六十話 補綴⑤
男が一人出ていった後、幸村はひどく疲れたような息を吐いた。
相手が酔っ払っていたことが幸いだったのかもしれない。
幸村が今話した内容など、いまある現状を追認し、まったく結論を引き伸ばしただけの強引なものであるはずだったが、判断力の鈍っているところを勢いで押し切れたようだ。
あるいは男もこんな大騒ぎになってしまって、戸惑っていた部分もあったのだろう。
それゆえ、良くも悪くも一つの結論を出した幸村の口車に乗った可能性もある。
「……なんで、あんなことしたの」
一方、ひとまず場が落ち着いて、ようやく頭の向きを違う方向に変えられたらしい。
会話もなく皆が黙っていたところに、志野は吾助に向かって責めるように言った。
「いや、だって」
「だっても何もないでしょう? 本当にあんなこと、してくれなくてよかったの。別にさっきも私が一人でなんとか出来たんだから」
その言葉に、え、と吾助は困惑した様子で志野の顔を見つめる。
「昨日の昼間だって、そう。あんなの、向こうが言ってるだけだもの。あれは私が村に帰るように説得しようとして、無理に言ってるだけ。親が勝手に借りたものなんて、私が返す必要ないの。お金を貸す側だって、ほとんど返ってこないってわかってて貸してるんだから」
「……どういうことだ?」
ここにきて、志野の言っている意味がわからなかった。
二人の会話に割り込むようにして、幸村は尋ねる。
すると志野は顔を横に背け、幸村に目を向けないまま言った。
「村の寄り合いで昔、そうするって決めたことだから。何か事情があってどこかの家の生活が大変になったら、村の人たちが少しずつお金出しあって助けようって。でもただあげるっていうのも良くないから、そのお金の名目は貸してるんだってことにするの。時間が経って、その家にもし余裕が出来たら少しずつ返してもらうっていう約束で」
……でも、父さんが言ってたもの。
そういう形で貸したお金なんて、今まで一度も返ってきたことないって。
志野の話に幸村は少し考え込んでから、ようやく理解する。
つまりそれは、現代で言うところの保険のような制度。
志野の村に存在する互助的な制度ということだろうか。
幸村は一瞬、志野の言葉をそのまま受け取りそうになった。
「……いや。でも、それって」
しかしすぐに幸村は考え直す。
それは見方を変えれば、あの男が怒っていた通りに、志野の家が村の互助制度にただ乗りしているということではないのか。
「その仕組みって、お前みたいに『親が嫌で家を出た』って話でも大丈夫なのか?」
すると幸村が言外に込めた意味合いをきちんと感じ取ったらしい。
ここで志野は、きっとした視線を幸村に向けて答える。
「違うの。それだと、逆なの」
「……逆?」
「本当なら、もっと前から私の家はそうやって皆から助けてもらったほうがよかったの。でもあの家には私がいたから、手を貸してもらえなかったの」
幸村にはその言い分が、やはりすんなりとは飲み込めなかった。
とにかく志野が言うには、そのような援助はもはや手の付くしようがないと周囲から判断された家にしか出されないらしい。
すなわち、かつて志野がいた頃の状況では、まだ皆が手を貸すほどではないと見なされた。
言わば、『よろしくない加減』が足りなかった。
「でも私が一人であの村の中でどれだけ頑張って働いても、限界があるのはわかるでしょう? あの親のせいで、周囲の人たちとも距離ができてたし。だから、危ないのをわかってるのに戦で死んだ人の懐を漁らなきゃなかったり、それとも歳の離れてるおじいさんでも誰でもいいから結婚しろって、言われたり」
村に住んでいた頃のことを思い出すようにしながら、志野は言う。
つまりもう限界で、どうしようもなかったんだと。
全部、母親が村で嫌われてたのが悪かったんだと。
「でも、私がいなくなれば、絶対あの人生活できなくなるし、そうなったらいくら嫌われてても、同じ村に住んでるんだから、みんなで助けなきゃってなるの。なるはずなの。……だから、私が家を出たのは、それはそれでよかったの」
志野のその言い方には、どこかに願望が込められたような響きがあった。
幸村にとっても、その言い分には一定の真実が含まれているように聞こえた。
それでも、やはり。幸村は直感する。
志野が話す内容の中に、悪く言えば自分勝手な部分というか、事実に糊塗されて見えなくなっている部分はあると思う。
それはまるで、いつか幸村が重隆に向かって話した内容に似ていた。
結局、志野は周りの環境が自分自身にばかり負担を強いているようにしか思えず、受け入れられなかったのだ。
「だから、本当に、気にしなくてよかったのに。……そんな、血を流すような怪我までして」
ここで志野は前を向き、吾助の顔をまじまじと見つめる。
その言葉の後半は、声がかすれてしまったようだった。
志野は自分のために吾助が殴られたことに、まるで自分自身が傷つけられたような強い衝撃を受けたようだ。
また何か言おうとして、志野のその目から一筋、涙がこぼれる。
自分の思いを言葉に出してしまうと、同時に抑えていた感情がこみ上げてきたのかもしれない。
そこからはもう止まらなかったようだ。
志野は口元に手を当てて、声を殺したまま泣き始めた。
その姿に幸村は、なんといって慰めるべきなのか分からず、とにかく志野から視線を外して下を向いた。
幸村にすれば、志野と直接関わり合った時間は短かったし、距離を詰めることこそしてこなかった。
が、それでも志野の思いを多少なりは察することができる。
幸村もまた地元の村を抜け出した人間であるからだ。
結局、村を出た時から志野は今までずっと一人で生きていたし、生きていくつもりでいたのだろう。
そこはかとない希望と、また間違いなく不安もあったはずだ。
それでも今までは志野の理想通りに、見知らぬ土地で一人で生きてこられた。
だが、今回偶然に起こった出来事で(もしかしたら必然的だったかもはしれないけれど)、その厚く塗り固めていた理想に、あるいは志野が縋ろうとしていた思いに、ひびが入ってしまったのかもしれない。
今まで目を逸らして見ようとしてこなかった事実を、改めて突きつけられてしまったのかもしれない。
幸村がそんなことを考えている一方で、吾助はそのさめざめとした涙を見て、よほど困ってしまったようだった。
おろおろとしながら、それでも吾助は口を開く。
「いや、でもさ。俺が泊まるところなくて困ってたら姉ちゃん、自分の家に泊めてくれたじゃんか。それからずっと、世話になってたし」
この意外な一言で、幸村は目をみはって吾助の方を向いた。
(……え?)
まさか、吾助が志野を助けようとした理由。
幸村が想定していなかった関係がこの二人にはあったのだろうか。
「……それはその分のお金を、あんた払ってたでしょ。だから、私を助けるとか、そんなこと考えなくていいのに」
が、幸村の想像はすぐに裏切られる。
二人の関係はあまり湿ったものではなかったらしい。
「でも、俺さ。その――」
吾助は自分が言いたいことがうまく出てこないようだった。
困ったように幸村に視線を向ける。
幸村はよくわからないまま、その視線を受け止める。
「……もしかしたら、あんたは覚えてないかも知んないけどさ。あの戦の最中に、怪我して倒れてた女の人いたじゃん」
そう吾助が言い出したことについて。
少し思案して、ようやく幸村にも想像がついた。
香山城の南郭を攻めた時、二段目の郭手前に倒れていた女性のことだろう。
「俺、あの時、その人とちょうど目が合ってさ。思わず駆け寄ったけど、あんたに怒鳴られて助けられなくて。……でもそれはしょうがないっては思うんだ。あの時はみんな大変だったっていうか、あんたも俺も自分のことで精一杯だったし」
つっかえつっかえの言い方になりながら、吾助は話す。
「だからさ、戦が終わって落ち着いた後に俺、あの女の人探したんだ。まだあんたが寝てた頃だけど。そしたら、ちゃんとあの人生きてて、杖つきながらだけど歩けるようになってて。最初は謝ろうと思ったんだ。あの時助けられなくてごめんって、いや別に謝らなくてもはいいかもしんないんだけど」
説明したいことが頭の中でごちゃごちゃに混ざってしまっているのだろう。
しかし吾助は幸村の目を見ながら話し続ける。
「でも俺が顔出したらさ、あの人なんか急に顔色変わって――その辺にあった物とか、手当たり次第に投げつけられてさ。全然話もできなくて。それで周りの人に聞いたら、あの人の旦那さんが戦で死んだって聞いて」
「それはお前のせいじゃないだろ」
すぐに反応して幸村は言った。
吾助が引っかかっている部分がわかった気がしたからだ。
「違くて、そういうことじゃなくて」
だが、その言葉は何の慰めにもならなかったらしい。
というより、幸村の想像したそのものが、今度も的はずれだったようだ。
表情を変えず、吾助は首を横にふって言う。
「いや普通に考えれば、戦なんだから、そんなこともありえるはずじゃん。だから、何も考えずに会いに行った俺も悪いんだけどさ。でもやっぱり、なんて言うか……最悪だった。別に俺のせいじゃないのはわかってるけど、本当に最悪だった」
その言葉足らずな言い方の、端々に出ている感情。
途切れ途切れに伝わってくる感覚に、幸村はしばし考え込む。
そしてふとした瞬間、本当におぼろげながらも、ある言葉を思い出した。
それは現代でいうところの「道徳と因果の錯誤」。
あの戦の中で、間違いなく吾助は人を殺めた。
もしかしたら、その女性の夫すら手にかけた可能性もあるかもしれない。
しかしその可能性自体に吾助は苦しんでいるわけではないのだ。
その厳然たる事実は厳然たる事実として、吾助は正面から受け止めている。
つまり、吾助は完全に割り切っているのだ。
あの戦の中で起きた出来事全てについて。
その因果関係と責任の問題を明確に切り離して事態を把握している。
状況も状況だったし、まさかあの場で戦わずに済ませられたなどとは考えもしない。
だから吾助が今話しているのは、自分自身の手の範囲に収められないことについて。
そういう結果にならざるをえなかった、当時の流れや状況そのものを最悪だと言っているのだ。
言うならば、より大枠に捉えた不満、あるいは根本的な部分にその視線が向けられていた。
かつて一緒に酒を飲んだ場で吾助に見て取った万能感。
幸村は今になって思い出す。
そうした意識は変質し、このような姿を取って表に現れてきたのかもしれない。
「ずっとあの時のことは覚えてたんだ。それで昨日、姉ちゃんがそういう目にあってるの見かけて、そしたら急にあの女の人の顔が頭に浮かんで」
そういう行動に出たということだろう。
幸村はここでようやく、吾助があんな態度を示してまで志野を助けようとした理由が見えてきた。
吾助の言葉に従えば、少し考えればわかることだったのだ。
あの戦に関わった皆が、あるいはその周辺ですら、多かれ少なかれ、何かしらの影響を受けている。
そして誰もかれもが揃って幸運になれたはずはない。
悩んでいた人間が幸村だけのはずもなかった。
吾助もまた幸村とは違う形で、思いを抱え込んでいたのだ。
「……これからどうするつもりだ?」
そこまでを理解したところで、幸村は言った。
「今はうまく追い払えたが、あの男の言葉を信じるなら、十日後にはまた戻ってくる。そしたら、今日と同じことが起こるはずだ。まさかそれまでに金を払う当てが作れるわけでもないだろ」
「……だから、お金なんて」
「そうじゃない。俺が言ってるのは公の、道義的なことだ。さっきも言ったが、改めて証文を持ってこられたら、ああいう騒ぎが起こっても周りは何も言えない。むしろ面倒事なんか、さっさとよそに追いやるだけだ」
口元を抑えたまま、小声で言った志野の言葉に幸村は首を振って答える。
「もちろんあの男が村に戻った後、急に面倒になって黙っていてくれる可能性だってある。ただそれは賭けだし、あの顔色を見る限りじゃほとんどありえないと俺は思う」
「……じゃあどうすればいいんだよ!」
ここで吾助が強い声色で言った。
対して幸村は思いついたままに口を開く。
「逃げればいい」
「逃げる?」
幸村は口調を強くする。
「この黒田庄から、もっと遠くに。村に帰るって選択肢がない以上、ここに留まれない以上、そうするしかない」
「……だからって、どこに逃げればいいのよ」
ここで志野もまた顔を上げる。
涙はすでに引っ込んでいて、吾助につられてどこか怒ったような口調でさえあった。
おそらく、一度は考えてみたことだったのだろう。
「今の私の仕事だって、この村が大きいから見つけられたはずなの。でもここ以外に、近くに大きい村なんてないのよ?」
「それはわかってる」
幸村は目の前の二人と視線を合わせた。
「この辺に、姫路って土地はないか? それとも、鷺山ってところでもいいけど」
突然、何を言われたのかわからなかったらしい。
吾助と志野は互いに目を合わせる。
「……俺はわかんねえけど、そこになんかあんの?」
「じゃあ、とにかく姫って付く地名とかないか」
吾助の質問に答えず、幸村は志野の顔を見た。
しばらく志野は考えていたようだが、思い出したらしい。
「……私、知ってるかもしれない。前、よその村から来たお客さんと話してた時に、西の方に姫山って土地があるって。村もあって、その辺りは山の上に咲く桜がすごい綺麗なんだ、って」
「そこだ」
幸村は断定して言った。
「お前ら、その村まで逃げろ。たぶん探せば、この黒田庄にも詳しい道筋とか知ってる奴も居るだろ」
「……でも、今はあんまり大きくない村だって言ってたはずだけど? 昔は違ったのかもしれないけど」
「っていうか、そこに行ったら何か変わんの? あんたの知ってるところなのか? 仕事とか見つかる?」
続けざまに出てくる志野と吾助の言い分はもっともだった。
ただ幸村はその理由を直接言うことができない。
幸村の知識に従えば、その姫山という土地はこれから発展していくはずだ。
だが、それが半年後なのか、一年後なのか、詳細にはわからない。
だから言い方は曖昧になる。
「……はっきりと言えないが、近いうちに何かはある」
志野はまだ疑いの目で幸村の顔を見つめていた。
面倒事をただよそに追いやろうとしているだけなのではないかと。
ただ、吾助の方は何の理由か、幸村の言い分に納得したらしい。
「俺、心配だから、姉ちゃんについていくよ」
吾助は志野に一度目をやってから言う。
「もうそうするしかなさそうだし。……あんたを信じるからな」
吾助の言葉に、長い沈黙のあと、幸村はうなずいた。
その一方でやはり、頭の片隅には言葉が浮かぶ。
『あの時と、同じ間違いをしようとしているのだろうか』
だが結局、答えは出ないのだ。
だとすれば幸村は答えのないままに、それでもどこかにあるはずの道を探し続けながら前に進むしかなかった。




