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 アルバイトが終わり、澤村は人通りが多く、街灯の多い道を使って自宅へと向かった。そして自分の家の近くまで来た時、ふと、家から漏れる灯りが、澤村に奇妙な感覚をもたらせた。懐かしさの情を喚起させる物ではなく、まだ見ぬ未知の物に対しての罪悪と違和を感じさせる物だった。自分にとって戻る場所ではない、澤村にはそう思えてしまった。


 あの家に戻ればきっと、シキが待ってくれているのだろう。しかしどうしてだか、あれを遠ざけておかなければいけない物のような気がした。シキとの生活は確かに楽しい物だった。しかし自分はシキとの距離を近づける事を怖がっていた。異性として意識するのを避けるように努めている。


 澤村は近くの公園で時間を潰した。それは公園とは名ばかりの、枠で囲っただけの場所だった。電灯があり、いつも明るく、人の目がある場所だった。そこで澤村は物心ついた頃から遊んでいた。中学に入る頃にはこの聖域を使わなくなっていた気がする。その場所は落ち着きの世界にあった。澤村は自販機で飲み物を買った。


 ふと彼はそこで、ここ数日、自分が孤島の事を考える事がなかった事に気がついた。






 孤島について思う事は多くあった。例えば、せっかくたどり着いた先が、自分の予想していた孤島と違ったとしたら。その孤島が今の生活とまったく変わらない物だとしたら、あるいは、その孤島が自分の求めている物とあまりにもかけ離れているせいで、自分に与えるものがまったくなかったとしたら。そこにたどり着いた時、それが汚い世界でしかなかった場合、どうすればいいのか。


 そしてまたこういう疑問を挟むことも出来る。たとえ人生が楽しくても楽しくなくても、孤島にはたどり着けるのかもしれない。あるいはその逆で、どちらにしても孤島にはたどり着けないのかもしれない。所詮意識というものが脳の化学的反応でしかない以上、死という物を迎えてしまえばその先に向かうところが無でしかないのであるという見方をとれば、どれだけ模範的な人間も、殺人犯も、そして幸福な一生を送った者も、すべては同じでしかないのだ。


 細かく見れば見るほど疑問を挟まざるを得なくなり、孤島にはヒビが入っていく。


 最初からおかしな物を澤村は信望してしまっている、と澤村は自覚している。しかしそれを認める事は彼にとって今までの自分を否定する事と同じだった。塔が崩壊してしまっては、もう二度と立てないような気がした。彼は塔を作る事に必死で、他の誰かが何を営んできたかを知らないでいた。他の人間が持っているはずのものを、彼は持っていないのだ。それなのに、彼が作っている物が、まったくの間違った方法で作られたまったくの間違ったものだとしたら?


 もう遅いのだ、俺はこの塔の建設を続けることしか出来ない。その傾いた塔を。それ以外を作るレシピからすべて目を背けているのだ。塔の頂上で、無限に出てくる思想の材料で高く築き続けている。地上に降りていくことが出来ない。一人ぼっちで作り続ける傾き続ける塔。降りることももう出来ない。ただ天空に届けばすべてが報われる。そう思っている。逆に言えば、彼は自分の孤島にいかなければ、意味がないのだ。






「どうして電気を消して眠らないんですか?」


 ある夜、シキは尋ねた。それは単純な疑問のようだった。シキは澤村が眠る時に電気を消さないことを以前から不思議そうにしていた。しかしその理由を尋ねてくるのは始めてだった。一体何がトリガーとなり、彼女がその疑問を口にしたのかわからない。風呂に入った後、いざ眠るという時になっていたから、シキはふとその質問をしたくなったのかもしれない。しかしとにかく、シキは澤村にその理由を尋ねてきたのだ。


「情けない話かもしれないけど、暗いのが怖いんだよ」と澤村は苦笑しながら言った。


「怖いって、どういうことなんですか?」とシキは聞く。


「難しいな。……多分最初のきっかけは、何かが出てきそうな気がしたからだと思う。暗くて、何も見えないところに、何かがいるような気がしたんだ。それはじっと息を殺して、そこにいる。何をするわけでもないだろうけど、でも、俺はそこに何かがいるかもしれない、というのを思うと怖かった。それが最初の原因だったと思う」


「最初の原因、いつからなんですか?」


「結構最近かな。君に、金属バットで襲われた日からだよ」


「あ……」とシキは目を伏せた。「ごめんなさい」


「こっちこそごめん、でも、こんな風に言ったのは、あまり気にしないで欲しいからなんだ」と澤村は言った。「確かに最初はそうだった。でも今はそれとはまた違う意味で怖いんだ。俺は今まで暗闇を大した物じゃないと思ってた、だけど俺はそれが間違いだったってことに、あの時気づかされただけなんだと思う。あれはきっかけに過ぎなかった。遅かれ早かれ、暗闇は俺にとって驚異になってたんだと思う。暗闇の中にいると、暗闇が少しづつ俺を飲み込んでいくような気がする。何もないような中に取り込まれていく事が、俺は怖いんだ。その時の俺はどこにいるんだろうって、すべてが暗闇に飲み込まれてしまって、俺がいなくなる事。俺はそれが耐えられないんだ」


 少し考えてから、シキは返した。グラスを手にとって。


「でも澤村さん、私がこんなことを言うのもなんなんですけど、夜は生きていく中では絶対に避けては通れない道だと思うんですよ。澤村さんは今、過剰反応をしているんだと思います。誰だって暗闇は怖い」


「多分そうだと思う。一種の恐怖症のような物に陥っているのかもしれない。それは本来誰もが持っていることで、それが俺の場合、顕著に現れてしまったってことなんだろうけど。でも、それは誰もがいつかは通らなきゃいけない場所であったのかもしれない。程度はどうであれ」


「一種の恐怖症だとしたら、いつかは出てこなきゃいけない場所かもしれないです。私が言うのもなんですが、澤村さんは多分、一時的にそういう大きな闇の中に入り込んでしまったんだと思います。私のせいで。その大きな闇の中に、澤村さんは今いるままなんだと思います」


「今も」と澤村は口に出した。夜ではあったが、部屋のあかりはついている。


「今もです」とシキは言った。「大きなトンネルのようなものです。澤村さんはどうにかして、そこから出てこないといけないんです」


「そう、かもしれない」と澤村は言った。「俺は多分、そのシキの言う暗闇の中から出てこなきゃいけないんだと思う。でも今は怖いんだ。どうしようもなく怖い」


「暗いトンネルからは抜け出さなきゃいけない。そのトンネルという枠の中から。一人だけの力がないのなら、手伝ってもらう人が必要です。私が澤村さんをその暗闇の中から出してあげられればいいんですが……あ、そうだ澤村さん、怖いなら、眠っている間、手を握っていてあげましょうか?」


「馬鹿にしてる?」


「かもしれないですね」とシキは笑った。「でも、それはそれとして。今日は電気を消して眠ってみませんか」


「今日」


「今しなきゃいつするんですか」とシキは苦笑いした。


「いいけど、俺が眠っている間、手を握るって、君はどこで寝る?」


「一緒に寝るんですよ」とシキは言った。


 その日、二人は澤村の部屋にあるベッドで眠ることにした。隣に彼女が入った。風呂上りの彼女からは、鼻腔をくすぐる匂いがした。彼らは電気を消した。するとすぐに澤村は不安になった。暗闇の中から、澤村は何かに見られている気がした。その何かの重さと圧迫感、じっと見つめられているという視線を感じた。彼は暗闇の中にいるのが不安になる。何もないはずの空間で。


 ふと澤村は、本当に今手を握っているのはシキなのだろうかという不安に駆られる。近くにいるにも関わらず、隣にいる彼女の顔が見えなかった。夜目の効かない暗さだった。肉体の装飾は暗闇の中では意味を持たない。


「シキ?」


「うん、澤村さん」と向こうから聞こえてくる。「何?」


「なんでもない」と澤村は言った。手を握っているのは間違いなくシキだ。「おやすみ」


「おやすみ、澤村さん」


 目を瞑り、そのまま眠りに落ちた。久々に暗闇の中で眠った。





 しかしその眠りは長くは続かなかった。目が覚めた時、あたりはまだ暗く、時間があまり進んでいなかった事を澤村は枕元の時計で知った。そして自分の胸元に着ているシャツが張り付いていた。喉が乾いていた。澤村は起き上がり、部屋の電気をつけ、台所で水を飲んだ。そしてまた部屋に戻り、もう一度眠ろうとした。シキは静かな寝息をたてて眠っていた。起こさせてはいけないと思い、動かさないようにして、電気を消し、そっと布団の中に入った。今度は一人でも眠れるような気がした。しかしいざ目を瞑った時、不思議な事が起きた。


 澤村のすべての感覚が一瞬にして遮断された。音がなくなり、暗闇は一層深く不快な物になった。シキの寝息も聞こえなくなった。体が動かなくなった。目をあけようとしてもあけられなかった。あるいは目は開いているのかもしれない。しかしそこには何も映らなかった。暗闇は暗闇でしかなくどこまでも暗闇で、そして何もない空間だった。


 その暗闇の中には何かがいた。部屋の隅にそれは立っていて、澤村を見ている。澤村は逃げようとするが、体は動かない。その何かは澤村の体に近づいてくるにつれ、澤村はその何かの正体が、暗闇でしかない事に気がついた。暗闇が形をとっているのだ。

それが何を求めているのか、澤村は気がついた。同化しようとしているのだ。どうかしてる、と澤村は思った。暗闇が形をとったものは、動かない澤村に向かって、抱きつく。少しづつ、その何かは体を大きくしていく。やがて澤村の体はその暗闇に包み込まれる。


 一枚一枚、彼の皮が剥ぎ取られていくようにその暗闇の中に飲み込まれていく。服が、皮膚が、筋肉が剥ぎ取られていく。


 彼は必死で孤島の事を思い浮かべた。そうして澤村はいつものように自分を必死で守っていた、錯覚させていたつもりだった。


 しかしどこかで、その孤島は本当に自分にとって信じられる物なのだろうかと問いかけた。おそらくはその暗闇が問いかけた。その暗闇の問いかけによって、澤村は気づいた時、自分が孤島の枠のヒビが致命的な穴を持っている事に気づいた。暗闇は問いかける。本当か、お前は孤島の事を本当にあると思っているのか、と。それは澤村本人から出た物だ。孤島の枠の内側から、澤村はそれを言っている。まるで澤村自身の無意識下にある何かが、暗闇に同化するのを求めるかのように。その割れ目から暗闇が澤村の中に入っていこうとする。澤村を守っていたものはすべてなくなり、澤村その物を暗い闇が飲み込んで同化しようとする。それだけではなく、その澤村自身が顕になりかけ、澤村はそれを見なければならなくなりかける。


「澤村さん」とシキの声がした。その声で澤村はふと我に帰った。彼女は澤村を覗き込み、心配そうに見ていた。部屋には電気がついていた。「大丈夫? すごく汗、かいてるみたいですけど」


「大丈夫」と澤村は声を出してみた。その声は自分の物ではないように感じた。彼は自分の体が自分に属している事を感じた。「汗、臭う?」


「そんな事はないと思うけど、ほんと大丈夫?」


「大丈夫、でも、やっぱり電気つけたまま眠っても大丈夫かな?」


 と澤村は苦笑いしたが、内心笑えないでいた。一体なんだったのだろう。まるで澤村の孤島の枠の内部にある、澤村の魂が、暗闇を求めているかのような状態だった。澤村は孤島の事を上手く考えられないでいる事に気づいた。




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