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 澤村が再び女と会ったのは、雲一つない晴天の日の事だった。澤村はその日の食事の為の材料を買う為にスーパーへと来ていた。食事、と言っても、澤村にとって食事は、バリエーションに富んでいるとは言い難い。安く買った物を安く調理する。容器にとって必要なカロリーを摂取し、生き続ける為の熱量を生み出す為のもの。極力出費を抑える事。それが澤村にとっての食事だった。食事の枠を増やそうとすれば、それだけの為の器具や材料や調味料が必要だった。それを増やすだけの余裕が澤村にはなかった。限定された種類のものを節制された量口にする事。飢える事はなかったが、この三年で澤村の体重は確実に減り、着実に痩せ続けていた。ジリ貧状態なのはわかっていたが、どうしようもない事でもあった。


 そのような食生活は、時々どうしようもなく辛くなり、簡単に彼の心を折りそうになる。彼にとって美味しい物を食べる事は魂にとっての幸福であり、動けなくなるまで食べる事は至福であった。しかし、それを実現するだけの金銭の余裕があるわけでもない。そういう時、澤村はやはり孤島の事を思って、その心を守る役割を果たさせようとしていた。大丈夫、今は食べられないかもしれない。でもいつか辿りつく孤島で、俺は好きな物を好きなだけ食べる事が出来る。だから、今のこうした不足は我慢が出来る、と。彼はそうした暗い感情の波を、孤島を思う事で耐え続けてきた。(しかしもちろん、澤村は何かを食べなければいけなかった)


 その日スーパーの入口前では、珍しく試食が行われていた。日向で行われていたそれに、空腹を紛らわせる為に手を伸ばした時、偶然別方向より同じように伸びてきた手が触れた。


「ああ、すみません」


 手が触れた事に謝ろうとした澤村は、その相手に見覚えがある事に気づいた。


 それはあの日の夜澤村を襲った彼女であった。


 その事に気付くのに時間を要した。まさか。まさか彼女がこんな昼間から街中を歩いているはずがない。しかし確かにそれはあの夜に澤村を襲った女だった。髪の長さ、身長、顔の造作、そのすべてが澤村の強烈な記憶として残っている映像そのままだ。その女が今、澤村の目の前にいる。しかしそれは単純に考えれば当たり前の事だった。彼女だって、夜の暗闇の中だけに生きる存在ではなく、昼間の世界に生きている人間なのだ、なんら不思議な事はない。


「あ、いえ、こちらこそすみません」


 落ち着きのある、優しい声だった。服も落ち着いた印象を与える物だった。また、顔の造作に反した服装でもない。その清楚さは、服装によって無理矢理清楚さを演出させる物のようには見えなかった。外見がその内面を作るわけでは決してないが、外見によって人は印象を演出する事はある。猫をかぶり性格を装飾するように。


 その女は澤村が困惑した表情で自分を見ているのを不審そうにしていた。やがて彼女はそれが一体どうしてなのかを理解したように見え、表情にあった色という色が消えていく様子が見てわかった。酷く気まずそうな表情に変わり、お互いがお互いの事を避けるようにその場から離れた。澤村は、買い物もせず、用心深く、誰かが見ていないか注意しながら家へと帰った。





 その日の夜、澤村はアルバイトを終えると、深夜、この頃しばらく使っていなかった道を通って帰る事にした。それは澤村が以前襲われた、街灯のほとんどない暗い道だった。用心深く、自分の家にあった金属バットを手に持ちながら。


 その道には案の定、金属バットを持った女がいた。澤村は自分が持っていた金属のバットを示すように握った。別に殴ってやろうと思っていたわけではない。単純な牽制の為だ。やろうと思えば、彼女のやわらかな肢体を支える骨格を砕けるという意思表示。澤村は額から汗が出ている事に自覚的だった。汗は澤村がその日飲んだ水からも含まれていた。


 そのバットを見て、彼女は少し身構えたようだった。すぐに攻撃をしてくるわけではなさそうだという事がわかり、澤村は少しだけ安心した。


「お前」と澤村は言った。「俺に何の恨みがあるんだ」


「恨みは、特にないです」


「じゃあなんで襲おうとするわけ」


「それは今の事ですか? それとも前の?」


「どっちも」と澤村は言った。


「一度目は、あなたの財布が目当てでした。そして今度は口止めの為です」


「口止めって」やはり彼の予想はあたっているようだった。しかし澤村は自分が今ここで意識的に話しておかないと、やはり後々自分がとんでもない場所に踏み込んでいくかもしれなかった事を考えて少しぞっとした。口の中が乾いていて、水分を欲しがっていた。


「俺は誰にも言うつもりはないよ。それは安心して欲しい。それで、財布が目当てというのは?」


「お金がなくて困ってました」


「金なら俺もない」と澤村は言った。「多分、みんな金で困ってると思う。皆金は欲しい」


「私はそんなファッション貧困のレベルではなく、どうしようもないくらいに困っているんですよ、ご飯が食べられないくらいに」。


「でも、俺も似たような感じだ。だから襲ったところでどうしようもないと思うけど」


「でも、どうすればいいんでしょう」


「働け」


「バイトしてます。二つしてます」と彼女は言った。「それでも足りないんです」


 どうしましょう、と彼女は言った。奇遇な事に、澤村もアルバイト先を二つ持っていた。そして澤村もジリ貧状態だった。澤村は少し考えてため息をついた。そして自分が今からしようとしている事について、いったいどうして自分を襲うような人間にそのような事を言おうとしているのだろうか、と澤村は思った。普通なら考えられない事だろう。だが、彼は自分と似たような状況に置かれている彼女にシンパシーのような物を感じたのかもしれない。


「とりあえず、近くの喫茶店で話そうか」


「お金がないです」と彼女は言った。


「それくらい出すよ」と澤村は苦る。


 ウェイトレスがグラスに注がれた水を持って来た。それを飲んでから、言った。


 金が無い、というのはどのような状態なのか、という事について澤村はとにかく彼女の話を聞く事にした。どうして彼女が自分を襲うに至ったのか。


 シキ、というのが彼女の名前らしかった。それが苗字なのか、名前なのか、それともあだ名のような物なのかわからない。どのような文字なのかもわからない。とにかく彼女は自分の事を名乗る時に、シキとだけ言った。


 彼女は二十一歳で、一人暮らしをせざるを得ない状況にある、というらしかった。どうしてそのような状況になったのか、詳しい事は言いたくなさそうだった。澤村も自分の事(例えば母の事)を言いたくもなかったし、深くを尋ねる事はしなかった。シキは一人暮らしをせざるを得ない状況では経済的に困難だと言った。アルバイトをしているが、家賃光熱費食費がぎりぎりで賄えきれない生活をしていた。時々アルバイト先の優しい人間の気まぐれで、余っていた食材をわけてもらえる事があり、それがある月はなんとかそれで凌いでいたという事だった。しかし、奇跡の起きない月はどうしようもなく、それが数ヶ月続き、金の為にあの日澤村を襲ったという事だった。本当に、どうすればいいんでしょうか、と最後にシキは付け加えた。頼る人間はいないのか、と聞いたが、誰もいないとの事だった。それは澤村も同じだった。


 そんなシキの状況を聞き、澤村は少し考える。金は出せないが、住む場所なら差し出せる。一緒に暮らす事を提案した。澤村の家は持家だし、小部屋がある、そこを使ってくれて構わない、シェアする、というのだ。そうすれば、お互いに無駄な金を使わなくて済む。もし気になるのなら金を入れてくれ。そうすればまだマシになるだろう、俺も、君も。


 シキ、という女性は澤村に感謝をした。


 そうして、彼女は澤村の家に住む事になった。


 シキという女は自分の住む家を出てすぐに澤村の家に住む事になった。おかしな話だった。自分を襲った人間と一緒に住むなんて。それに素性の知らない人間を。夜の間に金が取られて逃げられる可能性だってある。それだけならまだいい。夜に眠って、そのまま永遠に起きれなくなる可能性だってあった。話したばかりの人間の話をすべて鵜呑みにしていいのか、という問題もあったが。





 だが澤村はそれでもいいかなと思っている節もあった。元々金はない。盗むべきものなんてほとんどと言っていいほどなかった。それにただでさえ今のような生きているのか死んでいるのかわからない人生を送っているのだから、眠ったまま起きれなくなるのはそれはそれでいいかもしれないと思っている節はあった。彼は時々、眠る前に孤島の事を考え、目をつむり朝がくると孤島についている事を願った。そして朝がやってくるとどうして自分はそこにいるのだろうと思う事もあった。




 しかし、ふとその事を考えた時、その一方で彼は、自分が彼女に襲われた時の事を思い出していた。あの時の自分は孤島を考えただろうか。とにかく逃げなければという考えばかりが先行し、孤島の事など考えた事もなかったように思えた。皮肉な話かもしれない。直前になると本能のような物が出る。


 自分は根っこの部分で死んでしまっても構わないと思っている、と思っている。しかしその更に下の部分では、今のままでいたい、と思っているのだ。


 苦笑いに似た吹き出しをしてしまったのを、シキがどうしたのかとでも言いたげに見る。なんでもない、と澤村は言った。自分は孤島の事を行きたい場所だと思っているのに、いざそこへ向かうかもしれない時になると、と突然手のひらを返す。


 その考えは、彼の孤島の思想のヒビを大きくする物でもあった。あの日の夜、彼女の振り下ろした金属バットは澤村の体を捉えはしなかったが、彼の孤島幻想を確実に捉えていたのかもしれない、そしてそのヒビを大きくしたのかもしれない。




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