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 朝、澤村の目が覚めた時、彼は体の底の方からかすかに肌寒さを感じた。自分が服を着ていないからだという事にすぐに気づいた。くしゃみを一つして、もしかしたら風邪をひいてしまったかもしれないと思った。ベットから出ると、床に脱ぎ捨てられた衣類を踏まないように気をつけながら、つけ放されたままの蛍光灯の灯りを消した。それから床に放り捨てられるように置かれた衣服の中から、自分の下着を取り出して履いた。


 肌寒さに彼がもう一つくしゃみをした。その音で、ベッドで眠っていたサクが妙な声と吐息を漏らし目を覚ました。


「おはよう」と澤村は言った。


「おはよ」とサクは目を擦りながら眠たげに返した。頬には泣いた後があった。




 澤村は服を着、台所でグラスに水を入れて部屋に戻った。サクは服も着ず、シーツを体にかけた状態でひどくぼんやりとしていた。何かを見ているかのようで、その実何も見ていないように見えた。


「どうした?」


 と澤村は聞きながら、持って来たグラスを彼女に渡した。サクはそれを受け取り、中に入っていた水を口に含めた。澤村はそれ眺めながら自分も水を飲んだ。サクはぼんやりとし続けていた。まるで彼女の中にあった何かがぽっかりと抜けてしまった事に対処できていないように。


「サク?」


 と彼は声をかけた。彼女は反応をしなかった。


「サク」


「ああ、あたし?」と彼女は言った。


「お前がサクじゃなかったら誰なんだよ」と澤村は苦笑いをしながら聞いた。


「あたしは……誰なんだろう」とサクは答えた。


「一体どうした、朝っぱらから哲学的になって」


 と澤村は言った。まるでそれが夜にする話題であるならば適切だとでも言わんばかりに。彼は部屋の中を見回し、カーテンを開いた。


「わからないんだ」としかしサクは言い返した。


「何が?」


「自分が何なのか」


「どういう事?」


「その話をしたいんだけど、その話をすると暗い話になるし、長くもなると思う。本当はできるだけ暗い話をしたいわけではないんだけど、多分そんな話をするとそうなると思う」


「大丈夫だ、問題ない」と澤村は言った。「だから話して欲しい」


 彼女にとって難しい話なのかもしれない、と澤村は思った。くち、とサクは小さなくしゃみをした。澤村は床に落ちている服をサクに渡し、彼女に背を向けるようにして窓の外の景色を見ていた。早朝の世界は眩いばかりの光で広がっていた。まだ生まれていない世界の中、よれたスーツ姿のくたびれた四十代の男が一人歩いていた。あの男はこれから会社へ行くのか、それとも家へと帰るのか。澤村にはどうもそれが家に帰る姿のように思えた。


「もういいよ」


 とサクの声が澤村の背中に投げかけられた。澤村はベッドに座り、サクの隣に行く。


「どういう事? さっきの、自分が誰かわからないって」


「怖いんだ」とサクは言った。「時々、自分が一体何なのかわからなくなる。上手く眠れない」


「自分が誰って、お前はサクじゃないのか?」


 と澤村は言った。彼女はどこからどう見てもサクだった。時々シキに見えてしまう事もあったが、彼女は間違いなくサクだった。一つの容器には一人の魂しか入らない。


「サクだよ。あたしは、確かに」とサクは言った。「そう、あたしはサクなんだ。でも、サクっていう名前はあたしの本当の名前じゃないんだ。前に話した、博士の話、覚えてる?」


「覚えてるよ」と澤村は言った。


「博士に会う以前の記憶があたしにはないし、その時に何て呼ばれていたかもわからない。でも、博士があたしの事をサクって呼んだからあたしはサクになった。シキとサク、試作機だからそういう名前。言ってしまえば嘘の名前だけど、でもその名前は、博士がいて、シキがいたから信じられたんだ。博士が試作機を作って、その試作機の名前を二人に分けたからこそ、サクって名前は存在した」


 と彼女はそこまで言って、グラスに再び水をつけた。


「でも、今ではもう博士は死んでしまったし、シキもあたしが殺してしまった。もうその名前が生きる理由なんてないんだ。特に博士が死んでからは、あたしは何年も、博士から言われた『シキを殺す事』を目的に生きていたんだ。シキの持つ特殊なエネルギーをこの世界から消す為の存在としてのサク、その目的の為にあたしは生きてきたし、その目的の為であればすべてを犠牲にする事のできるような気がしてきたんだ」


 まぁ、実際のところ、シキと会ってからは、そんな事を忘れて楽しんでしまったんだけどね、と彼女はそこで苦笑いをした。澤村も苦笑いをして返す。


「だからどんなに空腹でも、喉が渇いていても、寂しくても、病気になった時も、全部シキの事が終わるまでは耐える事が出来た。我慢する事が出来た。それも全部含めて、あたしはサクだって言う自分があったんだ。そういうのって、わかる?」


「わかるよ」


 澤村は返した。サクの話を聞いていると、酷く心が痛んだ。


「でも、いざシキの事を終えて、シキを埋めてしまってから、あたしはよくわからなくなってしまった。これまであたしが持っていたものを、全部無くしてしまった。多分あたしは、博士に頼まれてから、一人でずっと、シキの事に関する長く辛い暗闇のような物の中にいたんだと思う。でも、そこから出てきた時、あたしはまた違う暗闇の中に入ってしまったのかもしれない。あたしはその前の暗闇を出る時に、その中に今までのほとんどの物を置いてきてしまったのかもしれない。そして今、あたしは、新しく入ってしまった暗闇の中で、あたしという物が見つけられずに困っているんだと思う



 暗闇という言葉を、彼女は使った。一体どうして皆暗闇という言葉を使うのだろう、と澤村は思った。澤村はつい最近まで、暗闇の事を気にかけてすらいなかったというのに。『澤村さんは大きな暗闇の中に入っていしまっている』澤村の周囲で暗闇の話が出てきているのは、結局のところ、暗闇の話が出るのは、すっかり俺が暗闇に包まれているからなのかもしれない。


「お願いがあるんだ」と彼女は言った。


「何?」


「あたしに、名前をつけて欲しいんだ」と彼女は言った。「新しい名前を澤村につけて貰いたい。あたしに名前をつけて。あたしが誰なのかを、澤村に決めて欲しい。あたしの名前を生み出して欲しい」


「でも、決めるって、それは俺が決めてもいいのか? それは俺が決めたところで、嘘の名前でしかない」


「大丈夫。澤村にこそ名前をつけて欲しいんだ」


 少しの間、澤村は考えた。


「光」


「光か、いい名前。でも、どうして光?」


「別に、特に意味はないよ」と澤村は言った。真面目に話すのが恥ずかしかった。


「いい名前だね、あたしは光。うん」


 と光は言った。光は光になり、もう先程までの名前の無い女の子とは違っていた。


 それから彼女は、眠る時に泣かなくなった。




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