五十七話 補綴②
『もう数日のうちに、小寺家を訪れていた職隆たちが戻ってくるようだ』
たまたま昼休憩を一緒に過ごした男が、幸村に話題の一つとして教えてくれた。
会談はひどく上手くいったとのことで、これで黒田家は正式に小寺家の下につくという。
ますます黒田家は大きくなっていくなと言って、その男は笑った。
黒田家の盛運を純粋に喜んでいるらしい。
また幸村も幸村で、一人現状を理解する。
この分だと、黒田の名字が小寺に変わるのももうすぐということだろう。
ただ実際、小寺という名字に変わることで、黒田家の内部がどう変わっていくのかは想像がつかなかった。
単純に考えれば、より大きな組織の一部になったということだ。
より大局的な視点で物事が進むようになるのだろう。
だが、幸村のような末端の立場からすれば、そう大きな違いが出てくるとは思えない。
つまり結局は、目の前にある仕事に集中していくべきだろうとなる。
そんな至極当然な結論を出した幸村が職場に戻ってくると、わざわざ出入り口で待ち構えていたらしい。
いつも顰め面をしている上役から新しい仕事を頼まれた。
「裏の土蔵まで、ひとっ走り行ってこい」
ぽんと紙切れを一枚渡され、幸村ははいと返事を返す。
半分脱ぎかけていた草履をまた履き直して、わざと駆け出すように外へと出た。
と、ひとっ走りといっても、それはあらかた気分的なもの。
土蔵までに距離という距離はほとんどない。
職場のある建物を大回りして裏に回れば、すぐに目的の蔵の前へ。
入り口の前に立つ番人役の男と目を合わせると、こちらの顔をそろそろ覚えてくれたようだ。
無言であごをしゃくってみせたので、頭を下げつつ草履を脱ぎ、幸村は蔵の中に入った。
天窓から大きく光が差し込んでいるが、蔵の中は薄暗く、ひんやりとしている。
だいぶ埃臭いのにも慣れたものだ。
踏みしめる度にぎしぎしと鳴る板床の上をそっと歩きながら、幸村は頼まれた品を探す。
証文。等しくは、借用証書。
幸村が昼休憩で出ているうちに、借り手が金を持って支払いにやってきたのだろう。
となると、その返済額を改めて証文のものと照らし合わせる必要がある。
一応、数字自体は職場に置いてある帳簿にも簡易的に記載があるそうだが、やはり信用の点で比重が置かれているのは証文のほうであるようだ。
それこそ不手際ほか、『改竄してるとこなんか見つけたら、首を飛ばしてやるからな』というほどには、上役から脅されている。
おそらく比喩的な意味合いでもないだろう。
なので幸村は額に汗を浮かべるくらいには緊張感を持ちながら、視線を動かさねばならない。
しかし、蔵に入ってすぐ右手側に置いてあるというが……。
似たような箱がたくさんあって、なかなか目当てのものはみつからなかった。
まず箱の表に書いてある文字がうまく読めないのだ。
それはひとえに、古文書的な問題。
幸村が目にする文章は、そのほとんどが漢文そのものなのだ。
大学の第二言語はドイツ語だったし、まさか今さらになって高校の授業を思い出すような気分を味わうとは幸村も思っていなかった。
もとより旧字体や草書体、くずし字という単語の意味は知っている。
古文の授業は好きだったし、古い文章や古地図の解説も喜んで読んでいたから、似たような文字列を目にする機会は人よりも多かったとは思う。
だが、さすがに書き下し文やら現代語訳がついているものがほとんどだったから、草書体の文章を初見で読みこなすなど、幸村には土台無理な話だった。
事実として仕事の初日、とりあえず試しに見せてもらった文書のうち、辛うじてわかったのは『仮名まじりの文章もあるんだな』ということくらい。
本格的に内容をどこまで理解できるかと問われれば、ときどき読める字もあるといった程度だった。
最初の一枚を見せてもらった時は、形のはっきりした漢字のほか、ひらがなの「え」と「ち」と「の」と「せ」が読めることは確認できた。
ところが、どう見ても「ほ」と書いてあるのに「す」だったり、「う」と書いてあるのに「か」、「け」が「さ」だったりするのには困ってしまう。
おそらくこの時代は仮名の中に旧字体から派生した文字が含まれているのだろう。
あるいは、一音に対して一字ではないというか。
結局、ひらがなばかりというたった三行の文章ですら、大体の意味も取れなかった。
そんな幸村に対する上役の反応は、呆れを通り越して落胆を隠せないほどであったようだ。
この分だと古文を学んだ高校生どころか、初めて文字を習う小学生ほどの頭だと判断されたかもしれない。
ただそれでもなんとか、幸村が文書を扱うような仕事を任されている理由はただひとつ。
完全なる縁故の所以であり、飾らずに言えばコネである。
この点一つとっても、まったく利明には頭が上がりそうにない。
上役の対応の中にどこか迫りきれないところが見えるのも、そうした影響があるのだろう。
とはいえ、『なんで文字の読めないような奴がここで働いているんだ』という周囲からの視線は間違いなくあって、それ自体はもっともな話であるので反駁のしようがなかった。
そしてこのままの状態が続いては、間違いなく利明に迷惑がかかる。
幸村はとにかく身を入れて働いてみせねばならない。
ここ数日の間は、この蔵にやってきて探しものをするというのが、幸村に任された仕事だ。
といっても、日に数人ほどしか訪ねて来る機会はないようだから、体に掛かるような負荷はほとんどない。
そのため余った時間は、字を覚えるために人に教わりながら適当な文書とにらめっこをしている。
さらに職場に余裕がありそうな時は、手の空いている先生役と一行一行を交互に読み合いながら、書き順を指でなぞってみたりする。
聞くところによると、こういう文書には書き方に型があるそうなので、そこを覚えればなんとか仕事はできるだろうという話だった。
それでも最終的に自分で文章を書けるようになるまでには、年単位で時間がかかりそうである。
「……あ」
そうこうしているうちに、幸村はようやく目当てのものを見つけることができた。
集落ごとの名前が書かれた箱。
渡された紙に書いてある文字を確かめると、やはり一致している。
ここまでくれば最悪箱ごと持っていってやろうかなどと考えながら、幸村はその箱を持ち上げた。
中身には、かなりぎっしりと文書が詰まっている様子だ。
この村には金を借りている人間がよほどの数いるらしい。
万が一にも壊さないように、幸村は静かに箱を床に置くと、蓋を開けてぱらぱらとその証文の束をめくっていく。
ほとんどの場合、借り手の名前は三つ折りの一番左側に書かれているが――見つけた。
本人と証人の名前。
それが一致するのを確認すると、幸村はその一枚を抜き出して、再び蓋をした箱を元の場所に戻す。
簡単だが、これでひとまずは仕事の大部分が終了した。
そうして職場に戻ると、気付いた上役から『向こうの机だ』との視線が寄越された。
「遅くなってすみません」
今日はついているらしい。
幸村が文書を差し出した相手は、職場の中では比較的幸村に対して優しい態度の人だった。
できの悪い生徒としての幸村に教えるときも、かなり粘り強く教えてくれた。
「合ってますか?」
「……うん。大丈夫、大丈夫」
文書の名前を確かめると男は小さくうなずいて、手元の帳簿とその金額を比較し始めた。
幸村がその様子をじっと見つめていると、男は両手の指でその金額があるところを示してくれる。
次いで視線を向けられた。
お前も確認してみろということだろう。
近寄って確認すると、たしかに数字が一致した。
幸村はうなずいてみせる。
「こういう流れだから」
勉強になります、と言って幸村は頭を下げた。
こういう小さなところからも真面目に仕事をしている姿勢を見せなければならない。
ただ実際、証文の取り扱いにはかなり厳格な規定があるようだ。
詳しくはまだ教えてもらっていないが、この証文自体も返済の証明になる重要なものなので絶対に借り手に渡してやらねばならないという。
「今はまだ春だから貸すほうが多い」
帳簿に何事かを書き入れながら、男は言った。
「これが秋ぐらいになると、返してくる奴が多くて大混雑になる。だから、そのあたりくらいまでには一人でこの仕事をこなせるようになってくれると助かる」
となると、あと半年ほどで仕事を覚えなければならないということか。
それまでにどこまで読めるようになるかは不安だったが、なんとかするしかないのだろう。
そう緊張した顔が表に出ていたのか、男は「案外大丈夫なもんだ」と幸村を元気づけてくれた。
その後返済にやってくる人間はおらず、今日もまた全体的に暇な日のようである。
幸村が自分の席でぶつぶつと暗唱しながら文書を眺めていると、上役に声をかけられた。
「今日の仕事は終わりだから、お前も帰っていいぞ」
幸村は顔を上げる。
集中していて気づかなかったが、周りを見渡せば皆が帰り支度をしていた。
まだ日が落ちるまでにはかなり時間があるようだったが、大抵はそんなものだった。
「わかりました」
返事をして、幸村もまた席から立ち上がる。
帰り道の途中で適当に食事を済ませた幸村は、ようやく自分に宛てがわれた部屋のある長屋へと戻ってきた。
部屋に戻ったところで特にすることはないのだが――と、ちょうど自分の部屋の前。
誰かを探すように、辺りをきょろきょろと見回す見知った顔を幸村は見つける。
例に漏れず、吾助であった。
戦が終わって一週間ほどすると、集められた兵はそれぞれ村を立って行ったそうだが、吾助はそのままこの村に残っていたらしい。
おそらくその人懐っこさを上手く使って、適当に日銭を稼ぎながら暮らしているのだろう。
飯食ってこないほうが良かったかな。
久しぶりに見る顔にそんなことを考えながら幸村が声をかけようとすると、向こうもこちらに気づいたようだ。
その途端、勢い良く幸村のいる場所まで走ってきた。
(え?)
特段その用件が思いつかず、その場で立ち止まった幸村の目の前まで来ると、
「金貸してくんない?」
ひどく焦ったような顔色で吾助は言った。




