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二部




 シキがいなくなってから数日が経った日の昼、澤村の家にサクがやってきた。彼女は最後に会った時から、随分とやつれているようにも見えた。シキの不在は澤村の生活に確実に痛みを与えていたが、それはサクにとっても同じようだった。


「疲れてる?」と澤村は聞いた。


「かも。でも、澤村だって疲れてるように見える」


「上手く眠れないんだ」と澤村は言った。


「あたしも眠れない」確かに、彼女の目元の隈は目立った。


「みたいだね」と澤村は言った。「それで、今日はどうしたんだ」


「うん、お願いがあるんだ」


「何」


「ちょっと、ぎゅってしてもらってもいいかな。多分、そうして貰ったら眠れるような気がするんだ」




 その日から澤村はサクと共に眠るようになった。サクを抱えるように眠る事。二人ともそうしてやっと眠る事ができるようになるのだった。澤村は時々、胸に顔を埋めて眠るサクの頭頂部に鼻をつける事があった。そこからはシキの匂いがした。


 澤村は孤島の力に頼ろうとしなかった。眠る時はサクをしっかりと抱え、何も考えないで眠るように心がけた。自分が孤島を思っていた事について考える事はあったものの、それが以前のような、澤村にとっての孤島の役割をもう持っていなかった。


 まもなく、澤村とサクは一緒に暮らし始めた。それは非常に自然な流れだった。サクとの生活は、シキとの生活とはまったく違う物だった。しかし、ふとした瞬間、シキの事を思い出す事があった。シキとサク、環境は違うと言うのに。同じ容器なのに、入っている物が違うかのように。例えばサクは料理が下手で、澤村が料理を行わなければならなかった。性格にも顕著に現れた。そのような事を思うたびに、彼は自分がシキになんて酷い事を言ってしまったのだろう、という事を思ってしまった。自分ですら信じていない、無意味な物を彼女に押し付けてしまったのだ。シキと過ごす時間こそが彼にとっての実際的な孤島だったというのに。きっとその孤島は、シキにとっても孤島であるはずだった。


 二人は電気をつけて眠った。電気をつけて眠る事がわかる気がする、とサクは言った。澤村は自分がいったいどうして眠れないのかと考えた。すべてが終わったハズなのに、澤村は電気を消して眠る事が出来なかった。


『澤村さんは多分、一時的にそういう大きな闇の中に入り込んでしまったんだと思います』


 シキに襲いかかられた日から、俺は大きな闇の中に入っている。澤村はそれを考えた。


 そうだ、まだだ、まだ俺はその大きな闇の中から抜けていないのだ。


「そしてまだ、何も終わってなんかいない」と澤村は呟いた。サクがその声に反応して少しだけ動いた。彼女は泣いていた。彼女は眠るとき必ず泣いた。






 澤村とサクが生活になれた日の事だった。澤村はサクと共に買い物の後、近所の公園へとやってきていた。丘の上にあり、ぼんやりと街が見えるその景色を、二人は眺めていた。近くのベンチに座っている老人がこちらを見ている。二人は老人と少しの間他愛の無い話をしていたが、ふと老人が遠くを見ていたかと思うと、唐突に遠くを指々し、口を開いた。


「昔は、あのあたりに一本だけ高い電波塔があったんですけどね」と老人は言った。


「塔」とサクは聞いた。


「昔の、それもかなり昔の事です。私の子供の頃の話になりますが、街の真ん中あたりにね、電波塔が一本だけあったんですよ。その頃はこの街にはほとんど高い建物なんてものはなかったからか、塔は街のどこからでも見えて、皆それを目印に今自分がどこにいるのかを測っているようでした。それはもう便利な物で、私もこの街の知らない場所に行った時も、その塔と太陽の位置を頼りにすれば、私はどこへいっても迷う事なく歩けたものでした。しかし、今はもうあの塔はなくなりました。その代わり、それよりももっと高いビルやマンションがいくつも立ち並び、ご覧の通りになっています」


 と言って二人にその方向を確認させるように示した。澤村にはその景色が昔から馴染みのある自然な物としてしか受け入れられなかった。


「当時の私は、非常に混乱しましたが、それを受け入れる事が必要でした。変わっていく中で、今思えば、それが大人になるという事なのかもしれません」


 年寄りの懐古癖という物も、悪い癖なのかもしれませんね。


 そう言って老人は自嘲気味に笑った。


「それでも、時々あの時の塔の事を思い出してしまうんですよ」と老人は言った。「今でも時々、道に迷った時は塔がどこにあるのかを探してしまうんですよね」







 電気を消して眠れない事は、澤村にとって脱しなければならない慣習のように思えた。『一時的に入ってしまった大きな闇の中から抜け出す』事は澤村にとって必要な事だった。しかし澤村にはその闇の中からの抜け方について、まったく検討がつかなかった。そもそも比喩的な意味としての、暗闇の中というのが一体彼にとってどのような物かわからなかった。時間経過と共にその闇が消えてくれればいいのだろうが、彼にとって今のところその様子はないように思えた。


 その暗闇の中に入ってしまった原因は、シキに襲われた事だと、彼女自身が言っていた。おそらくそこに何かしらの理由があるのかもしれない。解決の糸口になるような何かが。闇の中に入ったのがここなら、出て行くのもここだろうという確信が彼の中にはあった。


 シキが言っていた。


 澤村はその道に来た。昼だというにも関わらず、唐突にその先の角を曲がると、何も見えなくなった。どうしてここにはこんな物があるのだろうか。俺が大きな闇の中にいるせいかもしれない。その闇の中にある闇、まるで箱の中にある箱のような、劇中劇のような闇。


 何も見えない空間の中、自分がまた闇の中へと同化されていくような感覚になっていくのがわかった。暗闇は澤村を侵食していく。澤村は孤島の事を思い浮かべなかった。思い浮かべる事が出来なかった。孤島はもう孤島の役割を果たさない。だとしたら、俺はどうやってその暗闇の同化を食い止める事ができるのだろうか。


「君は自分が無になっていくのが怖いと思っている」


 と誰かが言った。それは澤村の耳元で聞こえた。それが暗闇の中から形をとった何かが言っている事がわかった。しかしそれはどこかで聞いた声のように思えた。澤村は何も答えなかった。


「周囲にある暗闇が唐突として君を襲い、その暗闇が君全体を飲み込んで、同化していくと思っている。でも違う。君は一方ではそう思っているが、一方ではそう思っていない。そして後者については目を瞑ろうとしている」


 澤村は何も答えなかった。


「君は暗闇が君を飲み込む事で君がその闇に飲み込まれる事が怖いんじゃない。君が本当に怖いのは、そうやって暗闇の中に入ってしまった時に、暗闇によって装飾的自我を一枚一枚剥ぎ取っていった先に、その先にあらかじめ何も残っていないという事が怖いんだ。つまり、君は君の中にある、ある物が露呈するのが怖いんだ。いや、正確に言えば無いと言った方が正しいのかもしれないね。君は暗闇の中に入って、実は自分の中心にある物が外にある暗闇とまったく同質の物であるという事が怖いんだ。君はその事に本質的に気づいている。それを再確認させる物でしかないんだ。暗闇の中で君が不安になるのは、それを見なきゃいけなくなるのが怖いだけなんだ。そうだろう。だからそれを必死に見ないように、孤島なんて馬鹿げた物を何もない空間に置いて、それが自分を守ってくれるなどという幻想を抱いて、自分の中の無を考えないようにしているだけなんだ。君は架空のバリケードを作って、何もない物を守ろうとしていたんだよ。そうして君は君が無でないという事を必死に証明しようとしてきた。でも、君は孤島っていう馬鹿げたものが本当は馬鹿げた物だって言う事に薄々気づいていた。そしてそれが今でははっきりと意味の無い物だという事に気づいている。つまり今まで、君は意味の無い物を信じていた。哀れなにひとくん」


 にひとくん、とそれは言った。その名前で呼ばれたくない、と澤村は思った。しかしそれは続ける。


「君は孤島なんて物があると思って信じて過ごしてしまった時間もすべて無に帰してしまったわけだ。孤島なんて言う、今は無だとしてもいつか辿り着く事が出来ればその無がすべて救われる事のできるなどという幻想を見る事で今の無を見て見ないふりしてきたくせにね。それが今君はすべて無に帰したんだ。君は無を求め続けてきたんだよ。無を避ける為に無を信じてきたんだよ。かわいそうなにひとくん。それまでの時間ってなんだったんだろうね、言ってやろうか、まったくの無だよ。かわいそうなにひとくん、無の上に立つ無の塊のにひとくん、何もないかわいそうなにひとくん」


 ならどうすればいいんだ、と澤村は思った。自分の事をもうこれ以上にひとと呼んで欲しくなかった。にひとと呼ばれる毎に彼は自分が耐えられなくなりそうだった。


「どうもしなくていいんだよ、ただ無は無であるだけなんだから。君はもうわかっているんだろう。


 すべては無、かつ無にして無、かつ無。無に召します我らが無よ。願わくは、無のきたらん事を。無の無に行われる如く無にも行われんことを。無の日用の無を今日無に与えたまえ。無らが無を無にするごとく、無らの無を無にさせたまえ。無を無の中に無することなく、無よりすくいたまえ。かくして無。無に満ちる無を祝福したまえ、無は無のものなればなり。



 だったら、あの自分を信じてきた時間というのはなんだったのだ。無ではない時間の為に無を耐えてきたあの時間はなんだったのだ。あの辛さは何の為に俺は耐えてきたのだ。俺は。


 澤村は自分が息が出来なくなっているのを感じた。慌てて彼は酸素を肺に吸い込もうとした。ヘモグロビンにそれを送り込む事で、全身に酸素を運んでいこうとしていた。しかしそれは無だった。彼は無を無に無しようとしていたのだった。無にそれを無する事で、無に無を無しようとしているのだ。彼は意味がわからなくなっていた。


「澤村さん」


 と誰か別の声がした。それはしっかりとした現実的な声であった。澤村の周囲にあるすべての暗闇が一瞬にして消えていた。ひどく目眩がして、澤村は倒れかけた。それをその声の主が慌てて腕を掴んで倒れるのを止めた。それは以前見た顔の醜い、右目の見えないという男だった。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です」と澤村は言った。しかしまったく大丈夫ではなかった。




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