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 孤島は彼が中学一年、十三歳の時に考え出した物だった。


 今では完治してしまったが、その頃の澤村は小児喘息に悩まされていた。一度発作が起こると咳が止まらず、時には呼吸ができず、立っている事もままならなくなる。発作が出た時は、病院へ行き、あとはその波の満ち引きのように定期的にやってくる咳と、それに伴う痛みを、安政な状態にしてただ耐えるだけしかない。




 喘息は、巷に溢れすぎていて、大した事のない病気のように思える。しかし今でも毎年二千人以上が呼吸困難で死に至る病気だった。また、その病気の厄介なところは、呼吸困難の他にも、発作で体力が奪われ、他の病気を招きやすいというところにもあった。そして澤村の父親も、喘息が原因で死んだうちの一人だった。


 澤村の父も季節の変わり目でやってくる喘息に悩まされていた。体が特別弱い、というわけでは決してないはずだった。しかし喘息の発作が出ると、父はまるで子供のように布団から起き上がれない程苦しそうに咳をしていた。体の大きな大人が簡単にそれによって立てなくなる姿を見る度に、澤村は人が決して勝てないものの存在という物を感じずにはいられなかった。


 父は澤村が中学三年の春先に死んだ。季節の変わり目だ。父は目まぐるしく変わる様々な変化に、上手く対応できなかったのかもしれない。いつものように喘息気味の咳をしていたかと思うと、合併症として肺炎を起こし、ある夜父はあっさりと死んでしまった。あまりにもその前兆のような物がなさすぎて、澤村も母親もそれを簡単には受け入れる事が出来なかった。




 澤村は人の本質が、肉体ではなく魂にあると思っている。それは胸のあたりにある、ぼんやりとした架空の部分だと考えている。これといった形を持たないものではあるが、感情が動く時、きまって痛みや喜びはその部分を刺激する。その場所こそが人を人たらしめているものであり、命の本質であると澤村は思っていた。肉体という物はそれを入れる容器でしかない。


 父の肉体という容れ物には、度重なる喘息による疲弊で、ヒビのような物が入っていたのかもしれない。父はある日唐突にそのヒビが決定的な物となり、その容器に穴が開き、魂をその内部に止めておく事ができなくなってしまったのだと、澤村は思っている。他の死者達についても、同じような考えを持っている。




 中学一年時の澤村は、その二年後に父親が喘息で死ぬなどとはゆめにも思っていなかった。しかしその時の発作は酷く、立ち上がる事の出来ない苦しさで、自分の容器は耐え切れないのではないかと思ってしまうところがあった。


 澤村はその日学校を休み、自室のベッドで一人眠っていた。しかしグラスに注ぐ事の出来る水の量という物には限界があるように、眠り続ける事が出来なかった。もしこの痛みに自分が耐えられなかったとしたら、もし容器に穴があいてしまったとしたら、自分の魂はその後一体どこへいくのだろう。容器から出た魂が、あてもなく、何もない空間へと放り出される事。それは澤村にとって考えるだけでも怖い事だった。


 澤村は眠るのを諦めると、重い体を引きずりながら部屋のテレビの電源を入れた。


 テレビでは紀行番組を行っていて、どこかの国の孤島を映し出していた。小さな島だった。海は光の加減のせいか、文字通り透き通っていて、底が見えた。そこで生活が出来ればどんなに楽しいだろう、と澤村は思った。澤村はその映像に心奪われた。俺もこんな孤島に行ってみたい、と。


 澤村はテレビを見ながら、彼は自分がその孤島にいる姿を想像した。澄んだ空気を感じる事が出来た。光のまぶしさを感じた。風の音、揺れる大量の木の葉の事、名前も聞いた事のない鳥の鳴き声を聞いた。彼はその孤島の中にいる事で、酷く救われた気分になった。


 澤村はふと、孤島の事を考えていると、自分の負の感情が棚上げされている事に気づいた。決してなくなったわけではない。その感情達は確かにそこにあって、確かに澤村を苦しめている。特に喘息の痛みは、彼を苦しませ続けている。しかし孤島の中に自分がいる姿を想像する事は、彼からすべてを救っていた。彼の体はベッドの上にあったが、彼の心は自分の中に描いた孤島の世界の中にあった。


 思うだけで素晴らしい空間だった。だからきっと、そこに実際行くことがあれば、今よりより素晴らしいのではないか、本当にたどり着いた時には、その感覚は現実の物となるかもしれない。


 そう思うと、澤村はその時の苦しさを我慢する事が出来た。いつか辿りつく場所としての孤島、その為であれば、今の苦しさという物は、それに辿りつくまでの苦しさに過ぎないという考えを持つ事で、澤村の中にある孤島の観念は、枠となり澤村の心を守り支えるようになり、澤村は肉体的に不調の時、孤島を思う事で乗り越える事が出来るようになった。


 そのような考えを見つけた事は、以後の彼の精神に対し大きな影響を与えた。後に、喘息が完治してからも、孤島は精神的な苦痛に対しても効果を発揮するようになった。自分と孤島の契約。


 何か辛い事があり、負の感情に飲み込まれてしまいそうな時、澤村は孤島を思い浮かべる事で、耐えようとしてきた。


 彼はそうして、中学の時に受けたいやがらせ(いじめのような物と言えるかもしれない、彼の名前に関する事だ)も、父が死んだ時も、高校で時々感じる孤独も(枠の外だ)、母がいなくなり陥った貧困の状態も、孤島を考える事で耐え続ける事が出来た。約束された場所に向かう事。その為に今を犠牲にする事。以来、孤島の思想は彼の心を包み込むようにして守っていた。彼の魂を覆う膜のように、肉体よりより内部にある、架空の部分を守るものとして。





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