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それから数日の間、澤村は精神的に苦しむ事になった。ふとした瞬間、また誰かに襲われるのではないかと思うと、小さな物音一つにすら過剰に反応してしまった。深夜まで続くバイトの後になると特にそれが顕著になり、澤村はその帰り道を、遠回りにはなるが、なるべく灯りがある道だけを使って帰る事にした。
家にいるときは、とにかくすべての部屋の電気を消さないように努めた。電気代がかかったが仕方のない事だった。とにかく家の中に暗闇をつくりたくなかった。
澤村は誰かにその事を話したくなった。本当はもっと早くに誰かに話す事で不安を共有し、共有する事でその事を濾過したいとは思っていた。しかし澤村には話す相手がいなかった。
彼は二十三歳で、フリーターだった。友人は特におらず、家族もいなかった。兄弟という物はもとよりおらず、父は澤村が中学三年の時に肺炎で死に、母は彼が大学二年のある日、何の前触れもなく妻子持ちの男とともにどこかへ消えてしまった。いったい妻子持ちの男と母親が、それぞれの家庭を捨ててまで駆け落ちするまでの恋愛とは、一体どういう事なのだろうか。しかしそれはこの話の枠の外の話であり、また澤村の預かり知らぬ事でもあった。澤村は母親がもう帰ってこないのだとわかると、生活費を稼ぐ為に大学を休学し(そしてそのまま復学する事はなく、退学してしまった)、日々の生活費を稼ぐ生活を始めた。住んでいたのが田舎にある持家だったのが唯一の救いかもしれない。以来澤村は名義変更のされないままでいる家に一人だけで暮らし、アルバイトで生計を立ててきた。親戚という物を彼は知らなかったし、自分に親戚がいるとも思わなかった。唯一会話があるとすればアルバイト先ではあるが、仲が良い人物がいる、というわけではなかった。そこにいる相手とは、基本的には事務的な会話をするだけだった。
誰とも親しい関わりを持たない事は、時々彼をどうしようもない程に苛ませる事になった。
誰かに何かを話したくても、その誰かがおらず、自分の話は自分の枠の中だけで完結せざるを得なくなり、その枠の外の世界へと出ていけない事。それは彼に、空虚で暗い空間に一人放り込まれたような感覚を想起させた。そこは何もない空間で、手にとれる物もなく、重力もなく、床もない。遠くに見える星もなければ、自分の思った場所にも上手く動けない。まるでその空間の一部として、溶け込んでしまうような感覚になる事。やがて自分が話したかった事すらも、その中に吸い込まれ消えていく。
何もないという感覚は彼にとってどうしようもなく耐え難い物でもあった。胸の奥にある架空の部分が締め付けられ、その部分が鉛のように重くなり、感情が一切の色彩を失う。息をするのが辛くなり、その場に膝をつきそうになるくらい、立っている事もままならなくなる。
そのような耐え難い感覚に陥った時、澤村は決まって孤島の事を思い、なんとか自身を守ろうとしてきた。
それはいつか彼がたどり着く彼だけの孤島だった。そこではあらゆる苦痛が超越され、幸福のみの訪れる、理想的な空間だった。ただし、そこは自分にとって遠くにある場所であり、今すぐにはたどり着く事は出来ない場所であった。だから今というのはそれまでの待機の時間でしかない。いわば孤島の為に捧げられる時間。そう思えば、今のこのどうしようもない状況、回復の見込みのない状況も、耐え凌ぐ事が出来る、そう澤村は思っている。澤村はその孤島の事、また孤島に辿りつく事を考え、そしてその孤島にたどり着けば自分がどんなに満たされるのかについて思いを巡らせた。たったそれまでの事、それまでであれば、自分はこの自分の眼前におかれた状況を、待機の時間として受け入れる事が出来た。
その日澤村は一時間ほどベッドの中で孤島に思いを馳せながる事によって、満潮時の感情の波が退いていくのを見届けた。そして、浅いながらも眠りにつく事が出来た。自室のベットに入り、蛍光灯の光の下で。暗闇は彼にとって非常に耐え難い物となっていた。