第八章 斯くして妖は微笑む
コンコン。
沈黙を破ったのはどちらでもなく、ドアをノックする音だった。
アルマは何となく救われた思いで彩が開けるドアを見た。
「鈴宮くん、お休みのとこ、ゴメンね。」
「いや、どうしたの?あ、まあ、入って。」
「あ、アルマちゃん。こんにちは。」
櫻子ににこやかに手を振って応える。
何となく話が途切れて助かった思いのアルマだったので、櫻子がちょっと天使に見えた。
天使族は気位が高くて付き合い難いが人間にとっては神の御使いにして、救いの使徒らしいので、人間界では正しい使い方なはずだ。
「鈴宮くん、剣道部の風城先輩と楓ちゃん知らない?」
突然の質問に?マークを頭上に並べて彩は首を傾げる。
はらりと前髪が額に落ちる。
「昨日、一年生は例年の通りハイキングだったのだけれど3年生の風城先輩も有志のガイドでついて行ったのよ。」
アルマの隣に腰を下ろした櫻子が話を続ける。
「一年生の楓さんが悲恋湖での昼食の時に姿が見えなくなって、お兄さんが探しに行ったのだけれど、二人共戻らなくって。」
「それと風城先輩とどんな関係が?」
「ん?」
話の噛み合わない彩と櫻子は顔を見合わせる。
「風城啓太さんは風城楓さんのお兄さんよ?」
アルマがポツリと解説する。
因みに情報ソースは由乃である。
食堂で料理の合間に孫に話しかける由乃は生徒たちと少しでも仲良くなれるようにアルマに色々な事を話していた。
彼は陸上で県大会に出たとか、彼女は茶道の家元の孫娘で免許持ちだとか、はたまた、あの子はインゲンが嫌いだとかの、ぷちチェックまで入ったりする。
由乃の情報網も捨てたものではない。
今、初めて役に立った気もするが、人生(鬼生)何がどこで役に立つか分からないものである。
「え!?あの二人って兄妹だったの!?」
「って!?知らなかったの!?」
別々の意味で驚きながら二人はまたまた顔を見合わせる。
「似てなかったような…気もするけど。」
余り女子の顔を覚えていない彩としては、ぼんやりとした印象しかない。
「あの二人は異母兄妹なのよ。お父様が再婚されたらしいわ。」
小学生の容姿からシュールな内容が淡々と解説される。
霊魔界では種族によって様々だが、明確な一夫一婦制を取っている訳ではない。
吸血鬼族で言えば、(特に自分の家では)夫婦間の関係から一夫多妻は有り得ないだろうなあ、とボンヤリ考えるアルマだあった。
お父様が違う女性とも契約したなんて聞いたらお母様はお城を吹っ飛ばしかねないわね。
思わず見渡す限りの荒野に一人佇む自分の姿を想像して身震いしてしまう。
(お父様が賢明であられる事を信じるわ。)
人知れず父親の無事を心配しつつ、アルマは二人の会話に意識を戻す。
「風城先輩は姿が見えなくなった妹の楓さんを探すために、昼食休憩を抜け出したわけ。
お昼時だったし、少し離れたんだろうという事で引率の先生達も気に留めなかったみたい。」
「でも、戻って来なかった訳?」
「少し迷っても、自分は三年も通っているから二人で帰れるから気にしないで帰寮して構わないって風城先輩が言われたみたい…で、今朝になっても戻ってなかったの。
今、先生達は大騒ぎよ。」
(昨夜の時点で、何で確認してないんだろうか?)
確認が早ければもっと捜索も早かったかもしれないのに。
彩の尤もな疑問はすぐに櫻子が答えてくれた。
「夕方の時点で寮に電話があって『楓さんとは合流できたので心配しないで』と風城先輩から連絡があったみたいなの。」
「でも、実際には帰ってない…何かあったんだろうか?」
「そうなんでしょうけどね。風城先輩と鈴宮君って親しいでしよ?だから、何か知ってるかなぁって、思って聞きに来たの。」
櫻子の説明は一先ず一巡する。
さりとて、彩にも心当たりはなかった。
「まぁ、親しいというか…一方的に剣道部へ誘われているだけだけど。昨日の話は特に何も聞いてないけど。どうしたものかな?」
「うーん、私達で探すっていうのも難しいしね。」
「電話してきたなら、携帯は繋がるんじゃないのかな?」
「何度かけても圏外なのよ。」
まぁ、バッテリーも限界があるだろうし。だからこそ、騒いでいるんだろうし。
「鷹司さんとしてはどうしたいの?」
「まぁ、その。不謹慎かもしれないけど、このまま行方不明なんてことになると3年前の大事件の二の舞になっちゃうじゃない?
だから、『陰陽術&ミステリー研究会』を復活させて解決をさせたいなぁって思ってる。
元々、この研究会は前回の疾走事件を期に結成されたそうだから、事件を解決するのは研究会の悲願というか、目標なのよ。」
ん?何かがひっかかかる。
「いつから、僕は研究会のメンバーになったのかな?覚えはないけど!?」
「そんな事もあろうかと…。」
櫻子はスカートのポケットから白い紙を取り出す。
「ココに名前書いて。入会届だから。」
「…いやいや、入らないよ。サークルとか面倒だし。」
「今回の活動の名目だけだから、気にしないで。それとも、風城先輩の事はどうでもいいのかしら?」
やけに自信たっぷりにA4の申請書をふにふにと目の前に付き出す。
なんとも用意周到なことだ。
研究会会長の所にはしっかり自分の名前がすでに書き込まれている。
色々追加の質問をしようと思ったが櫻子の眼力で反論の気が失せてしまう。
きっと、何を言っても全ての答えが用意されているようだ。
はぁ。
ため息一つで、ボールペンを取り出す。消えるやつで書こうとも思ったが、櫻子を信じていないようで嫌だったのでそのまま、さらさらと名前を書く。なんだか、色々騙されている気もするが…。
「鷹司家は元々陰陽師の家系だから、こういうミステリーというか妖かしの類いが関係しそうな話には、私としても敏感なの…兄もまぁ、神主みたいな仕事してるしね。」
「面白そうね。オブザーバーだけど、私も参加させてもらうわ。櫻子お姉さんは先生達から最新情報を聞き出して貰っても良いかしら?私と彩はお祖母様にもう一度お話を伺ってくるわ。ココで合流しましょう。」
「分かったわ、また後でね♪」
かなりご機嫌な様子で彩から申請用紙を奪い取ると、部屋から出て行った。
何だかちょっと不謹慎な気もするが…。
アルマは彩を連れて、寮監室へ降りていく。食堂の仕事が一段落した由乃は入り口の寮監室でテレビでも見ているはずだ。
「お祖母様、アルマです。ちょっとお時間宜しいでしょうか?」
ドアの前でノックと共に伝える。
いきなりドアを開けないこういう所は躾が行き届いた淑女を思わせる。
きっちりと体の前に両手を重ねている。その振る舞いはドレスを着ているかのように見え、優美に見える。
由乃から入室を進める声がして、アルマと彩は部屋に入った。
手前の受付室の奥には簡易な畳部屋の休憩室があり、由乃はそこで読書をしていた。
「あら?鈴宮さんもご一緒なのね。いつも、アルマに優しくして下さって有難うね。」
「あ、いえ。」
彩は曖昧に頷き、アルマがこれから何をしようとしているのかに思いを巡らせる。
由乃に聞いても余り有用な新情報が出てくるとは思えないのだが。
「お祖母様、昨日風城さんからの電話を受けた時の状況についてお伺いしたいのです。」
「あぁ、心配よね〜。早く見つかると良いのだけれど。」
「えぇ、そうですよね。」
突然、アルマの指が彩の手に触れる。
「よく、思い出して頂きたいのです。その時、何を聞いたのか…。」
「え、えぇ…。」
由乃の声のトーンが明らかに落ちるのと、彩の頭の中にイメージが浮かんできた。
周りの音が消え、すべての動きがスローモーションになった。
目の前に観えているのはそれはまさに由乃が、受話器を持ち上げる瞬間だった。
ドラマのワンシーンを抜き出したような光景がテレビ画面を見ているかのように展開される。
これはアルマのいう魔術なのだろう。
不思議と悲鳴を上げるほど慌てずにいられている。いや、反応できていないだけだろうか?
由乃の目は虚空に焦点があっているようで、その瞳は誰も見ていない。
しかし、何かするならするで事前の説明は欲しいところだ。
『はい、こちらは学院寮受付です。』
『風城…啓太…です。』
由乃が聞いたであろう風城先輩の声まで自分の耳で直接聞いているかのように鮮明だ。
鮮明なだけに違和感を感じる。
風城先輩の声に抑揚がない。まるで何かの台詞を棒読みしているかのようだ。
それに…。
『楓は、見つかり、ました。
大丈夫だと、伝えて、くださいぃ…二人で帰ります…。』
微かに木霊しているようだ。
どこかの洞窟にいるのだろうか?
なんだろう、何か別音が混じっていないだろうか?
電話が途切れる。
テレビの電源が切れるかのように景色が戻る。
「有難う御座います、お祖母様。」
アルマの指が彩の手から離れた瞬間、周りの音が大きくなる。
彩は目をぱちぱちさせて胡散臭そうに周りを見回す。
先程の映像は綺麗さっぱり消えていた。人の記憶を五感と共に再生する魔術なのだろうか?
興味深い…後で教えて貰おうかな。
「アルマ、探偵さんの真似事を始めたの?鈴宮さんにご迷惑かけちゃだめですよ。
鈴宮さん、困ったら遠慮なく叱ってくださいね。」
「ちょっと、聞いてきてって言われただけだから、心配しないで。」
アルマはにっこり微笑み、彩の背中を押して、部屋を後にした。
「ふぅ。…思ったより魔力を使ったわね。まずは部屋に戻りましょう。」
自分の部屋かのように彩の部屋に戻るとアルマはベッドにパタンとうつ伏せに倒れ込む。
彩はもはや定位置となった学習机の椅子に座る。時計を見るとすでに三十分位の時間が過ぎている。一階に行って、一言二言会話して帰ってきただけなのに、随分思ったより時間が経っている。
「今、見てきたのは深層心理まで降りて、五感情報まで引き上げる魔術なの。感受性が強ければ電話の向こう側にも視野が広げることもできるけど、お祖母様は魔力のない方だから、難しいかな。
私の指を通して彩にも同じ情報を渡していたから分かるわよね?
情報量にもよるけど、実際に聞いた時間よりも長い時間がかかっているはずよ。」
「うん、三十分も経ってるね。だから、そんなに疲れているの?」
「あの術式は効率が悪いからあんまり好きじゃないんだけど、『腹が減ったら戦はできない』ってやつね。」
「…?」
「何よ?」
「『背に腹は代えられない?』って言いたいのかな?」
「細かい事は気にしない!」
ぐぐもったアルマの声は彩のベッドに消えていく。
他人の記憶を本人が意識していない五感情報までをすくい上げて、再生する魔術で、言うなればデータをサーバーからダウンロードしてきて、クライアント側で再生する映像ファイルのようなものである。映像以外の五感情報も含まれているのだが。
再生の高画質、高音質度合いはクライアント側の性能に依存する。
勿論、この場合はアルマであり、彩の術式解読能力によると言うものだ。
実は由乃の情報をほぼリアルタイムで観終えていたアルマは初めてのイメージ再生で時間を要している彩の横顔をずっと真横で眺めていたのだが、細かな説明はすっ飛ばす。
何だかその時の表情やら、状況の事細かな説明を求められても困るのは間違いないからだ。
ぼーっと、彩の顔を見つめている自分を自覚した時には赤面して、無性に引っ叩きたくなったが、ぐっとこらえた。そんな危機を人知れず回避していた彩である。
「で、彩はどう思った?あの電話。」
アルマは頭だけを動かして横を向く。
声はクリアになったが、目を閉じた表情は少し苦しそうにも見える。
赤面した自分を思い出し、また顔を赤くしている事を悟られないための行為には見えない。
見えないと良いなあ、と思うアルマであった。
「声は確かに風城先輩の声だったけど、自分の意志がないか、言わされているような感じだったね。
後は声が反響していたから、洞窟みたいな所に居るのかもしれないね。」
「そうね。」
その瞬間、彩の頭の中に湖畔を少し遠くに見る洞窟の映像がフラッシュバックする。
何かのイメージ連想だろうか?
洞窟、悲恋湖のイメージで脳が勝手に想像してしまう類の虚構。
「何か見えた?」
いつの間にかアルマはベッドの端に腰掛けてこちらを見ていた。
また、勝手に時間が進んでいるんだろうか?
目が小学生とは思えない妖艶さを漂わせている。
「いや、何も。」
わざわざ、キーワードから連想される合成されたイメージの話で混乱させる事もないと思った彩は何事もないかのように首を横に振る。
「…そう。
それにしても初めてだったのによく平気ね?普通は目眩とかあるみたいだけどね。
それにしてもあれだけの情報ではどうして帰って来れないのか分からないわね。」
「帰れないのか?、もしくは帰りたくないのか?だけどね。」
誰かいるのだろうか?
自分以外の魔族が…もしかしたら旧神の一族が。人間を自らの糧としているなら旧神である可能性も高い。
だが、こちらに来てからそんな気配を感じた事はない。自分の魔力が弱くなって「領域」の感覚が狂っているのだろうか?
実害が無いほどの小物か?、はたまた狡猾な大物なのか?
いずれにしてもココを去る前には、吸血鬼族として一度現地を見に行かなくてはならないだろう。
コンコン。
アルマが本気で心配し始めた時に、ドアが鳴り、そこへ櫻子がそっと顔を覗かせる。彼女が戻って来るだろうとドアを開けて鍵をかけたので、誰か来たら入れるように少し隙間を開いていた。
「あ〜、やっと帰ってきたのね。随分時間がかかったのね。」
「ごめん、少し話し込んでたからね。」
先に用事を済ませた櫻子は一度部屋に来ていたようだ。
正確な説明はできないので、彩はかなり説明を省略して謝る。
「先生達は湖に行く方と麓の町に行って探すのと、二手に分かれるみたい。そっちは?」
「こっちは電話を受けた由乃さんに話を聞いてきた。楓さんの声は聞こえず、風城先輩の声だけだったみたいだね。それも、少し生気がないような感じだった…みたいだ。」
自分が聞いたままを伝えたが、慌てて由乃が話した風に装い、情報を伝える。
「昨日の夕方までは無事だったってことね。」
「案外、夜に戻って来てて今朝に町に兄妹で買い物に行ってるとかなのかもしれないね。」
「だと、いいのだけれど。ガードキーでのエントランス記録はなかったの。
明日の朝まで戻らなければ、警察に連絡して捜索隊を出して貰うようよ。」
「まあ、裏口から入ってしまえば記録はつかないし、何とも言えないよね。
見つかると良いのだけれど…捜索隊には有志の生徒も加われるのかい?
そうなったら僕も行きたいんだけどね…ま、ダメでも行くけど。」
「それは聞いてみないと何とも…。」
「彩が行くなら、私も行くわ。お弁当作って一緒に行きましょ♪」
「遊びに行くんじゃないんだよ?」
何故、彩はカードキーを使う以外の入寮方法を知っているのかを櫻子は問い詰めようとしたが、彩の言葉でタイミングを逃す。
少し不謹慎な方向に話が転がるので、窘める。
「あら?『腹が減っては戦はできない』のよ?」
今度はキチンと正しい使い方でアルマは自慢げに胸を張った。
それから三人は櫻子が持ってきた周辺の地図を見ながらしばらくの間、探すならココと指差しながら、知っている場所の情景をアルマに説明していた。
見つけ難そうな場所や休憩するならココといった場所を推測して、明日に備える。
結論的には『陰陽術&ミステリー研究会』としては明日朝までは待機する方向でまとまり、そのまま解散となった。
なんのかんのと言っても、『無事だという連絡があった』のだ。
無事で帰ってくるのはずなのに大袈裟に事を荒立てても二人に迷惑が掛かるのではと楽観的に考えてのことだった。
『まだ、ここが緋の村と呼ばれていた頃、水瓶は山の中ほどに点在していた池であった。
それを中間地点にあった天然の窪みを利用して、一つにまとめるように江戸時代に治水工事を行って以降は水源が安定した。
水源の名前を緋漣の泉と村の名前を入れて名付けた。
水源の安定で米の収穫量も上がり、村は栄えた。』
とある。
午後の日差しが少し傾いて来ると、少しだけ眠気を誘うが彩は図書室の特等席…リクライニングチェアで郷土資料の村史を読んでいた。
自習用に休みの日でも図書室が開いているのが、学校の良いところである。
開いているというよりも利用者、主に彩が職員室から鍵を借りて開け閉めしているのだが。
『水底に沈んだ窪みは白い大蛇の住処であった。住処を追われた大蛇は度々嵐を引き起こし、洪水を引き起こした。』とある。
無理な治水工事で嵐の度に氾濫を起こしたという事なのだろう。
伝承の類いでは自然災害を何かの祟りなどという事は多い。
村人は湖畔に社を立てて白蛇の怒りを鎮めたという。
しばらくは村人のうち、一人を生贄として差し出していたという記述もあった。これも形式的なものだとは思うが…。
社に祀られた白蛇は次第に村人の信仰を集め、『蛇神様』として広まったようだ。
櫻子の話の通り、信仰心が厚ければ願いが叶うという言い伝えから、願掛けする村人も数多くいたらしい。
日本昔話に出てくるような美談として、櫻子の言っていた逸話も村史の中には記載されていた。
曰く、泉の主である蛇神様にお願いすると、『お互いの最も大切なもの』と引き換えに願いが叶うというもの。
恋人同士はお互いが最も大切であったので差し出せなかったが、蛇神様は二人を祝福し、来世で結ばれたとの事だ。めでたし、めでたし。
しかし、来世で結ばれたかどうかなど、どうやって確認したのだろうか?お伽噺に検証などを求めてはいけないのかもしれないが。
彩は胡乱な目でページを捲る。
目に飛び込んで来たのは、緑色の顔料で輪郭を縁取られた白い女性の姿であった。ほっそりした上半身は裸であるが長い白髪が腰の長さまであり、肌を隠している。腰から下の下半身は蛇のそれで全身はヌメヌメとしているように見える。江戸時代に書かれた挿絵の写本との事だが写す時に、随分と想像力を働かせているのだと思う。
白蛇の女性が彩を悲しげに見つめている。今にも蛇特有の細長い舌がシュルシュルと音を立てて、出て来そうである。
村史は近代に入り、高速道路や鉄道の普及をうたう辺りから蛇神様の話はぱったりと出なくなってきた。
「社…か。」
去年の記憶を引っ張り出そうとするが、湖の辺りの社など記憶になかった。
村史の地図をぱらぱらと捲ると謎は氷塊する。
社の位置はハイキングコースとは湖を挟んで反対側に位置していた。
ハイキングコースは子供でも楽しめるように、少し遠回りだが急峻な尾根を避けるように敷設されている。
町中から少し外れた所にある学院はハイキングコースにも昔の山道にも近かった。山道に至っては学院からの近道で半分くらいの距離まで縮める事ができる。
急峻な山道を行けばハイキングコースの半分以下の時間で社の側へ出るが、今やハイキングコースの方がメインに整備されており、旧山道は山菜取りの近くの町の住民がたまに利用するだけであった。
次のページには古いセピア色の写真に小さな社が写っていた。
ごくごく平凡な木製の格子戸で四方を囲まれ、張り出した屋根が緩やかなカーブを描いて社を雨露から守っている。
人が一人中に入れるかどうかの社だが、中には蛇神様の御神体が祀られているのだろう。
3年前に町役場から補修の手が入っているが基本的には放置されているようだ。
次に行く事があったら、様子だけでも物は試しで見に行ってみよう。
彩はそう思いながら村史を閉じた。
優に百科事典並の分厚さを誇る長編村史を持ち上げた。
周りの景色に茜色を帯びて来ている。
早々に鍵を閉めて返さないと休日担当の教師が見回りに来てしまう。
早く残りの休日を満喫したい教師を思い彩は本を片して図書室の戸締まりをする。
また、明日もここでのんびりするのだから教師の心証は良くしておくに限る。明日から夏期講習の残り4日間が始まる。今日は早めに休むことにしよう。
『お前達はここでは結ばれぬ運命じゃな…運命にあがらいたくば。』
彩の目の前にヌラヌラと濡れぼそった鱗を蠢かせる女性が現れた。
女性と分かるのは上半身の胸の膨らみだが、下半身に足はなく蛇のように細長い胴体が尻尾の方にいくにつれほっそりしていく。
尻尾の先はガラガラヘビのような突起が付いており、時折シャランと乾いた金属音を奏でている。鈴の音のような音は妙に耳心地良い。
彼女の目は瞳がなく全体が翠一色であるが彩には自分をまっすぐ見ていることが分かった。
村史のイラストそっくりである。全身が目と同じ淡い翠色に光っているように見える。
蛇神様だと悟る。
『我もとへ参れ…そなたが想い人と添い遂げさせてやろう…』
シャラン…先程より少し強めに尻尾が音を奏でる。
『そなたの望みを我に告げてみよ…叶わぬものはない…』
彩は自分の体が一歩前に進むのを感じた。自分の意思ではないように動いてしまう。
『楓を返せ!』
自分ではない声が発せられる。
手にしていた1メートルほどの木の棒が青眼に構えられる。
この構え方は…風城先輩だ。
彩は自分がまるで風城先輩の中にいるのを感じた。
息み過ぎず、落ち着いている。しなやかな筋肉から繰り出される高速の突きには毎度苦労させられる。
『あの娘は我の元に下った…望みはそなたじゃ。
結ばれぬ兄を欲して、我の元に参ったのじゃ…可愛い妹の為にそなたも我に下るが良い。』
シャラン。
一瞬、意識が遠のく。
突然、激痛が唇を襲う。目が覚める。
思いっきり唇を噛んだのか、じんじんと痛む。
『返して貰う。』
眉間を狙った高速の突きが繰り出される。一瞬、翠の目が霞む。
右足で踏み込み、左手を離し、右手のみで握るそれは予想を上回るリーチで相手を貫く。
…かに見えた。
木の棒は、しかし虚しく蛇神の右数センチの虚空を貫いたに過ぎなかった。
蛇神の口がパックリと割れて真赤な咥内から細長い舌がチロチロと覗く。
ニンマリ笑ったと言うべきなのだろう。下卑た笑いだった。
声は出ていないが獲物を見つけたハイエナのような、犠牲者を見つけた殺人鬼のような、種族を見下したようなそんな笑み。
絶対強者が見せる傲慢な笑み。
風城は更に踏み込み、右手を引いてクルリと腕を回し、上から遠心力も加えて袈裟がけに蛇神を狙う。
洞窟の地面が抉れる。今度は蛇神の左を薙いでいる。
見た目とは異なる素早い身のこなしに風城も驚きを隠せない。
後ろから風にそよぐ木々のざわめきが聞こえる。洞窟の入り口からそれほど遠くない所にいるようである。
確かに後ろから光が差し込んでいる。
不思議と洞窟内は暗くはなかった。
どういう理屈か洞窟全体が淡く翠に輝いている。
風城が体制を立て直すために距離を取ろうとした瞬間、シャラン!
一際、大きな鈴の音が鼓膜を揺さぶる。意識が遠くなる。
手から木の棒が音を立てて落ちるのが分かった。
そのままへにゃへにゃとしゃがみ込んでしまう。
目は開いているのに知覚できないような白昼夢を見ているかのような感覚である。
蛇神が後ろを振り返り、手招きをすると学院指定の紺色にオレンジのラインの入ったジャージ姿の女子高生…楓が姿を現した。
その目にもやはり生気はない。
『無事の再開じゃな…どれ再開出来たことを連絡するが良い。そして、仲良く旅立つが良い。来世へとな…。』
徐ろに風城がポケットの中から携帯を取り出して電話をかけ始めた。
『はい、こちらは学院寮受付です。』
電話の向こうで由乃の声が聞こえた。
『風城…啓太…です。』
『楓は、見つかり、ました。大丈夫だと、伝えて、くださいぃ…二人で帰ります…。』
楓が風城の胸に顔を埋め、抱きつく。
無表情な風城が楓を虚ろな目で見つめ、携帯の電源を落とした。
プッツリと回線が切れたかのように目の前が暗くなる。
彩は額から瞼に流れ落ちる自分の汗で目を覚ました。すでに白み始めた外からの陽の光が柔らかに射し込んでいる。
彩は今、目の前で見てきた事を思い返していた。昨日読んだ村史のイラストからの連想?
…違う。格闘シーンを連想させるものはなかった。
では、何だ!?
確信めいた勘があれは事実だと伝えている。
もし、間違えていたら、余計な事をしてと笑われて終わりだ。でも、もし事実だったら?
彩は起き上がり、シーツのシワを伸ばしてベッドメイクを終えると机に向かい万一のために手紙を認め始めた。
まだ、辺りは暗いので足元は覚束ない。少しだけなら時間があるはずだ。