪っている彩の顔に落書きでもしようかと思っていたが、ガランとした部屋の中を見て、ハタと思考が止まる。

居ないことなどこれっぽっちも予期していなかったのだ。


「あれ?」

「あら?」


二人の声が重なる。

彩が、いない…二人の頭の中に徐々に現実認識が染み込む。

アルマはふと、彩がいつも座っている机に目を落とす。

白いルーズリーフノートに何やら書付が残っている。

最初の行にアルマの名前を見て、安心して手に取る。

無許可に部屋に忍び込んだとは言え、他人の手紙を盗み見る趣味は持ち合わせていない。


『アルマへ

この手紙を読んでいると言うことは、僕に何かあったか、早めに心配で見に来てくれたということかな。

まずはお礼を。有難う。

実は昨夜から今朝にかけて夢を見た。でも、多分…夢じゃないと思う。

うまく説明は出来ないけど、僕には確信がある。

風城先輩と楓さんはまだ悲恋湖にいる。社の近くにある洞窟みたいな所にいるのを見た。

これから一人で探しに行ってきます。

勝手をしてごめんね。

もしかして、鷹司さんは一緒じゃないよね?一緒なら彼女にもごめんと謝っておいてください。

この手紙が読まれない事を祈りつつ。

鈴宮 彩』


…失敗した。

甘かった。

アルマは唇を噛んで後悔していた。

魔術が遅延発動したのだ。アルマは悟った。まさか、そんな時間差で昨日の魔術が効果を発揮する事など予期していなかったのだ。もう少し、きちんと確認して置くべきであった。

アルマは手早く術式を展開して、彩がどれくらい前にこれを書いたのか読み取る…約2時間弱前。

十分な時間差である。


「櫻子お姉ちゃん、彩は一人で悲恋湖に風城さん達を探しに行ったみたい。」

「なんで、そんな事に!?」


アルマは櫻子に彩の置き手紙を見せて、事情を説明する。

櫻子が手紙を読んでいる間、昨日見ていた地図を詳細に思い出してみた。

そろそろ彩は湖の近くまで行っているはずだ。


「私、追いかけるわ…心配だもの。」


まさかとは思うが、霊魔界側から溢れ出た魑魅魍魎の類いが原因であれば担当エリアが異なるとしても、霊魔界の住人として、クール大公家の一員として自分にも退治義務が出て来る。

ノブレスオブリージュ。

人間界では貴族の義務として使われるこの言葉。

霊魔界では人間界を護る時に主に使われる。

邪な旧神達から純粋無垢な人間界を護るのは霊魔界ゲヘナ天上界ヴァルハラの使命だ。

天上界は人々の転生を助け、霊魔界は人々を守護する。

吸血鬼族も霊魔界の一翼を担う一族であれば旧神の影響を見過ごす事は出来ない。


「朝ごはんの前に出ていたら、そろそろ湖に着くかどうかね。」


彩の居場所については櫻子もアルマの意見と同じであった。


「私は先に行くから、櫻子お姉ちゃんは先生に話した後で追いかけて来てくれる?」

「え、ダメだよ。アルマちゃんを一人で行かせるなんて。」

「お姉ちゃんの足ならすぐに追いつけるでしょ?」


アルマとしては魔術を使って、早く追いつこうと考えたのだが、櫻子と一緒だと目の前では使えないし、置いていく訳にも行かない。


「私も行くよ。」


強い調子で言われてしまい、アルマとしては頷かざるを得なかった。

説得している時間が今は惜しかった。

二人は地図を片手に外へ出た。


「アルマちゃん、ハイキングコースはこっちだよ!」


櫻子がアルマが行こうしている方向とは逆方向の左手を指し示す。


「同じ道を行っても間に合わない。だから、旧道を行くの!」

「間に合わないって、何に?あ、ちょっと、アルマちゃん。」


小走りのアルマの背中を櫻子が慌てて追いかける。

アルマの中の焦燥が足を突き動かす。

杞憂なら良い。自分を笑ってくれれば良い。

でも、もし…。

コティ、変な時に夢に出てくるんじゃ無いわよ!

心の中で親友を毒付くと足を早める。

同時にゆっくりと櫻子にも加速の魔術を展開する。

少しずつ、少しずつ足が軽くなる。

でも、本人が気が付かないように。

空気抵抗を減らし、重力を軽くしていく。傍から見れば女子高生と女子小学生がオリンピック陸上のメダリスト並のスピードで山道を駆け上っているように見えるはずである。


『間に合わせて、神様!』


得も言われぬ焦燥感に突き動かされるアルマは心の中で滅多にしない神頼みで叫んだ。


湖を見渡せる小高い丘に登ると夏とは思えない爽やかな風が背中から吹き抜ける。山からの吹き下ろしは乾いた空気を運んでくる。

湖を見渡せるこの場所はハイキングコースの最終地点で格好のランチスポットであった。

彩は少し汗ばんだ額を手の甲で拭った。一年ぶりのハイキングコースは記憶にあるより長く感じる。

左手の虎杖丸いたどりまるが重いと言う訳ではないのだが、日頃の運動不足が祟っているのだろうか?

そう言えば去年は翌日は一日ベッドから出なかったな…などと怠惰な日常を思い出していた。

本来なら武器を大っぴらに持ち歩くべきではないのだが、昨夜…今朝のイメージ通りなら相手は人間ではない。少なくとも護身用の武器は必要なはずである。

ハイキングコースは尾根を大きく迂回してなだらかになるように作られた為、湖の御神体が祀られている社とは反対側に出てしまう。

彩が見た光景は社の方からだと考えていた。

風城の身体は今と同じように背中からの風を感じていた。取り敢えずは湖の辺りに行くため、階段を降りる。

疎らな白樺の木が周りの音を遮り、物音一つない状況に一層孤独を意識する。

彩が踏みしめる湖畔の小石がしゃりしゃりと音を白樺の木に木霊する。

ところどころ白樺の灌木が放置されているが、間引かれたものなのだろう。

年月がまたその木をまた土に帰し、そして子孫たちの栄養になっていく。

植物たちの輪廻…自然の摂理。

人も輪廻するのだろうか?

宗教ではよく輪廻転生など、生まれ変わりなんかが言われているが、本当のところはどうなのだろう?

今度、アルマに聞いてみようか?

過去の記憶のない自分も何かの生まれ変わりなのかもしれない。

自分を『下僕に』と言い出した小さな吸血鬼姫の事を思い出しながら、何と答えるだろうか?と思いを馳せる。

自分は記憶は無いが、平凡な人間だと信じて疑わない彩としては魔力マナがどうのと言われてもいまいちピンとこない。

アルマに付いて行って魔術の修行でもすれば変わるのだろうか?

まぁ、まだ選択しなくても切羽詰まっている訳でもないのでゆっくり考えよう。

恐らくは下僕には何らかの『制限』か『足枷』があるのではないかと言うのが、彩の見立てだ。アルマは中々言おうとしないが、まだ『何かある』と思っている。

時折、何かを伝えたいような表情を見せるアルマは自分に正直な素直で可愛い性格だと思っている。

もう少し待ってからその事について聞いてみても良いだろうと考えていた。

近づくにつれ木造の社の所々が朽ち始めているのが見えてきた。

確か3年前に改修工事をしたと記述があったので、それ以来手が入っていないのかもしれない。

しかし、社自体は人が二人も入ったら圧迫感がありそうな大きさである。

夜露は凌げるが長居しようとは思わない環境と言える。

四隅をコンクリートの台座でしっかりとした高床式の社は三段の階段を正面に『緋漣大社』の古ぼけた字がようやく読める社号が掲げられていた。

申し訳程度の賽銭箱も装備されているが回収に来ているのかどうかも怪しい所だ。

社の周りをぐるりと一周したが特に変わったところはなかった。

社を囲むように白い灌木が枝ぶりもそのままに転がっている。

その灌木の白さが一層静寂さと寂寥感を醸し出している。

寂れているとはいえ、神様を祀ってある社を開けるというのも罰が当たりそうで、彩としてもご遠慮申し上げたい所だが、もはやそこ以外に調べる所もなくなってしまった。

彩は小さくため息をつくと、一応手を合わせて心の中で神様にこれからする非礼をお詫びした。

階段を登り、観音開きの扉を両手で開ける。

左手の虎杖丸いたどりまるがカタカタと扉に当たる。

中を覗くと、神棚に小さな鏡が飾られてあるのが目に入る。

四畳半程の畳敷きの室内は清潔に保たれ、それほど荒れている印象はない。

ただ、一目で全体が見渡せてしまうので探索が呆気なく終わってしまった事に拍子抜けしてしまう。

考えてみれば教師たちも真っ先に社は覗くだろうし、探していない方がおかしいのだ。

風城先輩が危険だと言うのが自分の杞憂に終わった事に安堵しながらも、『では何処にいるのだろうか?』と新たな疑問が浮かんでくる。

あれは自分が勝手に見た妄想だったのだろうか?

恥ずかしい置き手紙までしてしまった。アルマに見つけられていない事を祈るのみだ。

鏡に向かって一礼すると元の通りに扉を閉める。

階段から降りようと湖を見るとふと既視感に襲われる。初めて見るはずなのに。


シャラン

夢に出てきた音を聞いたような気がしたが、周りを見ても特に変わった事はなかった。

気のせいか?

その時、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。


「彩〜!」

「鈴宮く〜ん!」


アルマと櫻子が社の後ろ手の方からこちらに向かって来るのが分かった。

恥ずかしい手紙はバッチリ見られてしまったようだ。

それにしても物凄いスピードだ。

風を切るというより、風を置きざりにして駆けているようだ。

見る見る間に二人のスピードが落ちたと思うと彩の前で二人は肩で息をしながらへたり込んだ。


「は〜、無事だったわね。全くもー…は〜。」

「こら、講義を、サボるな。」


二人の肩が激しく上下している。

「二人とも。心配かけてごめん。僕の杞憂だったみたいだ。さっき、社の中まで見たけど誰もいなかったよ。ホント、迷惑かけてごめん。」


彩は二人の疲れ具合に、申し訳ない気持ち一杯で、腰を九十度に折って頭を下げる。


「なんだ〜、そうだったのね。アルマちゃんと二人で心配して損しちゃったね。このお詫びはしてもらいますからね〜。」


櫻子は彩を人差し指で示してビシっと言うが、肩で息をする姿ではいまいち迫力に欠ける。

息が整った櫻子は制服のスカートの裾を払いながら彩に向き直った。

アルマはお行儀の良い態勢で近くの灌木に腰をかけて、まだ息を整えている。

顔が少し青いのが気になるが、彩が近寄るとニッコリ微笑む余裕はあるようだ。


「綺麗。」


櫻子は一歩だけ前に出ると湖に見とれて賞賛する。

1年ぶりだったが、社側から湖を見るのは初めてだ。去年はハイキングコースの見晴台からランチをしながら湖を見た記憶が仄かに残っているだけ。

これで二人きりであれば、少し勇気を出して自分の気持ちの一つも打ち明けようと思うのだが、如何せん……。

視線を彩の少し後ろにやり、金髪の少女を見る。

しなやかな猫のような印象を与えるアルマは彩の側にぴったりと寄り添うように灌木に腰を下ろしている。

ここに来るまでの余裕のない表情などおくびにも出していない。

櫻子の家系はその昔は陰陽師として朝廷に仕える家柄だったと聞いている。

やがて神主として神道を守る傍らで文武両道を目指す教育を柱としてきた。

兄達は警察機構の官僚で家には寄り付かなかったが、櫻子が幼い頃には優しくして貰った記憶が残っている。

鷹司家は他の二つの家系同様に宮家に連なる家系で、宮家と御三宮家を合わせたこれらの4家では代々奇妙な風習があった。

毎年年末行われる奉納の儀式を取り仕切る未婚の巫女ら持ち回りで選ばれ、儀式を行うのだ。

今では形骸化しているので、年に一度遠くの親戚が集まる七五三くらいにしか思っていない。

奉納とは現代風に言い換えているだけで古くは生贄を差し出す儀式であったようだ。

しかも、白巫女姫として花嫁に差し出されるのだから奉納される方としてはたまったものではない。

所謂、人身御供。供物をするのでこちら側に魔物が出て来ないように祈願する訳だが、今や五穀豊穣や国家繁栄など当初の目的から外れているものまで盛り沢山に祈願奉納される。

婚期が遅れるとか、男運が下がるだとか散々な言われようをされる儀式だがきっちりと古式風習に則り、執り行われる。

今年は順番的に櫻子に大役の白羽の矢が立ったと言う訳だ。

有難くもないお役目で、花嫁衣裳の代わりの白巫女装束を身に纏い日中一日経文を詠み上げてお役目を果たさなくてはならない。

年末に行われるそれが櫻子にとっては気鬱の種だった。

別段、未婚と言っても好きな人くらいは居ても良いのだろうとは思うが…もし、それで儀式自体に問題が出てしまうかも知れないと思うと告白すら出来ない自分がいる。

未だに人身御供とは全く男尊女卑も良いところである。

今や、年末の恒例行事となっていて紅白歌合戦や深夜に友達と初詣に行くなんてどころでは無い。


「綺麗だねー。」

「……そうね。」


ポツリと回答を得た事でふと我に帰る。

3年生の剣道部イケメン部長と異母妹楓が行方不明になっている場所。

櫻子がたまたま見つけた廃部寸前『陰陽術&ミステリー研究会』の部誌から発見した3年前の行方不明事件でも湖が舞台になっている。


「それにしても、風城先輩達は何処へ行ったのかな〜?」

「もう少しこの辺を散策して戻りましょ。先生達が変に騒いでも大変だし。」


櫻子は左手の時計を見て、思ったより時間が進んでいない事に驚きながら続ける。


「まずはお参りしないとね。」


顔色の戻ったアルマは立ち上がるとノビを一つして湖の中央を見つめている。

櫻子は彩を促して先に社の前に立つ。

手を合わせて目を閉じると耳元で一際大きな鈴の音が鳴った。

シャラン


「二人とも!下がって!」


アルマの厳しく警告する声が遠くに聞こえる。


『白の巫女姫よ…そなたは何を望む?』


辺りはボンヤリと霧が出て霞んでよく見えない。

社の扉が内側からゆっくりと開いていく。しゅるる。

息遣いが口の端から漏れるような音を立てる何かがいる。

不思議と恐怖はなかった。

色白な顔が霧の中からにゅっと覗く。

薄っすら開いた目は翠をしている。

その優しい翠の瞳が櫻子を捉える。


『白の巫女姫よ…そなたは何を望む?』


同じ質問が下される。


「白の巫女姫…何故、それを。」

「妾は此方の…此岸の者ゆえ。知っておる…そなたの苦悩も、そして想いもな。」

「な!」


櫻子は口を押さえて悲鳴を飲み込む。

何を知っているというのか?

私の気持ち!?

誰にも漏らした事すらない。


「そなたの大切なものを差し出せば、そなたの力となろうぞ。」

「…。」

「妾はこの泉の主たる蛇神たるぞ…叶えてつかわそう。」


両手を広げ、蛇神は櫻子を促す。

少し霧が晴れ、蛇の如く蠢く下半身を見ても櫻子は怖いとは思えなかった。

一枚一枚煌めく鱗を見て、返って綺麗だと思うくらいである。


「鷹司さん!」

「櫻子!」


二人が呼び掛けても、虚ろな瞳に生気は戻らない。突然、櫻子が誰かと話をするかのように独り言を言い出したのに驚いて今まで声を掛けそびれてしまった。


「無駄ね。妖魔に魂を奪われているから、彩の声は届かないわ。」


少し硬いアルマの声が背中にかかる。

左手の虎杖丸がカタカタと震える。自分の震えが伝染したのかもしれない。


「水魔か…。」


アルマがポツリと漏らす。

櫻子がゆっくりと社に向かって近づき始める。湖を見渡せる湖畔にポツンと建つ古い社の方へ。

周りを白木の潅木に囲まれ、寂れた雰囲気が一際目立つ。

恋人たちが永遠の愛を誓うと叶うという伝説。叶わない恋を来世で成就させようとする悲恋の逸話はこの蛇神の仕業に違いない。

彩は近づくのを止めようと櫻子の腕を握るが物凄い力で歯が立たない。

ポォーっと社が、紫色に輝くのとアルマの言葉が重なる。


「来る…。」


ヒタヒタ。

水の滴るような音が聞こえる。

水琴窟のような和音であれば、美しいのかもしれないが、不協和音が混ざっているのか、少し耳触りだ。


「邪魔立てするでない。妾の声の届かぬ人間よ。」


ヒタヒタ。洞窟の中にいるかのような反響した声がもの寂しげに揺れる。


「妾の子を逝かせてやるのだ。」


社全体から発していた紫色の光はやがて扉の隙間から色濃く漏れ始める。

扉が重々しい音で軋みながら左右に開いていく。

上半身は裸体だが纏わりつく長髪が豊かな胸元を覆い隠している。色白で整った細面の顔が返って、ヌメヌメと青く光る鱗で覆われた蛇の下半身との違和感を際立たせている。

櫻子を迎えるかのように両手を広げると、櫻子の体にもさらに力が入り、彩の力では抑えきれなくなる。


「まったく……妖魔が人間界で何しているのです?」


面倒くさそうにアルマが左手は腰に、右手の人差し指でヌメヌメ蛇神様を指差し、ため息まじりにつぶやく。


「貴女がここいらの主なの?なんでこんなことするの?。人間を食べるとか?……まさか…ね。」


おいおい、この神様は人を食べるのか?

心の中で突っ込みつつ、彩は櫻子の前進を止めようと踏ん張る。


「妾への信仰が妾の力の源……妾は我が子らの願いを叶えてやるまで。永遠の愛を誓えるように……。」

「殺しといて、永遠も何もないでしょう?…これだから旧世界の住人は。」


アルマは腕を組みながら、訝しそうな退屈そうな視線を蛇神に送る。


「来世で結ばれると信じて逝くのだ。永遠の愛を信じて…。」


風城兄妹の二人はお互いに来世では相思相愛になれるならと、喜んで我が身を投げたのだろうか?

否。

彩が見た兄は妹を取り返そうと歯を食い縛って抵抗していた。

喜んでなどでは決して無い。


「鷹司さん!」


もう一度、正気に戻ることを期待して大声を耳元に投げる。

櫻子は何故、この蛇の言葉に耳を貸すのだろう?何か心に隠し持つ秘密があるのだろうか?

この世で幸せになる事を諦めて、来世で幸せになれる保証がどこにあるのだ。また、来世でも諦めないとどうして言い切れる。


『諦めずに生きて……』


頭の片隅で誰かの声が彩に囁く。

誰だったか?

白い靄のような記憶はすぐにかき消される。


「櫻子、今を諦めるな!次で幸せになるなら、今幸せになれ!」


ふと思い浮かんだフレーズを口にする。誰かに言われたことがあるような気がしたが、誰だったのか思い出せない。

櫻子の表情が一瞬和らぐ。視線が焦点を結ぶ気がして身体の力が一瞬緩む。

咄嗟に彩は櫻子の足を払い、怪我をしないように抱き上げる。

これで腕の中から逃げない限り、ヌメヌメ蛇には近づかないはず。

さっと後ろに距離を取り、ゆっくり櫻子をアルマの隣に下ろす。

櫻子は糸が切れた人形のように動かないで、どうやら大人しくしてくれている。


「風城さん達をどうした?…一昨日、ここに兄妹が来ただろう。」


彩はアルマを背に庇う位置を取りながら蛇神を睨む。


「あのモノたちは夢の中で月が満ちるのを待っておる。二人仲良く…な。

お前達も逝くが良い。」


蛇神がニマッと笑うと口の中で真っ赤な舌がシュルルと踊った。

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