第六話『 永遠にさようなら』
「 テディー様、まだ分かりませんか? それ以上発言すればする程、海の心は遠くなると言うことに 」
なぜ同じ様に上流階級の虎族の家で育ったナイジェルには理解出来るのに、無垢なこの人にはこんな事が理解出来ないんだろう。
「 君は僕の事が好きで仕方なかったはずだ、そうだろう? 」
事を悪化させる言葉しか吐かない主に遂に呆れた様に顔を覆うナイジェルを尻目に、私は冷静にそれを受け止める。
「 今なら許してあげるから、ね? 早くそんな剣を捨てて僕の手を取って 」
乞うように真っ白の傷ひとつ無い手を差し出して来たテディー。
色んな思い出が脳裏に蘇って来る……木陰で心地良さそうに居眠りしているテディーの寝顔も、真剣な顔で国の未来を兄と議論するテディーも、子供に柔らかな笑みを向けるその眼差しも。
ーー最後までたったの一度も好きだと言ってくれなかった残酷な彼の笑顔も。
「 貴方様は恋人と言う肩書きの私と過ごした時間を、幸せだと感じた事はありますか? 」
淡々と声をかけた私に、眉を顰めて苦い顔をしたテディーは今更なんだと言う眼差しで私を射抜く。
「 ……っ、僕はーーー 」
「 私は一度たりとも幸せだと感じた事はありませんでしたよ 」
呆然とした顔で力の抜けた手をダランと垂れ下げたテディーを見つめていると、私が乗るはずだった連絡船の出発した汽笛の音が聞こえて来た。こんな風景を古い映画で見たことがあるな、と、状況にそぐわないそんな呑気なことを心の何処かで思う。
「 ……う、み 」
「 恋人になる前は確かに幸せでした。 大切な友人達に囲まれて、貴方に恋をして心踊りながら日々を過ごしていたのは間違いではありません。 ですが、恋人と言う肩書きを背負った途端、貴方様は変わってしまいました 」
短剣は意外にも重たくて段々と手が震えて来た。 靴を鳴らしてナイジェルに近寄って、元の位置に短剣を差し込むと心底安堵した様なナイジェルの吐息が聞こえる。
「 死ぬつもりなんて毛頭ありません。 ただ、城に戻り貴方のそばで飼い殺されるか死ぬかの二択なら、迷う事無く後者を選ぶと決めた私の覚悟をご覧いただいただけです 」
元の位置に戻って木の長椅子の背に手を添えながら、遠くなって行く連絡船をぼーっと眺める。
誰も声を発することはなくて、ただただ沈黙の重たい空気が流れる。
「 楽しかったですか? 」
突然問い掛けた私に、憔悴した様な顔のテディーは視線を上げる。
彼は彼なりに必死なのかもしれない……逃げて行くお気に入りのオモチャを子供の様に駄々をこねて取り返そうとしている。
「 私の恋心を散々踏み躙って、楽しかったですか? 」
潮風に私の癖のある黒髪がフワフワと靡く。 この世界でも随分と褒められた、染めたことのないこの黒髪は何時だって私の自慢だった。
テディーが私を褒めてくれることは、結局今日の今日まで無かったけれど。
私はあの出来事が起こる前日に心に決めていた。 彼と交わした” 浮気をしない” と言う約束を破ったら、今度こそ本当にテディーの元から去ろうと……でも、彼を最後まで信じたかった。 きっと今回の約束を最後に、もうこんな悲しい事は起こらないと。
でも、そんな思いすらテディーは踏み躙って私のベッドで女と戯れてたんだ。 どうしてか、愕然と立ち竦む私に無邪気で不敵な微笑みを浮かべて。
「 そうでした、言い忘れていましたがーー 」
一旦言葉を切り背筋を伸ばしてテディーへ一歩ずつ歩みを進めると、彼は現状が把握出来ないと言った顔で私をただ瞬きもせずに見つめている。
「 貴方様に心配をして欲しくてこんな事をしたのではありません……私は、貴方を見限ったのですよ? 約束を守ろうとすらしなかった貴方を、私はもうーー 」
「 ……っ、海? 」
我に返った様に顔を歪めるテディーは、異様に焦った眼差しでに私を凝視する。
今だって、テディーが好きで仕方ない………でも彼と居たって、私は幸せにはなれない。
「 決して自分の力で得た訳ではない”第三プリンス”と言う衣を羽織りその称号に胡座を掻いて鎮座する貴方様よりも、毎日汗をかいて仕事をする普通の穏やかな男性と私は人生を共にしたいので 」
お金の価値を知っていて、恋人を大切に出来る穏やかな男性とーーーだから、私は言うしか無いんだよ。
「 私はもう、貴方様をお慕いしておりませんので。 心の底から”大嫌い”です 」
私は大好きなこの人から卒業しなきゃいけないんだ。
どれだけ願ったって、この人はきっと今迄と変わらずに浮気を繰り返して、反省の色も見せずに朗らかに微笑むんだから。
「 グリンディール帝国の末永い繁栄を心より願っております”プリンス・テディー” ……そして、二度と私の前に姿を現さないで下さいませ 」
真顔の私はスッと拳を天高く掲げた。
愕然と立ち竦むテディーはそんな事にすら気づかないほど、ネジの切れた人形みたいになっていて。 ナイジェルは私のそれが何を意味するか瞬時に察した様で、突然声を荒げて、私の腕を掴もうと千切れるほど手を伸ばして駆け寄って来る。
「 永遠に、さようなら 」
「 ……っ、辞めろ‼︎ 海‼︎‼︎ 」
ナイジェルの怒声に我に返ったテディーが、天高く挙げた私の拳の中の物を察したのか途端に血の気が益々引いて、絞り出す様な悲鳴を上げる。
「 ……っ、待ってくれ‼︎‼︎ 海! 」
そのテディーの声と同時に二人の手が私を掴もうとした瞬間、有りっ丈の力で小石を地面に叩きつけた。
ーーー私の名前を雄叫びの様に叫んだテディーの声だけが最後に聞こえた。
ーーーー
ーー
コツコツと甲板の床を踏みしめると、本を顔に伏せて眠っていた少し行儀の悪いおじさまがその音にのっそりと上半身を持ち上げる。
「 んぁ、あっれぇ……お嬢さんさっきから此処に居たか? 」
「 え、居たよ? ずっと此処から海を眺めてたけど、貴方は寝てたから気づかなかったのね 」
「 おっかしぃなぁ〜、お嬢さんみたいな美人さんなら俺のこの目が逃す筈がないんだが……まぁ、いっか 」
私が乗るはずだった連絡船は、予定通り私を乗せて向こう岸のサンバンを目指して順調に航海を進めている。 婆ちゃんから貰った瞬間移動魔法の込められたあの石は多分きっとあの待合室で粉々に砕けて消えてしまっただろう。
婆ちゃんはもしかして、未来を透視する力でもあるんだろうか?
奇しくも有効に使う事になったあの石を、私がそうやって使う事を最初から気付いていたんだろうか。
船首の手摺に腕を置いて顔を埋めながら、潮風に身を任せていると、先ほどのおじさんが背中を優しく叩いてくれた。
「 あぁ……なんだ、その、アレだよ。 恋の痛みってのは次の男で癒せば良いんだから、な? ……ほれ、これ飲みな。 好きなだけ泣いたらきっとスッキリするだろうよ 」
「 ……っ、どうして恋の痛みだっで、分がるのっ、くっ 」
声を殺して子供みたいに泣きじゃくっていた私が顔を上げると、女の泣き顔にアワアワした様子のおじさまが慌てて私の髪を撫でてくれる。
「 そりゃお嬢さん、女の子が泣いてる時は大抵男絡みだろう? 」
「 私ね、本当に大好きだったの……っ、今でも好きで仕方ないの、あんな欠陥人間でもね、本当に良いところも沢山あったんだよ! でもね永遠にさよならって啖呵切って来た…っ 」
鼻水が出そうなほどわんわん泣き喚く私を見て、思わず吹き出したおじさまは綺麗なハンカチを私の顔に充てて優しく背中をさすってくれた。
「 やるじゃねぇかお嬢さん! あんたみたいな美人さんに振られて今頃その男も失った物の大きさに愕然としてるだろうよ! な? よく頑張った、偉い偉い 」
「 本当? コレで良いんだよね⁉︎ だって、私はずっと頑張ったよ…っ、 」
「 あんたが選んだ事があんたにとっての正解だろう? くよくよしちゃいけねぇな! 女は愛嬌だぞ! 」
「 …っ、うん!男は度胸なのに彼には異常なまでの愛嬌しかなかったよ…っ、今度は幸せになるよ!もう吹っ切る! 」
豪快に微笑んでくれた気の良いそのおじさまに慰めて貰いながら、私は思う存分泣き喚いた。このままでは泣きボクロが、大きくなってしまいそう。
ーー連絡船はそんな私達を乗せて、陽気にいつも通りの航海を進めていた。
ーーー
ーー
サンバンの安宿のベッドは日本で愛用していたベットの様に少し硬くて、寝返りが打ちやすい。 そんな事小さな偶然が心をとても穏やかに包み込んでくれる。泣き喚いてから数時間経った今でもまだ熱の残る瞼を閉じてみると、船の上で見た荒波の様だった心は思いのほか穏やかな凪になって静かに音を立てている。
「 ……さようなら、テディー 」
シーツを顔まで上げるとお日様の様なあったかい香りが鼻を掠めた。
本当は、テディーに理解して欲しかった。 私が伝えたかった大切な事を全て分かって欲しかったけれど、プリンスとして生まれたあの人が労働なんかする訳もないし、人に蔑まれたり怒られたり何てことも経験しないんだろう……そうやって覚えて行く”生きる”と言う大変さを口で説いたってわかりっこないよね。
狙った獲物を逃がさないテディーが、女の子に傷付けられてその痛みを知る事もきっと、ないんだ。
物語の主人公はどうやって王子様の心を鷲掴みにしたんだろうな………私の場合は、着ていたリクルートスーツをドレスに変えて、ただ手の先から少しの血を魔女に与えるだけで役目を果たしたから、大冒険なんてなかったし、テディーと誰かが私を奪い合うなんて事もなく、現実は最初から最後まで私の片思いだった。
女の子とキスするたびに泣いて怒った私を愉しむ様な、からかうような眼差しで見つめていたテディーは、段々と反応が薄くなった事にご不満を覚えて、最後の最後は他の女を事もあろうに私の目の前で抱いたんだ。
本当に穏やかで優しい人だったけれど、余りにも資産と名誉と周りに恵まれ過ぎてしまった人。
その所為でテディーは子や動物には優しいけれど人には時折、目を疑うほど無垢で残酷な刃物を振り回す、赤ちゃんのように育ってしまった。
” 私は傷付いてるんだよテディー! ”
そうやって何度だって伝えたけれど、何度もその想いは裏切られた。
その言葉が理解出来ない異国の言葉だとでも言うようにコロコロと平然に喉を鳴らしていたあの人とは、どれだけ頑張ったってきっと分かり合えないんだ。
「 ……私は、貴方しか出て来なかったんだよ? 結局言えなかったね 」
枕に顔を埋めた私の、誰にも言えなかったこの話。
あんなにも容姿端麗で性格だって文句のつけようがない彼等と過ごしていたのに、それでも何かが欠落した危ういテディーを愛してしまったのはーーーー多分。
「 私は貴方の小さかった頃を知ってるんだよ? ……テディー。 貴方は小さい頃から名前の通りテディーベアみたいにギュってしたくなる可愛い男の子だったよね 」
ずっとずっと、小さな頃からあの人の可愛い笑い顔を夢で何度も見てしまっていたからなんだ。