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サクは近くでアルバイトをしていた。シキと同じように、個人経営の店だ。そこで彼女はまたシキと同じように、身柄を隠して働いているらしい。そして一人で暮らしていた。彼女はシキを殺すという物騒な目的を持っていた。しかしそれはしたくないようでもあった。普段の彼女達の仲の良さを見ると、そんな事は関係のないように思えた。
シキは頻繁に澤村の家に来た。彼女の家にはテレビも何もないのだ。そして食事を食べる事も多くなった。時々深夜までいて、泊まっていく事があった。しかしサクは澤村の家に住む、という選択肢は考えないようだった。一緒に住む事はまた違う事のようだった。
その日は鍋を食べる事になった。
澤村は鍋を持っていなかった。鍋をその日はサクと一緒に買いに行った。澤村は新品の土鍋の底を触ってその感触を確かめた。何も入っていない鍋の底はひんやりとしていた。
「何をやっているんだ?」とサクは聞いた。
「特には何も」と澤村は言った。「シキが材料を買ってくれている」
「そういえば、澤村はシキの事が好きなの?」
「さぁ、どうだろう」と澤村は言った。
家に帰って、シキの買っていた材料を入れた。鍋を作った。サムゲタン。
皆で手を合わせて、ご馳走さまでした。
「もう肉入ってないの?」とサクが不服そうに尋ねた。
「肉買ってないだろ」と澤村は言った。「鍋に入ってないもんは鍋の中からは取り出せないだろ」
なくなった容器を洗った。何も残っていない。何かが入っていたのに。それは等しく(等しく?)澤村とシキとサクの腹の中に入っていった。腹はいっぱいにはなったものの、澤村は自身が明日の昼にはまた何かを食べなければいけないような気がした。どうしてこれだけの物を、自分の中に留めておく事が出来ないのだろう。
※
その日澤村は朝から体調がよくなかった。季節の変わり目の急激な変化に、肉体が上手く追いつく事が出来なかったのかもしれない。彼は昼と夜に一つづつアルバイトが入っていた。単調な作業で辛くはなかったものの、それは彼の体を少しづつ蝕んでいくのには十分過ぎるものだった。
深夜のアルバイトを終え、重い体で彼は家に帰ろうとした。しかし彼は気づくと、帰り道として、シキに襲われて以来使うことをためらい続けている道を歩いていた。彼はその道を使いたいとも思っていなかったし、その道を使って早く帰りたいと思っていただけではない。だが彼は意図せず、自分の足がその方向へと向かっている事に気づいた。まるで意識の下にある部分が、その道を求めているかのように。
その道は大した道ではないはずなのだ。ただ単純に、街頭がなく、深夜になると光が届かなくなる、たったそれだけのものだ。何かがあるようには思えないのだが、なのに一体どうして俺はこの道を怖いと思い、何かがあるかのように思ってしまうのだろう。
気づくと彼はシキが待ち伏せをしていた道の角へと着ていた。ト型の分岐点、ただ単純に暗い曲がり角。曲がればその先が見えなくなる、それだけのことだった。
何も見えない暗闇の道の中に、一歩自分が踏み出していった時、急にそこで体が動かなくなったことに彼は気づいた。暗闇の中で感じるあの感覚がまた始まった。暗闇が瞬間に自分を包むように急速に広がり、視界がすべて奪われる。暗闇の中、彼の体の感覚はなくなっていく。音もなくなり、足が地面に立っているという感覚がすべて消し飛ぶ。自分が立っている場所という物がなくなり、まるで宇宙空間の中にいるかのような状態になる。
その中で、自分という物はあった。しかしそれは、時間経過と共に、少しづつ、しかし確実に暗闇と同化されていくような状態だった。
澤村は暗闇から自身を守る為に、孤島の事を思い浮かべようとした。孤島の形を思い浮かべようとした。しかしその孤島の形が上手く思いうかべる事ができなかたった。一瞬にしてすべての孤島が無駄になった。孤島の枠を作り出そうとする度に、その中に入っている彼の魂が、その孤島の綻びを見つけて、それを指摘する。そして最終的には、お前は本当に孤島の事なんて物を思っているのかと言い出す。その枠に入ってしまったヒビから、暗闇は侵入してこようとする。孤島はもう動作をしないのかもしれない。しかし、でも、もし、孤島がないとすれば、孤島がないとするならば……。
「大丈夫ですか?」
とすべての感覚が死にかけた中、澤村は背後から誰かに声をかけられた。男の、中年の声だった。母語のネイティブスピーカーだとわかるが、滑舌が悪く、にちゃ、と口内の唾液が弾ける音がし、サ行が上手く発音できていない音だった。歯並びに問題でもあるのだろうか。たった数音節のその言葉を、ここまで不快に感じるなんて、と澤村は思った。声質も不快だ。その声には、声だけで人を不快な気分にさせる才能という物が備わっているのかもしれない。澤村はそれでも、その声に頼るよりほかはなかった。しかし、声が出なかった。
「落ち着いてください。心配しないで、わかります。息を大きくすって、はいて。さぁ、腕を握りますね」
男の不快な声は続いた。そこで彼は聴覚が元に戻っていることに気づいた。空気の音がした。
やがて澤村は、男に自分の腕を掴まれたことに気づいた。それも不快な感覚だった。分厚く、脂肪の溜まった掌の肉だった。手は汗をかいているようで、ねばねばとした感覚がまた澤村を不快にさせた。
「ここは危ないです。移動しますね、歩きますよ」
と男は言い、澤村の腕を引いた。
「ああ、はい」
そこで澤村は自分の体が自分の感覚と結びついていることに気がついた。声が出るようになっていた。自分には足があり、自分は地面に立っていた。暗闇の中、感覚が戻ってきていた。しかしそれでも、暗闇の中はまだ何も見えないでいた。
男は澤村の腕を掴んで歩いた。その手は不快極まりなかったが、だんだんとその手に引っ張られている間に、その手がとても安心出来る物のように思えた。この暗闇から出る為に必要な物だった。安心感が産まれた。
この暗闇はどこまで続いているのだろう、と澤村は思った。家の近くにこんな道があったのだろうか、そしてどこまでも暗闇が続いている。この暗闇はどこまで続くのだろう。しかし澤村は、彼の手に引っ張られている限り、暗闇から出られるという安心感があった。
やがて街灯の光がぎりぎり届く場所にきた。そこで自分の手を引っ張っている人物が奇妙なほどに太っている事に気づいた。嫌な太り方だ。
「もう大丈夫です」とその男は言って手を離した。
そうして男は振り返ったが、澤村はその顔を見て少し怯えた。男の顔は今まで見た中でどんな醜い人間に負けず劣らず醜いように思えた。その男を見ているだけで、自分の顔にまでその醜さが伝染してしまうかのような気がした。左右で大きく骨格の形が違う。そこに付随する頬肉の量も違う。そのアシンメトリーは不快で目に見える物だった。もしどちらか片方を中心にもう一方も同等の顔をしたとしても、その不格好さは変わらなかっただろう。まずすべての骨格がおおよそ人と離れて歪んでいる。それはまるでその男は彼の本来の体にとって、彼の体にふさわしくない容れ物を使っているように思えた。彼の体にとって不都合な骨格を使った結果、そこに付随する肉が妙なつき方をして、見た目の奇妙さと歪みを引き起こしたと言ってもいいかもしれなかった。澤村は出来ればその顔をそれ以上もう見続けたくないと思った。
男の年齢はわからなかった。髪は禿げ、歯並びが悪かった。肌は荒れていた。
「ありがとうございました」
「もうあの道は通らない方がいいですよ、澤村さん」澤村さん、と男は言った。言い方に含みがあるような言い方だった。
「あの、俺の事を知ってるんですか?」
「初対面ですね。でも、私はあなたの事を知っている」と男は言った。「そしてあなたと話がしたいと思っています、よろしければそこで軽く話しませんか?」
断りたかったが、男に助けてもらった手前、断るわけにはいかなかった。
その喫茶店は、以前シキと来た場所ではではなかったが、非常に感じの良い喫茶店だった。照明は家のものよりも強い光を示し、店を照らしていた。掃除が行き届いていた。『清潔で、とても明るいところ』。店には二人のウェイターがいるようで、若い方のウェイターは、澤村から見てわかるくらい、早く閉店の時間がこないかなと思っているようだった。店には彼らの他に、一人の老人がいるだけだった。
応対したウェイターはこの世の物とは思えないほど不格好な形をした顔のその男の顔に極めて明確な嫌悪を隠せないでいた。男はそれを気にする様子もなく席についた。ウェイターは間もなく水の入ったグラスを持ってきた。
「慣れてはいますけど、やはりこういうのは傷つくものですね」澤村に説明するように言った。「私共は必要に応じて、どうしてもこちらに出てくることがあるのですが、やはりそういう悪意を向けられると、どうも、ね。私は自分が不格好なのを重々承知しています。右目も実は見えないんですがね、それすらこの骨格のせいではないかという気がしとるんですよ、実のところは」
まるで普段はそのような目で見られることはないような言い方だった。。
「時々こちらに出てくる、ですか」
「普段私共は極めて限定された場所で、極めて穏やかな空間で生活をしているんです」と男は言った。「山の奥で、そこで私共は私共だけの集団で独自の文化を作り、そこで生活を送っています」
とその男は言った。頼んでいた飲み物が運ばれてきた。それに澤村は口をつけたが、男はそれには手をつけず、代わりに水を一気に飲み干した。
「そこでは孤独もなく、貧困もなく、暗闇もない」




