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 喫茶店での提案の数日後、シキは早速澤村の家に住むようになった。シキは住んでいた個人経営のアパートを即座に引き払い、シキは旅行用のバッグ一つを手に澤村の家にやってきた。家具のような物は一つも持ってこなかった。処分をしたのか、それとも最初から持っていなかったのか。どうやら生活に困っている、というのはよほど深刻なレベルで困っている、という事のように思えた。


「この家、」と荷物を持ち込んだシキは、澤村の家に一歩足を踏み入れた時、少し不思議そうな顔をした。


「何?」と澤村は聞く。


「一人暮らしですか?」


「昔は家族が住んでいたけど、でも今は一人で住んでる


「いえ、だったらいいんです」と彼女は言った。「他に誰かがいるような気がしたんですけど、そのせいですね」


 残り香とでもいいますか、と続けたシキに、澤村は「怖い事言うなよ」と苦笑した。




 シキと暮らす事は苦痛ではなかった。むしろそれは澤村にとって有益ですらあった。


 最初の数日の間こそ、久々に誰かと共に生活をする事にぎこちなさを感じ、またそれがよく知らぬ女だという事、その女が以前自分に向かって金属バットで殴りかかってきた人間である、という事で、澤村は家の中に自分以外の存在がいる事に戸惑っていた。しかしシキが彼の予想以上に物静かであり、彼に対して危害を加える人間ではないという事がわかると、後は特に問題らしき問題は起こらず、シキと暮らす事は日々に溶け込んでいった。


 必要な時は会話をし、見たい番組がある時は二人でテレビを見た。食事については特に話し合って決めたわけではなかったが、食費が安くなるとの理由で、二人分の料理を作るようになり、日替わりで料理を作るようになっていた。時間が合うようであれば二人で食べることがあった。そこで二人は他愛ない話をした。


 そうした生活を始めて、数ヶ月が過ぎた。二人で暮らすことによって浮いた金を出し合い、二人は新しい洗濯機を買った。タテ型の洗濯機。以前壊れた洗濯機と似たような形をした洗濯機だった。似たようなスペースにおける物は限られていた。色、性能は違うが、どこか似たような物がその場所には置かれる事になった。


 洗濯機が動作しているのを、澤村は眺めるのが好きだった。それはいつごろからそうなった習慣なのかはわからないが、洗濯機が音を上げながら動作しているのを眺めることが好きだった。時々澤村は、動作中の容器の蓋をほんの少しだけ開け、その中で渦を巻いている水と洗剤と洗濯物の混合物を見て安心するのが好きだった。それは前の洗濯機でもしている習慣でもあった。





 数ヶ月暮らしたにも関わらず、澤村はシキのことをあまりに知らないでいることに気がついた。シキはおとなしい性格だった。礼儀正しく、真面目で、控えめ。一体どうして彼女が深夜に金属バットを持って人を襲う事がある人間に見えるだろうか。


 だがしかし、彼女は自分の事を必死に隠すようにしているのが澤村にはわかった。例えば、自身のプロフィールに関することは、必死に話題に出す事、聞かれる事を避けているような節があった。二十一歳、という年齢も自称でしかなく、本当かどうかは怪しい。澤村はシキの好物などは少しづつわかり始めたが、シキ自身の事については、何もかもわからずじまいだった。


 しかし、彼女が言いたがらないのであれば、あえて聞く必要もないだろう、というのが澤村の見解ではあった。特に問題があるわけでもなく、不都合が起こるわけでもなかった。二人の関係は概ね良好だった。


 彼女は二つのアルバイト(どちらも個人経営をしている店でのアルバイトだった、それも彼女が自身の事を話したがらない事が起因する事なのだろうか)を行い、残りの時間は家で読書を行ったり、テレビを見てぼんやりと過ごしている事が多かった。しかし、決して無口というわけではなかった。二人は一緒に買い物に行き、料理をした。


 また二人は時々図書館に行った。本を借りる時は、澤村名義の図書館のカードで本を借りた。シキはこの街の住人ではないらしく、彼女自身では借りる事が出来なかった。彼女は妙に教養があった。いったいどこで彼女はその知識を身につけたのか、澤村にはわからなかった。




 その日も澤村は自転車の荷台にシキを乗せ、図書館へと向かった。 


「何を借ります?」


「何を借りる?」


「詩とかどうです? 十七世紀イギリスのものとかお勧めですよ」


「詩には興味がないんだ」と澤村は苦笑いした。


「一度読んでくださいよ」とシキは言った。しかしその詩は無かったようで、シキは代わりにヘミングウェイの小説を選んだ。


 澤村が取り出した貸出カードに書かれた澤村仁人という名前を見て、シキは首をかしげた。そこで澤村は自分が彼女に自分の名前を教えていない事を思い出した。


「名前……にひと、さんですか?」


「のりひと」と澤村は少しだけ強い口調で訂正した。「でも、あまり名前では呼んで欲しくないな」


「どうしてですか?」


「嫌いなんだよ。自分の名前」そう言って澤村はそれ以上その話題に触れさせないようにした。





 貸出の手続きを終えた後、二人はその日の晩飯を買いに出た。


 近くのデパートで夕飯の食材を買った。豪勢な物を食べる事は出来なかったが、以前と違い少し金銭的に余裕があり、作る料理には幅が出てきた。澤村はその日何が食べたいかを話しながら買い物をしている自分達の姿が、もしかすると恋人のように見えるのかもしれない、と思った。しかしその実二人は恋人という関係ではなかったし、また恋人がどのような物なのかを知らなかった。


「あ、あのパジャマいいですね」食材を買った後、ふと目についた服を見てシキは言った。「そういえば澤村さん、寝る時普通の服装で寝ますよね。何か買わないんですか?」


「寝巻きを買ったところで、暗闇の中では何を着ていても一緒だろ。何も見えなくなるよ。裸で寝ても一緒」


「そういうの、屁理屈って言うんですよ」とシキは苦る。「でも澤村さん」


「何?」


「澤村さんは眠る時、どうしても電気を付けて寝るじゃないですか」


「ああうん、確かにそうだ」と澤村は言った。


「それに、裸で寝ると風邪をひきますよ」


「それもそうだね」と澤村は頷いた。確かにそうだ、暗闇の中で裸で眠れば風邪を引く。風邪だけならいい、風邪が喘息を引き起こし、喘息が肺炎にでもなったら大変だ。





 シキは澤村が電気を付けて眠る事を不思議がっていた。シキと暮らし始めてからも、彼は部屋の電気を付けたまま眠る習慣を続けていた。どうして俺は、眠る時に電気を付けるのだろうか。俺はもう電気を付けて眠る必要なんてないはずだ。原因となったシキは今俺の家に住んでいるが、俺の事を襲う事はないだろう。だったら俺はわざわざ電気を付けて眠る必要なんてない。しかし、澤村はどうしても電気を消して眠る事は出来なかった。電気を消すとやはり、以前と変わらぬように、不安に襲われてしまう。ただその不安の種類は、以前とは少し違う種類の物になっていた。




 澤村はシキと暮らし始めてから、以前使っていた暗い道を通って家に帰ろうとした事がある。無理をしてわざわざ灯りのある道を通る必要なんてない、そう思い、アルバイト後に、その道を通って家に帰ろうとした。


 しかしいざシキに襲われた角がある場所に差し掛かった時だった。彼は言いようのない気味の悪さに襲われる事になった。なぜだかわからないが、澤村はその角を覗き込んでみたいと思った。その道がどうなっているのかを見てみたいという好奇心。深夜のその道には、おおよそ光という物がないように思われた。それは不思議な事だった。真っ暗闇で何も見えない。


 ふと澤村は、気づくと自分がその暗闇に吸い寄せられるかのように足を踏み出している事に気づいた。その角の中に入り数歩歩いた時、視界は完全に失われた。澤村は光のない空間の中で、夜目が効くのを待った。しかしおかしな事に、いつまで待っても、目は暗闇に適応しなかった。そこにはおおよそ光がなかった。まるで完全な暗室のように。


 何も見えない空間の中では、彼が今どこにいるのか、どの方向を向いているのかわからなくなった。彼の足は確かに地面についているはずだった。しかし同時に、何もない無重力の空間の中にいつの間にか入り込んでしまっている気さえした。


 一体今自分は今どこにいて、どう動けばいいのか。澤村はそこで、自分の姿を思い浮かべようとした。自分がどんな服装を着ているのかを思い出そうとした。しかし上手くいかなかった。そして、彼は一体どうして自分が着ている服装の事を思い出そうと思ったのだろうかと思った。ここは暗闇の中で、何も見えない空間なのだ。服装など暗闇の中では意味を持たない。暗闇は彼から服装、そして肉体の意味を無くしていた。


 服装と肉体が暗闇に同化された中で、彼を彼たらしめるのは唯一その彼そのものだった。意味をなさなくなった肉体という容器の中、胸のあたりにある架空の部分は、その不安でずうんと重みを持っていた。暗闇という物が、その架空の物体を包み込むようにやってきて、ぎりぎりと圧力をかけていく。彼の回りには暗闇しかなかった。もし暗闇が澤村の精神にまで侵食してしまったらどうなるのだろうか。澤村の精神は様々な圧迫によってその形を少しづつ小さくしていく。


 また彼は一方で、その暗闇の中に、何かがいるのを確かに感じていた。その何かは暗闇の中に確かにいて、じっと澤村の事を見ているような気がした。


 澤村は持てる力を振り絞り、今自分が立っている場所と反対の方向を見る。そしてその場所から全速力で駆け出した。すぐに元の場所に戻る事が出来た。その時、彼の視覚はわずかな光しか届かないその場所で、わずかながら復活していて、自分の体を確認する事が出来た。彼は酷く不快な汗を多量にかいていた。息が荒くなり、立っているのがやっとだった。




 以来彼は、その道を使わないように気をつけ、また電気を付けたまま眠る生活を続けている。


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