骨喰噺
死人は傍観する。
口は無い。
「ああ、いらっしゃい。ごめんなさいね、わざわざ、いそがしいなか……」
「ああ、いえ、とんと。気にせんでください」
ああ、この妙に年寄りじみた言葉使いは千逢独特の話し方だ。
居酒屋の店先で出会った時が中学三年生、今は春先だから、もう女子高生になったのか。
顔も西洋人形と日本人形をうまいこと混ぜ合わせたようにきれいだったし、声は澄んで、幼くて、そのくせ使う言葉だけは老いていた。「うん、解った」ではなく、「相解った」と自然に口からこぼれるような、そんな変なこどもで、成長しかけの女だった。
名を、千逢という。せんお、でもなく、ちあ、でもなく、ちお。
千の逢瀬を重ねる、と彼女は空想的な自己解釈をつけていた。
「俺も昔、妻と千の逢瀬を交わしたぞ」といえば、
「今じゃ、妻よりも長く私と会ってるくせに?」
そんな風に嫌みを返すこどもだ。なにも、彼女と不倫していたわけではない。
ただ、一風変わったこの美少女を、遠い昔、どこかで見たような気がしたのだ。関われば、その錯覚の真理に気付けるように思えて、俺は彼女のあしながおじさんになることにしたのである。
「お茶、入れてくるわ」
妻の声が遠のくと、千逢はこっそりとこちらに近づいてきた。
勤務先の最寄り駅でよく見かける、紺のセーラー服。だぼっとしたカーディガンも着ている。女子中学生ではなくなったはずだが、千逢にとっては、着慣れないブレザーよりも、セーラーのほうが喪服に感じだのかもしれない。彼女は黙ってこちらを睨みつけていたが、やがて、その飾り気も色気もない唇から、
「……久米野さん」
か細い声が落ちた。
「久米野さん、久米野さんっ、久米野……さん……っ!」
悲痛、だった。
「久米野さん、ねえ、私、これから……」
俺はふいに彼女に哀れみを覚えた。千逢は、日雇い労働者の養父と二人きりで暮らしていた。養父は実に勤勉な凡人だったのだが、仲間内で流行っていたドラッグにのめり込み、今では娘である千逢に関係を迫るほど頭のネジが吹き飛んでいた。
そうじゃないか。俺がどうでもいい事故でどうでもいい女と心中してしまったこの先、千逢はどう生きるというのか。
いたたまれなくなって、俺はいつものように、千逢の白黒まだらの頭に手に乗せたようとした。……ああ、だめだ。手はないんだった。だから、彼女の頭を睨む。
「まだ、ここにいるのですね」
千逢はふにゃ、と笑顔を見せた。
「千逢ちゃん、まさか、あのひとが見えたの?」
「まさか。なんとなく、頭をなでられたような気がしたんです……へへっ」
どうやら、睨めばどうにかなるらしい。妻もうれしそうにほほえんだ。二人して、ダイニングに向かう。
「あっ、六花亭」
「すきなの?」
「はい。あのひとがよく、買ってきてくれたんですよ」
「そう……」妻はちらりと俺を見て、「千逢ちゃん、これから、生活のほうは……その」
ためらった語尾も特に気にしないで、千逢はいつものように淡々と、他人ごとのように、
「おとうさんはもうだめですからね。私が働くことになりそうです」
「でも千逢ちゃん、せっかくあのひとと勉強して、特待生で高校に上がったばかりでしょう」
「女は便利です」千逢はにこりと笑んだ。「おとうさんのように、直接的な肉体労働をしなくてすむのですから」
実父はなんと俺と同じ教師で、養父の出はホストかなにか、千逢の実母もデリヘルだったらしい。千逢曰わく「ひび割れた水晶」みたいな顔立ちの、母と養父。
千逢はうつくしい血に呪われているのだ。
「……千逢、ちゃん」
呆然と妻はささやいた。「あなた、まさか、その、」
「お酒ついで話していればいいだけですから。おとうさんのことは、ちゃんと、私が面倒見るから」
その顔はいい大人が身を引くほどに仄暗いものだった。
「でも、そんなの」
「だいじょうぶですって。それに私、自分より年上の人と話すのに定評があるんですよう。」
「けど、まだほとんど中学生なんだから、そんな無闇に自分を売り物にしたら……」
「高校生になったばかりの中学生っていう、この肩書き、高値がつくんですよ。夜中に街を歩く人種じゃないから、けっこう、食いつかれますしね。服装はせいぜい、丈のいやに短いコスプレ。秩序を無視したような露出度高いメイド服とか、原宿にいそうなブレザー姿とか、遊女みたいな着物とか、ビキニとか……お客さんが望む服装をまとうスタンス。ね、安全」
俺は千逢のそういった姿を想像しようとしたが、どうにも、それは無理なことだった。千逢は肌を露出したがらなかったし、俺が触っていたのも、ところどころが白いマーブルになってしまって、肩口でさびしく揺れる髪だけだった。染めないのか、と聞けば、自分のことに金は割けないと、びっくりするくらいに真剣な眼差しで言われた。金がないのも、何もかも、養父のせいなのに、千逢は、その養父を生かすために自分までを売るのか。
「コスプレ……」
ふしぎそうに呟く妻には理解できない世界なのだろう。俺にもよく解らない。
一方の千逢は、鳥類で一番背が高いのはクジャクなんですよ、当たり前ですけどね、とでも言いたげな口調で、
「さすがに本職の中学生はいないので、私が最年少ですねえ。時給、はずむんですよ。やっぱり、かけがえなくて形あるものを売ると値がつきますねえ」
かけがえなくて形あるもの。
その物言いは、妙に文学めいていた。
「千逢ちゃん、もう一度よく考えて。ねえ、もし将来、好きなひとができて、でも、そのひとに、自分を守ってくれやしない義理の親のために自分の身を売っていたなんていえる?」
「いえませんよ。けれど、好きなひともできないです、から」
「恋くらい、するでしょう」
「しませんよ。おとうさん、を、守らなきゃ、いけない、から……」
ああ、やっぱり、奈落の底のように暗い目をしている。
なぜ何の価値もない人間を、未来ある自分の身を売ってまで守ろうとするんだ、千逢。
「私ねえ、奥さん」また年寄りじみた言葉使いだった。
「私、弱いんです」
「弱い?」
妻は不思議そうに復唱した。
「弱いから、自分より弱いひとを見つけて、いっしょに弱くなって、でも、ほんの少しの優越感をもって……。おとうさんだって、そう。私が弱いから、いけないんです」
ふわりと笑って、千逢は華奢なからだの二サイズは大きいだろうカーディガンに目を落とした。奈落の底のような目は、なにかの覚悟を決めたようにも見えて、俺は思わずぞっとした。
「あのひとも、弱かったのかしら」
妻も覚悟を決めたのか、そんなことを聞いた。
「久米野さんは少し違いましたねえ。私を同情じゃなくて、面白半分となつかしさ、みたいなものを混ぜて助けてくれたんですって」
あー、そういえば、千逢にもそんなこと言ってたか、と俺は頭を抱えた。腕がないことに気づいて、とりあえずは立ち尽くすことにした。
「だから私、ふふ、ふ、久米野さんの気まぐれで生きてるんです」
「あのひとらしいわね」
俺は自由に生きてきた。女を生かしたり殺したり撃ち抜いたりして、気ままに渡り歩いていた。
妻は知っていたのだ。なにもかも。
「だから、奥さん」千逢の声は震えていた。
「私と久米野さんは、あなたが思うような関係はないんです。久米野さんがあなた以外の女性とドライブ中に事故死して、持っていた金は全部私にゆずるなんてメールに残していても、でも、私は感慨を抱けなかった。もう、私、だめなんですかねえ」
そう言って、彼女はテーブルに紙袋をおいた。
「メールに示されてたお金、引き落として、全額ここに持ってきました。おとうさんから、奪ってきた」
千逢のうつくしいかんばせの左側には、大きな白いガーゼが貼られていた。
「私、形あるかけがえのないものはいりません。久米野さんが私にくれた、形ない思い出で十分なんです」
「……そう」
この子はどこまで自己を犠牲にするのだろう。あんなわがままで傲慢ちきな女と死んでしまうなんて、と自分に苛立ちを覚えた。千逢はどうしようもなく可愛そうな少女だった。
「ああ、それと、お茶のおかわりをいただけるとうれしいのですが」
千逢はまた、他人ごとのような口調で、抑揚なく、妻に向かって話した。
「ああ、新しい茶葉を買いに行かなきゃ……そうね、十分くらい、待っていてくれる?」
「ええ、もちろんですとも」
玄関のドアが閉まると同時に、千逢は和室の襖をいきおいよく開け放った。
「久米野さん、ねえ、久米野さん」
泣きそうな顔をしていた。今にも大粒の涙をこぼしそうだ。はいはい、なんですか、と俺はこころのなかで返事をした。
じりじりと千逢はこちらに近づいてきて、それで、俺に少しだけ触れた。
ことん、と骨壺が鳴った。
「ねえ、久米野さん、私、一つ、嘘をつきましたよ」
俺はいぶかしげに千逢を見た。
嘘?
「私の名前、だれかに似ているでしょう。あおえちお、って」
千逢、ちお、チオ、チ、オ……いや、そんな、まさか。
俺の脳裏には、一人の女が浮かんでいた。
チヨ。千夜。青江千夜。
俺を膝元にのせて、まるで歌うような調子で、
「母は私なんです。ねえ久米野さん、私、あなたの子なんですよ」
そうだ。青江千夜は、俺の会社の同期で、何回か関係を結んだあと、急に会社をやめて音信不通になってしまった女だ。
あの当時、二人ともまだ二十四そこらだった。数年後、千夜を忘れたいがためのように、俺は妻と婚約した。
「母は苦悩して、それでも私を産みました。衝動的に会社を辞めたから、私を育てるために我が身を売ったんです。あなたがいつか、自分のことを見つけて、やがてはしあわせに暮らせるのでないか、なんて夢想しながら。だから、私に自分そっくりの名前までつけて」
莫迦でしょう、と千逢は笑った。
「養父は私を母に見立てていましたけれどね、母は私をあなたに見立てていたんです。ねえ、莫迦みたいでしょう」
俺はただ呆然としていた。事実だけがハンマーみたいにかたまって、頭を幾度となく殴打した。
俺は千夜が好きだった。愛していた。それでも、二度と会うことはなかった。
すまない、と俺はつぶやいた。俺のことばかり考えて、勝手にいばらの道に踏み込んだ、おろかな千夜。
「私は母なんです。母は私なんです」
もう一度、千逢は言った。ああ、おろかなおとなに孕まされ、生まれ落とされた、賢い我が子よ。
「私は望んでいるんです。久米野さんと母がいっしょになっているという、おとずれなかった未来を」
そんなこと、と言おうとしても、俺の唇は動かなかった。それはたしかに、俺が望んだ未来だった。
白いかたまりの、その一欠片が千逢の口に吸い込まれて、消えた。がりっ、と音が深く響き、色のない唇から一筋、驚くくらいに濃い紅が流れ落ちた。
「思い出に、なるかなあ」
なるさ、と俺は返した。千夜も千逢も俺も、形なくかけがえのないなにかでつながっている。
いつしか、紅蓮と橙が部屋を包んでいた。娘は血を流して俺を噛み砕きながら、何度も何度も嗚咽した。
外から、妻の甲高い悲鳴がきこえてきた。家が、あのひとがっ、と叫んでいる。だれかが通報したのだろう、サイレンも。
「だれにも渡さない」
千逢は悲鳴のほうを睨みつけて、うわごとのように繰り返した。「かあさんと、私の、思い出、なんだからあ……!」
俺は千逢にかかえられながら、千夜のあの猫みたいにしなやかな四肢を思い出していた。
がちゃん!
それなりに値の張った窓ガラスを割って、消防士達がダイニングになだれ込んできた。ほむらの中心で座る千逢の元に、必死に進もうとしている。行ってやれよ、と思ったちょうどそのとき、ごくり、と千逢が最後の白いかたまりを呑み込み、屈強な彼らを物憂げに見上げた。そして、ゆっくりと、けれどたしかに、うつくしいかんばせを官能的な喜色に染めた。
夕焼けとほむらは混じり合って、やがて、千逢の痩せ細ったからだをやさしく包み込んだ。
「死んで、腐って、ようやく、ひとつになれるよぉ……ねえ、おとう、さん……おとう、さぁん」
娘の狂気じみた健気さが、なぜだか急にいとおしく思えた。たまらなくなって、俺は千逢を強く強く、抱きしめた。
ことん。空の骨壺が寂寥に鳴った。
生者は語る。
耳は無い。けれど。