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一部



 十年間使い続けた洗濯機が壊れた日の深夜、澤村は路上で物盗りに襲われた。


 それはアルバイトからの帰路、街灯のない暗い道での事だった。暗闇の中、澤村は道の角で待ち伏せをしていた女に金属性のバットで殴りかかられた。奇跡的に避ける事が出来たものの、その一撃は澤村から正常な睡眠を奪う事になった。




 洗濯機はその日の夕方、脱水途中に奇妙な悲鳴を上げ、以後なんの反応も示さなくなった。洗濯機はここ数ヶ月の間ずっと調子が悪く、よく途中で動作が止まる事があった。澤村はその度に容器を叩いたり、最後まで止まらず動作が終わるのを根気強く見届けたりと様々なあがきを行ってきたが、ついにその日洗濯機は十年の生涯に終わりを遂げる事となった。


 すべての事物には寿命というものがあり、この洗濯機も寿命を迎えつつあり、そろそろ買い替えが必要な事にも澤村は気づいていた。しかし気づいていただけで澤村は具体的な対策(例えば貯蓄など)を何ひとつとってこなかった。『そろそろ』という時間は、自分にはどこか遠く、関係のないものだと思っていた節があった。


 思えば長く持ったものだ。もう十年も持ったのだから、俺が中学一年、十三歳の頃から使い続けた計算になる。


 その十年の間に澤村は人より少し遅い第二次性徴期を迎え、反抗期を迎え、暗く長い時代を迎えた。当時から比べれば澤村は、澤村仁人という精神体は同じだけで、別人のような肉体の容れ物を持った人間になったと言って良いかもしれない。きっと誰も中学の時の彼と今の彼を同一人物だとは思えないだろう。実際のところ、肉体にせよ、その容器の中に入っている精神にせよ同じであり、同じでないはずがないのだが。


 しばらくは近場のコインランドリーに行くしかないだろう。洗濯機は確かに必要なものだが、今は新しい洗濯機を買うだけの金銭的な余裕がない。もっとも、今の経済状況では、新しい洗濯機の為の貯蓄が出来るとも思えないが。


 澤村は蓋を開けた洗濯機の死骸の中に、脱水の終わらないままの洗濯物――主に彼の服だ――を放置してアルバイトへと出かける準備を始めた。蓋を開く事で、少しでも乾いてくれればと思ったのだ。澤村は後でもう一度別の容器で洗濯を行わなければならないなと思いながら、グラスに注いだ水を飲んだ。水は虫歯の部分に染み込み、鋭い痛みに思わず顔を顰めた。歯も治療をしなければならないだろう。しかし目下、彼の家計では、新しい洗濯機を買う余裕どころか歯医者に行くだけの余裕すらなかった。


 澤村が女に襲われたのは、その日の深夜まで続いたアルバイトが終わり、人気のない暗い道を歩きながら家へと戻る時だった。





 暗い直線道、そこに合流するようかのように生えた角に差し掛かった時だった。暗闇の先で待ち伏せをしていたソレの些細な足音に気づけたおかげで、澤村は金属バットの振り下ろしに反応する事が出来た。

 唐突に向けられた攻撃的な悪意を、澤村は奇跡的に避ける事が出来た。あまりにも急な事に、全身の神経が過剰に反応し、すべての毛穴が一瞬にして開き、嫌な汗が出た。バットは澤村の体を捉える事は出来なかったものの、何か別のものを確実に捉えたようには感じた。何か、目には見えない物を。しかし実際のところ、バットは空を切っただけだった。


 かすかに視覚が生き残るその場所で、澤村は自分がバットで殴りかかられた事、バットを持った人物が自分よりはるかに背の低く、髪の長い女である事を確認した。しかしそれらを上手く自分の中で結びつける事が出来ないでいた。彼の思考はその時、自分が今危機的状況にあるという事にのみ焦点が置かれていた。先程の振り下ろしを避けなければ、そしてもし打ちどころが悪く、例えば頭にあたっていたとしたら。彼の頭蓋は砕かれ、死んでいたかもしれない。


 逃げなければ、という意識が澤村の体を支配した。それは感情ではなく、純粋な本能による反応だった。澤村はその肉体の命令に突き動かされるように、慌てて走り出していた。女はそれに戸惑い、再びバットを持ち上げそのまま追いかけようとしていたが、深追いのような物はしてこなかったようで、しばらく走った後、澤村が振り返った時には姿はなかった。


 誰も追いかけてきていない事を確認しても、澤村の動悸は一向に収まる気配がなかった。もしかしたらさっきの人物は先回りをして次の角で同じように待ち伏せをしているのかもしれない。そう思うと、彼は落着く事が出来なかった。


 家へ帰ると、彼はいつもより多く鍵をかけた。


 それから、改めて自分が死んでいたかもしれない、という事を考えた。動悸が激しく、普段は使わないような毛穴からも大量に汗が出ていた。澤村は急いで部屋の電気を付けた。


 澤村は心を落ち着かせると、自分がひどく汗をかいている事に気づいた。服が肌に張り付き不快で、風呂に入る事にした。脱いだ服を洗濯機の中に放り込もうとしたところで、洗濯機が壊れている事を思い出し、ため息をついた。澤村は仕方なく、近くにあった籠の中に一時的に服を放り込んだ。






 湯船に浸かっている間、澤村は落ち着く事が出来なかった。「もしかしたら」という疑心暗鬼に悩まされていた。もしかしたら、風呂の外の暗闇の中に、先程のように何かが息を潜めて待ち伏せをしているのかもしれない。そんな一見とんでもないような考えが、彼を真剣に悩ませてしまっていた。


 彼は湯船から出て、浴槽の栓を抜いた。渦を巻きながら湯が吸われ、空になっていくバスタブの小さな穴の奥を見ていた。そこは暗かった。


 風呂からあがった彼は、慎重に台所の電気をつけ、そこに誰もいない事を確認した。それに安心すると、彼は自分の喉が酷く乾いている事に気づいた。彼は肉体から失われてしまった水分を補給する為に、グラスに水を注ぎ、それを飲んだ。


 もうさっさと眠ってしまおう、澤村はそう思った。そして寝室として使っている自室へと向かった。さっさと眠って嫌な事は忘れてしまいたい。しかし、いざ眠ろうと部屋の灯りを消すと、部屋の暗闇の先に、自分以外の何かがいるような気がして不安になった。


 その不安に耐え切れなくなり、部屋の明かりを最大にした。誰もいない事を確認すると、彼はやっと落ち着く事が出来た。しかしその事が確認できても、再び電気を消す事に対し恐怖を感じてしまった。仕方がない、今日はこのまま眠ってしまおう。部屋の電気を付けたまま、澤村はそう思い、ベッドに入り目を瞑った。だからと言ってなかなか眠りは彼の元に降りてこなかった。


 彼がようやく眠れたのはそれから三時間後の事だった。その時彼は孤島の事を考えていた。




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