第五話『 無垢な悪魔 』
あの日乗っていたあの汽車の汽笛が遠くから聞こえてくる。
此処では毎日の様に”あの神聖騎士軍がバゼルにやって来て何故か引き返したらしい”とそんな噂で連日連夜持ちきりだった。
「 イーちゃん、二週間手伝ってくれてありがとうね! はいコレお給料ね 」
「 ありがとう! ……って、これ間違ってるわ。一万ルベア多いよ? 」
「 良いんだよ。 それは私達からの選別。 故郷のお父さんの元に帰る為に一生懸命ここの仕事をしてくれたイーちゃんにご褒美 」
店主の御夫婦が優しい眼差しで、お給料を取りに来た私に言葉をかけてくれて、その人柄に感激と罪悪感が同時に押し寄せてくる。
出会う人出会う人皆優しくて、傷付いた私の心を癒してくれる。
「 ……ごめんなさい 」
「 ありがとうでしょ? さぁ、次の船が来ちまうよ、また此処にも遊びにいらっしゃい 」
カナダの1.5倍はありそうなこのグリンディール帝国は複雑な地形をしていて、港町の一つであるこのクザンからも帝国内の港町を結ぶ連絡船が出ている。 私は今日、二週間滞在したこのクザンから海の向こうに見える同じ大陸のサンバン行きの連絡船に乗り込む予定だ。
その方が馬車よりも早く、尚且つ汽車よりも安上がりで済む。
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ーーー
「 はい、お釣りね。 あと10分もすれば船が来るよ、荷物はコッチで預かっておこうね 」
「 ありがとう、おじさま 」
陽気な係員さんになけなしの荷物を預けて、乗り場から離れたひと気のない待合室の中に待機する。
日本から身に付けてた装飾品の全ても、城で与えられたドレスも全てあの城に置いて来た。
日本の装飾品は珍しいし、きっと高く売れるだろうと踏んだ私の、城でお世話になった事へのせめてもの感謝の気持ちだった。
お婆ちゃんの形見だったから離したくなかったけど、致し方なかった。
窓のない簡易の待合室から見える海は潮の香りが漂って来て、行き交う連絡船の汽笛がなんだかロマンチックで中世の様な雰囲気だった。
そっと目を閉じて思いを馳せようとした私に信じられない人の声が掛かる。
「 ……随分、探したぞ 」
肩に置かれたその革の感触のグローブは真っ白で、聞き慣れたその声に私は思わず立ち上がってその場から離れる。
驚愕して声が出ない私を、真剣な眼差しで見つめているのはあの日私を探しに来ていたーーー
「 ナ、ナイジェル…… 」
「 A.B.C.Dだったな、確か。 となると、この地域で名前はさしずめ”イー”とでも名乗っていたんだろう? まぁ、これに気付いたのはお前からそれを教えて貰っていたフィリップ殿下だったがな 」
待合室の柱に背を押し付けて驚いている私に、お忍びの姿をしながら、淡々と話して来るナイジェルの右の額から目の下まで刻まれている虎族の紋章が悲しそうに暗く歪む。
「 フィリップ殿下も、セドリック様も……国王陛下も私の仲間もお前が居なくなってから随分と憔悴しているぞ。 どうして、手紙を残して行方を眩ました? ……私達は、お前にとってそんなに簡単な存在ーー 」
「 ……っ、違う! 」
ナイジェルの言葉を遮って、大声を出した私に彼は眉を下げて曇った顔を見せる。
何時だって味方でいてくれた大切な友人を裏切る様にして逃げ出した事に、兄の様な人達にサヨナラも告げずに出てしまったことに罪悪感を忘れた事なんて一日も無い。
「 すまん……コレは私の自分自身への怒りだ。 お前が苦しんでいると知っていながらも、何もしてやれなかった。 テディー様を問い質した。 お前の出て行った理由を皆が知っている 」
ーー女とベッドで戯れる、大好きなテディーの不敵な笑顔が脳裏に浮かぶ。
「 貴方たち、引き返したって、噂では……そう言われてたよ? 」
「 厳密には私だけ引き返したが、すぐに戻って来た。 バゼルの街でお前の行き先には大方目処がついたからな 」
先読みされていたんだ……敢えてクザンに方向を変えたことすらも。
やっぱり優秀な彼に太刀打ちなんて出来るわけがなかった。
こんな事をさせてしまった罪悪感と、本心では会いたくて仕方なかった彼と話したことで、心から何かが溢れ出しそうだった。
「 ナイジェル……ごめんね、ごめんね。 私ね、私っ、もう分からなくなっちゃったの 」
「 場所を変えよう、うーー 」
動揺する私を落ち着ける様な口調で、ナイジェルの唇が私の名前を紡ごうとしたその時だった。
私の耳に突然その声が聞こえて来て、途端に金縛りにあった様に動けなくなってしまった。
「 ……っ、海 」
” うみ ” そうやって私の名前を呼ぶその声は、もう二度と聞くことは無いと思っていたし、まさか、こんなところで聞くとも想像すらしてなかった。
「 全く、こんなところに居たんだね 」
小物を付けて変装している商人の様な身なりの彼は、それでも風格と気品を隠し切れていない。 指の先から足の先まで全てが洗練されていて、嫌でもそんな彼に鼓動が唐突に騒ぎ始める。 嘘だ、きっと幻でしょう? だって、居るはずがない。 こんな王都から離れた港町に……そうだよね? だって、何故。
そうか、挙動が少し乱れながら驚いているナイジェルが一度一人だけ王都に戻った理由って。
「 テディー様! っ、向こうで騎士達と少しお待ち下さいと申し上げましたのに…… 」
「 僕は自分の思うように動かせて欲しいんだけどな。 海、どうして僕の言葉に返事をしないの? 」
彼の言葉に返事を返さなかった私に、歯痒いように眉間に皺を寄せて珍しく怒った眼差しのテディーは、綺麗な緑に怒りを纏って話しかけてくる。
「 ”ごめんなさい” と君が言えば、今なら許してあげるよ? 」
「 ……っ、テディー様! 」
彼は、何を言っているんだろう?
潮風に柔らかな金髪が揺らめいて、長身の彼の周りを柔らかく吹き荒れる。 からかうような、それでいて咎めるような視線で私を見つめるテディーを、虎の如く鋭い目で止めようとしたのはナイジェルだった。
「 海、君は僕の物だろう? ……プリンスである僕の許可もなく、勝手に城から逃げ出すなんて不敬罪に値するよ。 今なら咎めないから、さぁ、ごめんなさいと言ってごらん 」
あの日の事なんて無かったかのように、私に同意を求める彼は、その首を愛くるしい子犬みたいに傾げて微笑む。 テディーのそんな以前と変わらない飄々とした態度と言葉に、彼が此処に来た理由を少しだけ期待してしまった馬鹿な私は途端に冷静に戻る。
ーー私はやっぱり彼にとってお気に入りの”オモチャ” でしかなかったんだ。
「 ……海、 荷物はどこにあるの? 早く城に戻ろう、だから早く謝ってよ。 今なら許してあげるって言ってるでしょう? ね、あぁ、そうだ君に似合いそうなドレスを10着新しく作らせたんだよ 」
何も言わない私に、段々と早口で矢継ぎ早に話すテディー。そんな彼の夢心地のようなとろけた声が私は本当に大好きだった……子供や動物に優しい彼にぴったりな声。
「 ねぇ、僕に心配させたくて此処までしたんでしょう? 僕が好きだから、愛してるから……だから、許してあげるからとにかく、早くごめんなさいって言ってごらん? 」
「 ……っ、テディー様! 少しだけお待ちください、先に私に海と話をさせて下さい! そう約束をした筈です! 」
「 うん、そうだけど、でもどうして? 海は僕の言う事に逆らったりしないよ 」
なのに、大好きなその声が今は何よりも心臓を抉る言葉を投げかけて来る。あっけらかんと不思議そうに眉を下げる彼を見て、 涙が出そうな瞳を一度だけ閉じて深呼吸をする……絶対にこの人の前で泣きたくなんてなかった。
「 ねぇ、海。 僕が他の女と身体を重ねた事にヤキモチを妬いたんだよね? それで怒ってこんな事をしたんでしょ。 不敬罪になる前に早くごめんなさいって言ってごらん 」
「 テディー様! っ、お辞め下さい!」
どうにかして私に謝らせようと躍起になっているテディーの顔は少しつづ焦りが出始めていて、ジリジリと美しい動作で私に近づいて、拳を握りしめていた私の手を取った。
「 ……っ⁉︎ 」
その手を思い切り振り払った私の顔を見て、何故か愕然としているテディーが視界に映り込む。
やっぱりこの人は変わりっこ無い……人の痛みが根本から分からないんだ。 余りにも心と言う物に無頓着で、生まれたての赤ちゃんみたいに何でも許されると、生きて行くのは簡単だとたかを括ってる。
やり場のない恋心と悲しさと怒りに支配された私は、震える手を左胸に添えて作法を取る。
呆気にとられる二人に心の篭っていない声で話し掛けた。
「 ”プリンス・テディー”貴方の仰る通り私は此処で不敬罪を背負い、その報いを受けましょう。 どうぞ?お好きなところを刺して下さいませ 」
会釈をし続ける私を見つめる彼らの愕然とした視線がジリジリと肌を刺すけれど、私は絶対に顔を上げなかった。
「 ……っ、何を言ってるの海。 そうじゃなくて謝ってくれたら許してあげると言っているんだ 」
「 いえ、私には貴方様に謝る事など一つも思い浮かびませんので。 ですので今此処で私を殺めて下さって結構です 」
「 ……っ、海、その話口調を辞めてよ。 何故いきなりそんな話し方をするの 」
戸惑ったような何時もと違うテディーの声と共に、私の両肩が彼に強く掴まれてそのまま視線の先にテディーがしゃがみ込んで入って来た。
「 ……海? 」
小さな子供が機嫌を伺う様なその眼差しに耐えきれなくて、私はその場から数歩勢い良く下がる。
その眼差しでテディーは幾度と人を虜にして操って来た。 無意識のうちにそれを使い分けるこの人は、無垢な悪魔。
沈黙と重い張り詰めた空気が三人に流れたそんな時、ナイジェルの腰に携えた短剣が私の視界に入ってきた。
「 ……っ、海‼︎ 何をする気だ‼︎ 」
鞘から抜いた短剣を震えの治まった右手に持って、私の首筋に当てる。
「 よせ、馬鹿な真似は辞めろ… 」
興奮させない様に努めるナイジェルの緊張感が隠せない声を聞きながら、私はまっすぐに無表情でテディーを見つめる。
テディーはそんな光景を信じられないといった表情で、ただ唖然と見つめていた。
「 また貴方様のオモチャになるくらいなら、私は此処で死を選びたい 」
「 ……な、にを言ってるの 」
「 分かりませんか? 貴方様の気まぐれで飼い猫の様に扱われるのなら、またあの頃の様に心を殺して生きねばいけないのなら、私はいっそ命を終えましょうと申しあげているのです 」
緊迫の糸が張り詰めたこの空間で、誰も一歩も動こうとはせずに、テディーは無表情で言い放った私の言葉に金縛りにあった様に瞬きすら忘れて私を見つめている。
息をするのさえ忘れていたらしいテディーは、狼狽えながら私に問いかけて来る。
「 飼い猫……心を、殺す? 」
「 人の心なんて分からない貴方様にはきっとご理解頂けないでしょう。 想う人に幾度となく裏切れる絶望も、毎日少しずつ心が殺される感覚も……何もかも 」
「 何を言ってるの? ……う、み? 」
本気で何も把握出来ていないらしいテディーのその困惑して狼狽えた顔に、イライラが治まって代わりにどうしようもない感情が溢れて来る。
最後の最後まで想い合えなかった事も、少しも恋心を分かってくれなかった悲しさも……こんなにも、虚しいことってないだろうな。
貴方はその権力を盾に、今迄何でも手に入れて来たよね。高価な品も躊躇なく買い占めて、誰かが自分を支えるのがごく自然だと思ってる……お金を稼ぐ事の大変さを知らない貴方に、1ルビアの真の価値なんて、きっと、きっと……貴方には。
「 プリンス・テディー? 貴方様が私がずっと伝えたかった沢山の想いを、永遠に理解出来る時は来ないでしょうね 」
放心しているような、動く事を忘れたテディーを見つめながら私はただ、淡々と言葉を心とは別の場所から放ち続けた。
「 そして、人の心を理解しようとしない高貴な貴方様はーー 」
「 待って、海! 」
何故が困惑した顔のテディーが、真っ青な顔で私に手を向けると、おずおずと言葉を紡ぎ出した。
「 君は、王城での生活を楽しんでいたでしょう? ……それに、僕とーー 」
「 楽しかったですよ? お兄様や騎士様、みんなに囲まれて穏やかに過ごしていたあの頃は、帰ることを諦めるほどに心地良い時間でした 」
「 ……っ、なら、何故⁉︎ 僕と過ごしていた時間も君は間違いなく幸せだったはずだ! 君の望む物を全て買い与えていたはずだろう⁉︎ 」
テディーが、同意して当然だと言う風に珍しく声を荒げて投げかけて来る。 その顔は何処か焦った様に真っ青のままだった。
思い出す……彼は何時だって、私に高価なドレスや宝石を買い与えていた。 それを望んだことは一度もなかったのに、女はそれを望む物だと生まれながらに教育された彼の価値観は何度言おうと変わらなかった。