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「ねぇ、にひとって何?」
とある時、光が聞いた。
「何って?」と澤村は聞いた。「どう言う意味?」
「シキが最後に、澤村の事をそう呼んでいたから」
「ああ、のりひとって名前なんだ」と澤村は答えた。「それがにひとって呼べるから、シキがそう呼びたいって言って、そうなった」
「あたしも、にひとって呼んでもいい?」
「嫌だ」と澤村はきっぱりと言った。
「どうして?」
「昔、その名前で虐められた事があるんだ。そのせいで、仁人って普通に呼ばれたとしても、その事を思い出す。俺はあまりその名前で呼ばれたくないんだ」
光は少し考えていた。
「虐められたって、どういう事」
「あまり話したくない」
「話すべき」
「嫌だ」
「話して」と光は言って、澤村の腕に抱きついた。澤村は仕方がなく話す事にした。
「中学の頃の事なんだけどね。同じクラスの生徒が、ある時突然俺の事を『にひと』って呼び出したんだ。どうしてだか俺は、そう呼ばれる事に嫌悪を示したんだよ。からかわれる度にむきになって怒るから、それで更にからかわれた。にひとにひとって、すごく嫌だったよ。それは多分、向こうも悪意的に俺の事をそう呼んだからかもしれない。俺の事をそう呼ぶ人間はどんどん増えていって、気分が悪かった」そう言って澤村は水を飲んだ。
「それで、どうなったの?」
「ある時、俺は自分が『にひと』って呼ばれて一々反応をするからからかわれているんだって事にわかった。だから我慢する事にしたんだ。反応しないようにって。どうしても我慢出来ない時は、孤島の事を思った」
「前に、シキに話していたやつ?」
「うん。そうしていたら、いつの間にかそう呼ばれなくなっていたよ。多分、面白くもなんともなくなったからじゃないかな」
「ふうん」と彼女は言った。「変なの」
「確かに、変な話だよね」
と澤村は言った。澤村はどうして当時の自分がそこまでにひとという名前をむきになって否定したのか、不思議に思った。にひと、ニヒト、Nicht、ドイツ語で否定を意味する言葉と同じ響きを持っている。Nichtsにすると、「無」を意味する言葉。しかし澤村がそれを知ったのは、彼が大学生になってからであり、当時の自分はそんな意味を知っているわけではなかったというのに。どうしてあんなにむきになって「にひと」と呼ばれるのを拒んでいたのだろう。
「にひと、にひと……にひと」
と光はその響きを数回試すように口ずさんだが、やがてそれを気に入ったのか、澤村の肩を人差し指で数回とんとんとんとんと叩いてから言った。
「にひとって呼びたい、駄目?」
「駄目」
「どうして」
「だから嫌なんだって」と澤村は言った。
「シキが呼ぶのは許したのに?」
「あれは駄目だって言っても、シキがどうしてもそう呼びたいって言ったから仕方なくだよ。認めたわけじゃない」
「でも、結局はそれに反応したんでしょ。あたしは呼んじゃいけないの、にひとって」
澤村はそれを聞き流した。
「にひと、ねぇにひとってば。にひと。にーひとくん」
「もうそれでいいよ」と澤村は自分がにひとである事を受け入れる事にした。
「やった。にひと、いい名前」
「そうか?」と澤村は言った。
「うん、なんだか安心するような気がする」
仕方がなく、澤村はにひとを受け入れる事にした。なんだか不思議な気がした。
「ねぇ、今なら電気を消して眠れる気がするんだ」と光は言った。
「俺もそんな気がする」
電気を消した。
「光」
「なあに、にひと」
電気を消す。君が見えない。君が誰なのかわからない。
君が君だって可能性はあるのか。
サクの声がする。でも、それはサクの口調を真似たシキの可能性だってあるのだ。
闇が怖い。得体の知れない怖さ。澤村は思う。俺は孤島を手放した。俺は今までの俺を否定した事になる。すべてが否定された俺はなんなんだ。俺という肉体の中に入っている俺は一体誰なのだ。誰でもない、無だ。そうなると、肉体がなくなった先に残る物はなんなのだ。光は光で無くなる。
枠の中に入っているのはどちらなのだ。
「ごめん、やっぱり電気を付けてもいいかな」と澤村は言った。
「あたしもそれの方がいい」と光は言った。
何かが足りないのだ。もう少しで眠れそうな気がするのだ。なぜか。
「あ、背中」と光が言った。「一箇所だけすっごい紫色になってる。まるで爪痕みたい」
※
光が妊娠をした。
数日前から様子がおかしかった。気分が悪そうで、どうも苛々する事が多かった。
「育てられるかな」と光は不安気に言った。「やっぱり、まだ無理な気もする」
「大丈夫だよ」と澤村は言った。「少し辛い思いをするかもしれないけど、それでも、なんとかなると思う。俺も頑張るから」
「そうだね」と光は笑った。
澤村は素直に喜んでいた。確かに、金銭面の問題は大いにあったが、それでも光と、光のお腹の中にいる子供は、澤村にとって生きる指針になるかもしれないと思った。何もかもを埋める物となるように思えた。
しかし結局、二人がその子供を育てる事は出来なかった。子供は育たなかったのだ。光は医者にその事実を告げられ、手術が行われる事になった。光は手術を嫌がっていたが、仕方がなかった。彼女のある部分は機械だったが、幸いにもシキ程ではなかった為、それが露見する事はなかった。
「ねぇ、お願いがあるんだ」
すべてが終わり、澤村と光は一緒に眠る為にベッドの中にいた。二人の中からはぽっかりと何かが抜け落ちているように思えた。
「何」と澤村は聞いた。
「こんな事があってすごく勝手な話なんだけど、これからも変わらずに一緒にいて欲しいんだ」
「大丈夫」と澤村は言った。「俺もそれを望んでる」
そう言って、澤村は光をベッドの中で抱きしめた。二人の悲しみは、二人でいる事でなんとかその痛みを和らげさせる事が出来た。きっと一人では無理だっただろう。光、と澤村は思った。光、光、光。暗闇の中で眠るには、光の力と電灯がなければいけなかった。
澤村は光が眠ると、彼女の何もなくなってしまったお腹に耳をあてた。確かに、空白がそこにはあった。何かがあったのだ、何かが。しかしそれはあっさりとどこかに消えてしまった。まるで何かに飲み込まれていくように。澤村は子宮の空洞の音を聞いた。暗闇の音がした。
澤村は自分が手に入れていた子供の事を思い、そして次に、目の前にいる彼女が子供と同じように消えてしまったとしたらという事を思った。彼女がいなくなってしまったら、俺はこの暗闇の中、どうすればいいのだろうか。
俺は暗闇からでなければならないのかもしれない、と澤村は改めて思った。色々な物を奪っていく前に。そして彼は、この暗闇というものが時間の経過では治らないものだという事に気づいた。
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