第二章 斯くして運命は廻り出す
目が覚めるとあたりは既に暗くなっていた。胸元に本が乗っているのを見て自分が眠ってしまった事を悟る。
あ、晩御飯…。
それほど寝込んでいたわけではないと思うが夕食の時間には、十分遅刻していそうだ。
本を片付けて部屋を出る。
建物の中心にある食堂は幸運にもまだ明かりがついていた。
まだ、夕食が残っていればいいのだが。
女の子が居残ってまだおしゃべりでもしているのだろうか?
そんな中で一人男子が食事をするのも気不味いが背に腹は替えられない。
しかし、食堂にいたのは男女のペア一つだけであった。
剣道部主将の風城先輩と…女子生徒の方は名前までは覚えていない。
二人はこちらを見て、立ち上がる。
蜜月な時間を邪魔してしまったようで彩は軽く会釈をして、出来るだけ視界の外に二人をおいやる。
そっとして置くという彩なりの配慮なのだが、あまり報われているとは言い難い。
「鈴宮、気を遣わせて悪かったな。気にせず、ゆっくり食べて行ってくれ!」
彩を構う数少ない先輩の一人である風城は剣道で鍛え上げた手を軽く上げて、食堂を出て行く。女子生徒が後ろで会釈をして二人は早々に食堂を後にする。
トレイに配膳済みの食事を確保して席に着くと完全にお一人様飯になっていた。早い時間で他に人がいたとしても独りで食べることには代わりはない。
静かな食事が終了する頃に厨房でガタガタと音がなる。
ひょいと寮監兼料理人の由乃さんが顔を覗かせる。
「あら、遅かったんね〜。お勉強がんばってたのね。偉い偉い。」
そう言うとニコニコと由乃さんが何かを差し出す。
よく見ればデザートのプリンだ。
「うちの孫の為に作っておいたの。お裾分けw…みんなには内緒だよ。」
「ありがとうございます。」
素直に受け取る。手作りとは思えないカスタードプリンがふるふる揺れる。
「孫のアルマが寮内をチョロチョロしてたら叱ってあげてね。こっちに来たばかりで好奇心の固まりみたいになってるから。」
ふふふと楽しそうに笑いながら、手際良く彩の食器を片付ける。
まあ、お孫さんというのは目に入れても痛くないって言うし。
由乃さんの頬が緩むのも分かる気もする。どんな子なんだろう。
口ぶりからは小さな子なんだろうけど。
「はい、分かりました。これ、部屋で頂きますね。おやすみなさい。」
食べ終わるまで待っていられても気不味いので食器を片手に早々に退却する。
自室のユニットバスは狭いが二十四時間入れるのであまり時間は気にしない。食堂はそろそろ消灯なはずである。長居をすると由乃さんの仕事が終わらない。部屋に戻り、プリンを食べたら少し本を読み返して今日は休もう。
彩はそう心で独りごちながら、カードキーをあてる。
「アルマ、美味しい?」
やっぱり孫の設定は愛情過多になる傾向があるな。と、思いつつアルマディータはコクリと素直に頷く。
孫らしいニコッと最上級のスマイルも卒なく追加する。
城のシェフにも劣らない腕前だ。
確かに美味しい。滑らかな生地、少し甘さを抑えたカラメルが余計に卵の風味を際立たせる。
今日はもう遅い。この建物の人間も自室に篭っていて、ふらふらと魔力の強そうな人間を探しに出るのも効率が悪そうに思えた。
だいだいこの容姿だ。迷子と間違われる事必至だ。
さて、明日からどう探そうか?
由乃と出会ってから色々な情報は聞き出してはいる。
『コウコウセイ』が『カキコウシュウ』に来ていること。
全員がこの『リョウ』に寝泊まりしている事。
食事はここの食堂で取ること。
全てを理解は出来ていないが、人の集まる所で観察すれば誰の魔力が強いのか分かるだろうか?
空いている時間で由乃にこちらの文化についてもっと情報を得ないと、とてつもなく非常識な事をしてしまいそうで怖い。
例えば、故郷の隣国に住むある種族は拳を軽くぶつけ合うことで挨拶としている。
仲良くなるほど均等な強さでぶつけ合うという。
アルマには理解できない文化もあるのだ
彼らの間では掌を相手に見せる事は服従を意味する。迂闊に握手を求めれば命を差し出すことにもなりかねない。
アルマは毛むくじゃらの種族を連想しながら背景文化の重要性に思いを馳せる。
自分達だって親しくない同族の間合いには入らないように配慮する。最悪の場合、命の危険もあるからだ。
心配するにつけ自分の行動を束縛してしまう。
人間界でどんな習慣、文化が根付いているのか学ぶ必要がある。
うむむむ。
そーだわ、資料庫に行けば良いのかも。暇に任せて読み漁っていればこちらの情報も手に入るし、そこに来る人間も観察が出来るはず。
アルマは思いついた自分のアイディアに拳を握りしめてしまう。
私ってば、天才!
知ってか知らずか 、由乃が頭をニコニコしながら撫でてくる。
既に反射となりつつある天使の笑顔は自分を祖母だと信じて疑わない由乃には絶大な効果を産んでいた。
よし!取り敢えず明日はこっちの資料庫に行ってみよ〜。
寝る前に熱いお風呂にで湯浴みでもして休むことにしましょ!
と独りで着々と明日の予定を決めて、準備を進めるアルマであった。
「ふぁぁ〜。」
自分でもどこから声が出ているのか分からなくなる。
彩は大浴場の湯船に浸かり足を伸ばして身体を弛緩させる。足の指をくぱくぱと広げてみると地面との圧力から解放された足も満足げな心地良さを返してくる。
寮には時間帯別に男女が切り替わる大浴場が完備されていた。天然温泉掛け流しとは行かないが十分な広さのある浴場は部活の合宿などでは重宝されている。洗い場はタイル張りだが、湯船は岩風呂風になっていて風情がある。
自室のユニットバスでも良かったのだが、やっぱり伸び伸び足が伸ばせる方が良い。
高原だけに外の気温が低いのか、湯気が充満していて割りと視界が悪い。
脱衣所のガラス戸越しの明かりがなければ手元も少し暗くて見にくい状態である。
ひとしきり足を伸ばして満足すると彩はタオルを片手に湯船から出る。
筋肉質と言う訳ではないが、十分に引き締まった身体からお湯がサラリと流れる。
手持ちのタオルで身体を拭いているとカラカラと脱衣所のガラス戸が開く音が響いた。
自分以外にも遅風呂の愛好者がいるとは…挨拶をしようと目を凝らしたが随分小柄なシルエットが浮かぶ。
「え?」
「え?!」
和音が重なる。
「不埒者ぉ〜。」
という甲高い声と共に何かの影が飛んでくる。彩はそれを避けようと身体を仰け反らせたが、勢い余って後ろ手に倒れ込む。
「いてて。」と声を漏らすのとガラガラガッシャーンと勢い良くガラス戸が閉められるのはほぼほぼ同時であった。
今日はよくよく頭をぶつける受難の日だ。しかし、一体誰だったのだろう。あの声は女の子には間違いは無いが、湯気越しで良くは分からないが、随分小柄だったような気がする。
一体何が飛んで来たのやら、ノロノロと起き上がりながら何かが飛んでいった湯船の方に目を凝らすと黄色のビニール製のアヒルがプカプカと寂しげに浮かんでいた。
淡い朝日がゆっくりと身体を起こし始める。太陽の光が人を活性化させるのは本当らしい。
カーテンを閉めずに寝る癖のある彩はベットの中で身じろぎする。目覚まし時計のアラームではなく、自然と目が開くのは心地よい目覚めだ。
窓越しに高原の冷気が首筋を撫でていく。布団の中に潜って躱し、安眠を貪ろうとするが、身体とは別に頭が覚醒してゆく。
すぐに起きてしまうのが勿体無い…そんな感覚。このまま本でも読めれば最高なのだけれど。
嚴志郎と暮らしていた時はよく枕元に本をおいていたものだ。
起きがけの時間に本を読むのが密かな楽しみでもあった。当時は声に出して読んでしまうのは何の癖なのだろうと不思議に思っていた。記憶のない頃の習慣だったのだろうか?
最近ではそうした事もなく、しばらく布団の温もりを楽しんでから体を起こす。スウェットにティーシャツのままで顔を洗うと自らに科している朝練に出かける。
板間の武道場は三十畳ほどの広さで、通常は剣道部が使うが、畳を敷き詰めれば柔道部や百人一首大会でも利用出来る。
彩はカードキーで入室すると床の間の神棚に向かって一礼して部屋の中ほどまで進んで正座をする。
持参したスリングバッグの中から白木の刀を取り出す。
虎杖丸…魔を搦め捕る刀という異名を持つと聞くがその効果を感じたことは幸いにもというべきかまだなかった。
刀を自らの前に置き、改めて神棚へ一礼。
刀を持って音もなく立ち上がる。
左手で腰に鞘をあてる。
右足を前に腰を落とす。
右手をゆっくりと柄に添える。
小指からその柄を包み込んでいく。
一連の動作は水が流れるかのように連続して続く。
そして、最後に親指が添えられた瞬間…彩の体が消える。
ビュンと圧縮した空気音が武道場に響いたのは、彩が抜刀した紫色の刀身を前に押し出し三メートルほど前進して静止した直後であった。
十歳の時に音を越える抜刀術を会得したのは早熟と言える。
基本のこの技は「一閃」の型と言い、基本中の基本であり何十万回と繰り返してきている。
八通りの型を会得して、八閃流と言える。
この一の型は彩の身体に染み付いていると言っても良い。
彩は次の型に移ろうとして、ふと刀を鞘に戻す。
「よお!」
気配の方を振り返ると剣道部主将様が両手に竹刀を持って武道場へ入って来るところであった。
屈託のない笑顔で挨拶される。
「おはようございます、風城先輩。」
正面に向き直り、一礼する。
「早いな、鈴宮。」
神棚へ彩がやったのと同じように一礼して、彩に歩み寄る。
「剣道部の方の朝練の前に失礼しようと思ったのですが、お邪魔してしまってすいません。」
人知れず来て、帰るつもりだったのはホントだ。これほど朝練が早いとは。
「俺も朝練の前入りだから気にするな。ところで相変わらずの太刀筋だなー。近くなら見きれないな。」
と言う事は後ろからは見切れたということ…まだまだである。
「そろそろ剣道部に入る気になったか?今からでも、お前なら歓迎するぞ。即戦力だ!」
「自分はまだまだですよ。ところで先輩…。」
もう何回目にもなるお誘いをやんわり断りながら、話を変える。
「昨日は大事なお話を邪魔してしまいましてすいませんでした。」
食堂での事を謝っておく。
「なぁに、気にするな。かえって悪かったな。
俺らもそろそろ進路とか…な。いろいろあって、楓もナーバスになっててな。」
ははは、と乾いた笑いを浮かべ風城も目を逸らす。
どうやら楓さんというのがあの女子生徒の名前のようだ。
「三年生も心配が絶えませんね…では私はそろそろ。」
「まぁな…って、ちょっと付き合っていけ!」
クルリと回れ右して、退散しようとしたがすかさず肩を掴まれる。
稽古なのか、惚気話なのか微妙なところだが…どちらにしても遠慮したい。
にゅ…差し出された竹刀はしかし有無を言わせない。
三十分後、武道場に仰向けに横たわる二人の姿があった。
ゼイゼイと苦しそうに肺に酸素を取り込む。
「こんだけやって、ハァハァ、有効打取れねーか。ハァハァ…鈴宮どんな練習してんだよ。」
「防具なしでやるなんて、ハァハァ。躱すしかないじゃないですか。先輩の痛そうだし。」
「ちゃんと寸止めしてただろう。」
フルコンタクトではないと言っても激しい打ち合いの中で竹刀の当たりどころが悪ければ打撲くらいはしそうだ。
彩は風城の打ち込みを竹刀で反らし、身体捌きで躱していた。
幼い頃から身体に染み込んできた八閃流の賜物である。
「お前の方は、三度は有効打取れてたろう。遠慮するなよ。」
「二度です…機会はありましたが、有効打になっていたかどうか。」
寸止めする自信がなかったので打ち込まなかったとは言わない。
高校生の剣道の残心などは実践的な八閃流になく、寸止めの経験などないのだ。出来る自信はなかった。
昨年の夏も何度も誘われ、付き合っているので慣れているが、去年より格段に打ち込みが強くなっている。
これ以上になると躱すだけでは済まないかもしれないな。
部活が始まる時間というのを理由に早々に逃げる算段を始めた。
熱いシャワー…昨日の反省!?から自室のシャワーにしておいた…が汗と早朝練習の心地良い疲労を押し流したのも束の間、今こうして世界史の授業を受けている。
一限目が数学や英語なら間違いなく図書室へ直行していたパターンである。
チンギス・ハーンの版図拡大の歴史が頭に流れ込む。
色々な地域の信仰も塗りつぶされていく…いやきっと色や形を変えて、言葉を変えてその地域に息づいていたに違いない。
その土地に根付いた人々の生活は強者の理論で脅かされながらも滔々と、強かに続いていたに違いない。
その時その時を一生懸命に、諦めず進み、積み重ねた結果が今に繋がる。
後の勝者が歴史を歪めて後世に伝えても息づいているものが確かにあるのだ。
などと、教科書の行間に思いを馳せているとあっという間に授業時間は終わってしまった。
次の授業のカリキュラムを思い出しながら、鷹司副会長の目を逸らす方法を思い巡らす。
英語の授業は文法やら、時制やらとおよそ興味の唆られない内容が多く彩としては想像力を必要としない分野=図書室で自習の教科であった。
特段苦手とか、言うわけではない。
彩の特技として一度目にした事は大抵覚えてしまうというものがある。
新しい知識を貪欲に吸い込むスポンジのように自分のものにしてしまう。
意識せずとも一度読んだ教科書や一度やった過去問題を覚えている事はもちろん、そこから派生する応用問題もこなしてしまう。
カンニングを疑われる程の能力と言える。
櫻子が突っかかるのも頷けるというものである。
自分の努力が彩を上回っている事は間違いないと自負するのに、点数がそれに追いついていない。
櫻子は部活も生徒会活動も手を抜いてはいない。勉学もいわんやである。
独自の勉強法があるかと探りに来てみれば、図書室でほけっと寝ている彩を見つけてしまい、イラッと来るのも頷ける。
因みに歴史の自由記述のテストでは毎度教師との間で議論が尽きない論争が応酬されるのはクラスでは慣れっ子になるほどだが…。教師の方もそんな論議を楽しんでいるのか、最近では記述式の設問が多くなっている気がする。
そんな憤懣遣る方無い櫻子の悶々とした気持ちなど知る由もなく、彩はそそくさと教室を後にする。
昨日の本を手に取り、特等席に行く。
ポケットには自分の机から取ってきたキャンディがしっかりおやつとして入っている。午前一つ、午後一つ。
特等席は相変わらず爽やかな風がたおやかに吹き抜けていた。
今日も居心地が良さそうだ。
と…そこには先客がいた。
金髪の髪の少女が辞書や百科事典を積み上げて…スヤスヤと寝ている。
青いワンピースと同じ色で頭の上で大きなリボンが寝息と共に微かに上下している。襟元の白いフリルが可愛らしさと共に稚さを強調している。
どこの子だろうか?
やっぱりここは居心地が良いのだ。
うんうん、と独り納得していると、パチリと目が開く。
彩の気配で起きてしまったようだ。
ヘーゼルの瞳を長い睫毛がぱちぱちと瞬きで隠し、彩を見つめる。
「…寝てないわ。」
あどけなさの残る少女の声は、何処となく居丈高で、何処となく儚げだった。
「…え?」
彩の頭の中で二周ほど彼女の声がくるりんと回る。脈絡が全く分からない。
「…ちょっと頭を整理してただけ。」
頬を少し赤らめながら、背筋をピンッと反らすように体を起こす。
今にも口を尖らせそうな口調に彩の頬が緩む。
「随分、難しいのを読んでるんだね。」
彼女が照れ隠しに言い訳をしているのだと判断して論軸を変えて切り返す。
難しいお年頃かもしれない。
ちらりと百科事典に目を落とす。
「そうでもないわ。大体は知っていることばかりよ。」
そう言った少女の顔は何かを促すように彩の瞳の奥を覗き込む。
「あー、僕はスズミヤ。スズミヤ サイ。君のお名前は?」
「アルマ…よ。」
金髪少女アルマはおもむろに右手の甲を彩に突き出した。
珍しい握手だと思いながら、彩は右手で握り返す。
「宜しくね、アルマちゃん。確か由乃さんのとこのお孫さんなんだよね?」
彩は昨夜由乃さんに言われたお孫さんの事を思い出した。
何故か目を丸くして焦っているアルマに彩はにこやかに笑いかける。
「あれ、間違ってたかしら?最初の挨拶は膝づいて…ブツブツ…あれ?。」
手を離そうとした彩の手をアルマがギュっと握り返してくる。
先程まで読み漁っていた百科事典には『男性は女性への挨拶としては膝まづいて手の甲に軽く口づけをする』と書いてあったはずなのに。しかも油絵の見本付きで書いていたのに。
絵画によっては足の甲に口づけしているのも目にしたが、あんまりだろうと手にしておいたのだが、何か見落としているだろうか?
結婚前はしないのかな?年齢?
この人が変なの?
軽いカルチャーショックに頭をパニクらせながら、アルマは目の前の人物を見ていた。
…とくん、とくん。
何故か心臓が早鐘を打つ。
温かな手の平からアルマの心臓の鼓動に合わせて、波動が流れ込んでくる。
これはなに?!
思わず握られている手の力が緩まった時に離したくなくてギュっと握り返してしまった。
何だか顔が、熱い。
恥ずかしくなって、すぐに手を離す。
流れ込む温かな波動も合わせて消えたのだが、アルマとしては挨拶の方法を間違えてしまった事と相まって内心オロオロしていた。
ますます心臓の鼓動が自己主張してくる。
彩の質問には適当に応えつつ、目の前に積まれた読破したはずの「百科事典(中世の生活様式)」を凝視する。
少しずつ挨拶の仕方が変わっているのかもしれない。
もしくはココは田舎で都会に行くと違うとか。
悶々と考えつつ読んできた内容はキチンと記憶している事を再確認する。
取り敢えず、この本は要らないわ。
アルマはもう一つ学んだ事を実践しみることにした。
「サイお兄ちゃん!本を片付けるの、手伝って!」
「男子は『お兄ちゃん』と呼ばれると大抵の事は言う事を聞いてくれる」と 最後に手に取った別の雑誌に書いてあった。最後に二パッと笑って首を傾げるところがポイントらしい。
「構わないよ。」
頭をポンポンと叩くと彩はいくつかの本を手に取ると書棚に向かっていく。
よし!成功!
ここの中で小さくガッツポーズをして実践がうまく行ったことを喜ぶ。
もう少し観察すべく本を二〜三冊抱えて彩の後を追う。
書棚に丁寧に本を並べる彩に近づくと彩がすぐに本を引き取ってくれる。
なかなか上手く行っている…と思う。
上手く操ってるじゃない、私。
先程のカルチャーショックから少しずつ立ち直り、アルマは「笑顔」と「お兄ちゃん」というキーワードを心の人間把握のためのアルマ辞書に刻みつける。
この雑誌は表紙に写っていた最新スイーツの写真に惹かれて手に取ったのだが、なかなか使える。全ての本を片付けて、最後の一冊となった雑誌を自分で書棚に戻しながら改めて眺める。
「最新スイーツ」特集らしいが、副題の「甘々必殺テク」の意味はいまいち分からないままだ。
同じ雑誌の周辺二〜三冊を改めて手に取る。
「有り難う。」
「お疲れ様…はい、どうぞ。」
全ての本が書棚に戻り、アルマがお礼を言うのと彩が、綺麗な飴玉を差し出すのはほぼ同時だった。
口の前に出されて、思わずパクッと口に入れてしまう。
ちょっとはしたなかったかな?と反省しつつ、口の中に広がる爽やかな甘さに驚いていた。
甘い。
でも、後に残らない。爽やかな甘さ。
城で出されるスウィーツも美味しいのだが、これに比べると甘さ重視でもっとモサモサして重いのだ。
こんな軽やかな甘み、爽快な甘みという感覚はない。
人間界恐るべし!
勝手に田舎な印象を持っていたアルマは思ったより洗練された人間界の食文化に印象を改める。
「ハイは、にゃに、ひへるの?」(彩は、何してるの?)
元のソファに戻ってその場所は私のものだと言わんばかりに腰掛けた。
両手に雑誌を抱えているので、飴玉を口から出すわけにもいかず、そのまま聞く。白いプラスチックの柄がくるくる円を描く。
「中世における吸血鬼の歴史を見てみようかなって思ってる。」
「ぶっ!!」
思わず飴を吹き出しそうになるのを乙女のプライドにかけて押しとどめて、目の前のに青年をマジマジと見つめる。
慌てて手に持っている雑誌を脇に置いて飴を口の中から取り出す。
オレンジと黄色の螺旋模様が綺麗に交差したそれはテカテカと光りながらアルマの口に戻りたそうに身震いする。
どこまで知っているの?
違う?単なる偶然?
「ごめんごめん。大丈夫?…いきなり吸血鬼って言っても驚くよね?
歴史の表に出てこない伝承や伝奇っていうのは、その裏側には色々書かれてない真実があると思うんだ。そう言うのに興味があってね。」
「ふ、ふーん。そうなんだ。…珍しいものに興味があるのね?」
「まぁ、そうかな?自分ではそうでもないとは思ってるけど。」
彩は屈託なくカラカラと笑う。
何だかホンワカする人ね。
アルマの第一印象がお日様のイメージを作り上げる。
「吸血鬼って、あれでしょ?…大蒜と十字架が嫌いで、人の血がご飯なんでしょ?後は夜更かしだから、朝が苦手な低血圧な種族?…それは私だけかしら。」
先程読んだ百科事典の記事を思い出しつつ話を合わせる。
「そうだね。昔、ヨーロッパではキリスト教会が信仰の象徴だったけど黒死病っていう病気の蔓延なんかで、みんなが心配になっている時に限って、吸血鬼や魔女のような神に対抗するような存在が取り沙汰されるんだ。」
「心が乱れる時にすがるものがあれば、藁にもすがってしまうから…旧神達の信仰心の煽り方はいやらしいものね。」
後半は口の中で消えて、彩には聞こえなかったが、アルマは自分達血族の歴史を振り返る。余り高名を馳せているとは言い難い。自分達の悪名という意味では割を食っている。
「確かに辛い時は何かに頼りたくなるからね…ところでお勉強だったの?
夏休みの宿題とか?」
「まぁ、宿題と言えば宿題かな…いろんな意味で。」
「ふーん。じゃ、あんまり邪魔しちゃいけないね。僕は、向こうで読んでるから何かあったら声をかけてね。」
少し離れた机を指差し、彩は片手を上げて離れていく。
彩は読みかけだったのか、手早くいくつかの本を手に取って読み始めてしまう。
アルマは自分も雑誌を広げながらちらちらと彩を観察する。先程はあたふたしてロクに観ることは出来なかったが、こうして観ているとなかなか面白い魔力の出方をしている。
祖母代わりの由乃からは殆ど魔力を感じることは出来なかった。
彩からは隙間から溢れ出て来るように、量は少ないが濃密な魔力が立ち上っているのを感じる事ができる。
かと、言ってその濃密さに比例すべき魔力量はそれほど感じられないのだ。
良質希少な魔力といったところか。
幸い先は良さそうだ。
アルマは貴族の成人式とも言うべき、ある契約をする為にここにいる。
忌々しい…アルマは本来の目的を思い出し、奥歯を噛みしめる。
思わず、口の中の飴玉を噛み砕いてしまった。思いの外、音が響く。
その音にふと目を上げた彩と目が合う。
反射的に愛想笑いと共に手を振ってしまう。彩もにっこりと手を振り返してくれる。
なんとなくどこかで見た記憶もあるのだが、はっきりしない。
まさか、お風呂場事件の人じゃないでしょうね?
何だか急な恥ずかしくって雑誌に目を落とす。
(あれは事故、そう不幸な事故よ。)
心の中で密かに黒歴史を消し去る。
パラパラと雑誌のページをめくり、情報を頭に入れる。
今朝の何冊かの辞書の読破で、こちらの言葉に関しては理解した。不安が残るもののこちらの文化や習慣なども百科事典と言うもので情報を仕入れた。
先程の彩の態度から、最新版ではないようなので補正が必要だけれども。
今、読んでいるのは「お兄ちゃん作戦」を推奨していた成功実績のある貴重な資料だ。
『ハイティーン』という名前がターゲット客層を示しているなら十代後半の話題、今まさに必要な情報があるに違いない。
味は想像出来ないがスウィーツの写真がところ狭しと並んでいる。
昨日、由乃が作ってくれたプリンもなかなかだったけど、こっちにいる間に遊びに行ってみようかな。
結局、雑誌と彩に視線を交互させてしまい、アルマは余り集中出来ないうちに昼休みの鐘を聞いた。