四話 過去へ④
その日の夕飯は採れたての鹿肉を使った、野性味あふれるもみじ鍋だった。
いくらかしなびた野菜とともに煮こまれ、ほくほくと煙を上げる鍋を皆が円座になって囲んでいる。
しかし、そんな食事の間も幸村の気分はいまだ低いところをさまよっていた。
なにしろ、何の心構えもなしに鹿の解体現場に出くわしたのだ。
これまで幸村は自分が血に弱いなどとは一切思っていなかったが、実際血の匂いを嗅ぐと気分は乱れた。
なんというか、あの清潔でないすえた臭い。
内臓を掻き出している最中だったのだろう。
幸村はなんとか立ち直ったものの、兄弟たちに水の入った桶を渡した後は家の中に早々に引っ込んでしまった。
今考えると、対応を間違ったかなとも思う。
(こういうのにも慣れていかないといけないのか)
幸村は憂鬱だった。
そしてそれは鹿の解体だけが原因でもない。
「働かずに食う飯は美味いか、三郎?」
一仕事を終えて、疲れて帰ってきたところだったからだろう。
最初から機嫌が良くなかったようだ。
山菜の件について知った長兄の一郎は、その言葉をひどく遠回しに、しかし後を引くように、食事の間中ずっとぐちぐち喋っていた。
母親の言っていた“いい加減怒る”人とは一郎のことを指していたらしい。
見たところ、彼は幸村よりも七つも八つも歳上であるように思える。
それというのも、彼の頭のてっぺんがほんのり薄くなっている事に気づいたからだ。
あるいは、長兄としての重責がそうさせてしまったのだろう。
それとも一時間ほど過ごしただけでもそれと分かるような性格が災いしたのか。
まあ、幸村にとってはどちらでもいいことではある。
一方、さきほど鹿の頭をこちらに向けて笑ってみせた男は、次男の二郎。
少し会話した限りでは、こちらは分かりやすく竹を割ったように素直な性格のようだ。
うるさい一郎の横でたまに眉をひそめながら、それでも彼は鹿鍋を美味そうに食べている。
その体格は幸村よりひと回りは大きい。実はこの鹿を捕まえたのも彼なのだという。
「二郎もなんだ、お前は関係ないと思ってるのかもしれないが――」
たまに飛び火してくる兄の小言も慣れたものらしく、二郎はうまく聞き流していた。
かと言って、特に三郎の援護に回ることもない。
またこの点に関しては母親の方も同様で、彼女は幸村の横で黙って椀を口に運んでいた。
その表情は昼間のそれより、だいぶ固い。
家族全員が集まった空間で、この人はあまり口を出さないようにしているのだろうか。
なんとなく幸村にはそう思えた。
加えて食事中の会話で叔父についての話題が上がり、そこでようやく母親の名前を幸村は知ることができた。
しかし、その名前を耳にした彼はなんとも驚くことになる。
というのも、実は彼女こそ叔父が道中でよく話題にしていた『さち』であるというのだ。
それがわかった瞬間、幸村はああ、と何かを理解できた気がした。
(道中の態度からして、あの叔父さんって人は――)
失礼ながら『失楽園』や『セカンドラブ』という単語が幸村の頭に浮かんだ。
いや、まったく勘違いの可能性もある。
しかし、ほんのわずか接しただけでも、そのようだとわかったのだから……。
まだ確定した事実ではないのでなんとも言えないことではあったが、幸村はファミレスのバイトでの日々を思い出していた。
(……まあでも、少なくとも旦那さんはもう亡くなってるわけだし――)
そういう文化の国もあったような、なかったような。
様子を見つつ、あまり深入りはしないようにした方がいいかもしれない。
とりあえずここまでが、幸村の理解できたこの家族の性格と関係だった。
しかし、ここに実はもう一人。
立場の想像がつかない人が、この中にいる。
それはさきほど鹿の解体場所にもいた女性だった。
同じく円座に加わり、黙って鍋を食べている彼女は、少なくとも容姿に関して言えば幸村と同年代であるように思えた。
おそらくは二十歳前後。
当初、幸村は彼女が『さち』なのだと思っていた。
自分との関係は姉か妹のどちらか。
もしそうであったなら、叔父があれこれ言っている意味も理解できる気はする。
しかし、決してあの叔父は若い娘に入れあげているわけではなかったらしい。
「……?」
知らず知らずのうちに何度か見てしまったのだろう。
視線に気付いた彼女が首を傾げて、反応を返してくる。
幸村はかすかに首を振った。
なんにしろ、この場にいて誰も文句を言わないのだから、彼女もこの家に確固たる地盤があるはずだ。
「聞いているのか、三郎」
すると、よそ見をして気が入っていなかったことに気付いたらしい。
ひときわ大きな声で一郎が言った。
なので幸村は、申し訳なさそうな表情を顔に貼り付けると、改めて頭を下げる。
よそ見に関してはそれで収まったようだ。
それでもまだ一郎の叱責が終わる様子はない。
一郎はいわゆる自分に酔ったように怒る人なのだ。
怒られつつ、幸村は思う。
昔、バイト先に同じような人がいたので、彼には若干の経験があった。
こういう人はおそらく、初めは相手の態度を改めさせようと思って話しているのだろうが、そのうち本来の理由とは関係ない自分の日頃の苛つきを叱責の中に無意識に混ぜ込んでしまう。
それは自身の優位が確立された状況において、最も安易で手っ取り早いストレス発散の方法だった。
となると対処法としては、とにかく我慢するしかない。
叱られているというより、愚痴を聞いているつもりで。
過去に幸村はいろいろ試してみたが、結局無駄に口を挟まず、好きなだけ話をさせておくのが一番早く終わる。
と、ここでずっと黙って話を聞いていた女性が一郎に向かって口を挟んだ。
「そろそろ、いいんじゃないですか。三郎も十分反省しているようですし」
どうやら彼女はさっきの幸村の視線を援護を求めるものだと受け取ったらしい。
「しかしな、こいつはいつもいつも」
「あとで私も言っておきますから。それより鍋が冷めちゃいますよ、せっかく温かいのに」
「ん、まあ……そうだが」
「ほら、早くお椀空けてください。次をよそいますから」
すると、意外にも一郎はその女性の意見を聞き入れたようだ。
彼は幸村の顔を一瞥した後、素直に黙って椀の中身をかきこみ始める。
(もしかしてこの人が一番立場強い?)
その後は彼女も黙ってしまったので、幸村はやはりその人柄を掴むことができなかった。
夕飯を終える頃になると、すでに日は落ち、辺りは暗くなっている。
片付けを終え、皆これからどうするのかと幸村が周囲を測っていると、母のさちに川から水を汲んできてくれと頼まれた。
もう瓶の中に余裕が無いらしい。
家を出てしばらく歩いたほど近い場所に川があるのを、幸村はこの家を訪れるとき確認していた。
うなずき、彼は膝丈ほどの瓶と桶を持って家の外に出る。
兄二人は明日も朝早いのか、早々に寝床に行ってしまったようだ。
だから幸村が頼まれたのもあるだろう。
外に出てみると、月明かりが綺麗に地面を照らしていた。
空を見上げれば雲ひとつない星空が明るく輝いている。
ふと思いついて、幸村は中学の頃のわずかな知識を頼りに北極星を探した。
すると思いの外、簡単に見つかる。
(そうなると北はあっちで、南は向こうで……)
過去の世界であっても現代の知識が通じる部分があると分かったことに、わりと幸村は感動を覚えた。残念ながら、それ以上の天文の知識は彼にはなかったが、それでもなんとなく気分は明るくなる。
そうして彼は前を向き、人工的な光に照らされていない道を歩き出した。
足元は不確かだが、不思議と危険とは思わない。
まもなく、幸村は川に到着した。
(川から水を汲む時は……)
上澄みでもなく、底からでもなく、中ほどを汲めばいいんだったか。
今度は高校の古典の授業で習った先達の言葉を思い出しながら、幸村は桶で水を汲み始める。
すると、彼は月の光が川に映り込んでいることに気付いた。
川の表面がまるで鏡のように光を反射しているのだ。
そしてそれは幸村がこの世界に来てから、初めて今の自分の顔を見る機会となった。
(俺の、顔だよな?)
おそるおそる川に映った顔を見て、それから彼はほっとしたような息を吐く。
川に映ったのは、間違いなく、幸村の見知っている自分の顔である。
(……そうなってくるとだ)
周囲に違和感を覚えた人間がいないことからすると、この時代にいた三郎の顔も幸村と全く同じであったのだろう。
自分に似た顔の人間は世界には三人いるという。
それは時代を超えればもっと増えるかもしれない。
ただ、これを単なる偶然と受け止めていいのだろうか。
(そんなわけないよな)
そう思い、ならば三郎は先祖か何かなのだろうかと考えながら、幸村は腕を動かし続けた。
そしてそれだけに気を取られて、彼は後ろから近づいてくる人物に結局最後まで気づかない。
突然、ぽんっと背中を叩かれた。
「あっ」
びっくりして幸村は手に持っていた桶を川に落としてしまう。
振り向くと、そこにはさきほど一郎の小言から助けてくれた女性が一人で立っていた。
「えっ、そんなびっくりしないでよ」
彼女は予想以上の反応が返ってきたことに気を良くしたのか、けらけらと笑う。
さきほど鍋を囲んでいた時とは違い、自然な笑顔がその顔に浮かんでいた。
口調もずいぶん砕けたものになっている
「ほら、桶。流れちゃうよ」
指摘され、幸村は何がなんだか分からないまま、川に落ちた桶を拾った。
そして桶を蓋をした瓶の上に置き、いろいろ頭で状況を整理した後、幸村は彼女に先ほどのお礼を言うことにする。
「あの、先ほどは助けていただいて」
「ん? そんなかしこまっちゃってどうしたの?」
失敗だった。いつもの三郎の言葉遣いと違ったらしい。
現代での癖が出てしまった。
不思議そうな表情を浮かべる彼女に、幸村はじんわりと背中に汗をかく。
「いや、えーと、ありがとう」
幸村が言い直すと、彼女は一瞬笑った。
そしてすぐに表情を抑えると、今度は声をひそめて言う。
「いいのよ別に。たまには言い返す人がいないと調子に乗っちゃうでしょ、あの人。そうなると私も面倒だから」
どうにも答えられず、幸村はただ曖昧に頷いた。
するとさらに彼女は、小さくつぶやく。
「付き合ってられないの、本当に」
幸村はその一言に「ん」と引っかかった。
どこかで聞いたことのある声の出し方と口調。
いや、そういう雰囲気をまとって話す人を彼はなぜか知っている。
「そのー、夜だけど、一緒にいなくて大丈夫?」
だから割り合い、危険に思える質問を幸村は振ってみることにした。
「……ん。もう、知ってるでしょ? 最近は、ほら」
この返答でまずはひとつ確定した。
(この人、あの一郎って人の嫁か)
思い返せば、この人とさちの間には若干強ばった空気が感じられた。
あれが世に言う、嫁姑の空気なのか。
初体験だった。
また同時にその単語を聞くと、幸村はなんとなく嫌な予感がする。
(やっぱり深入りできないな、これ)
いや、こう言うとファミレスの仕事は暇なのかと勘違いされるかもしれないが、パートのおばさんの愚痴を聞かされ続けて、彼にはひとつ感じていたことがある。
よその家の家庭問題というのは、わりかしおどろおどろしいものであると。
旦那である一郎もああいう人柄なのだし、なるべく関わらないほうがいい。
それこそ、遠くから眺めるだけなら、単に第三者にもなれるかもしれないが――。
(あれ、でも、俺。今、その家の一員?)
巻き込まれない方法なんてあるのだろうか。
彼女にまじまじと見られているので、表情を変えないまま、幸村はゆっくりと息を吐く。
そして実はもう一つ、彼には彼女について思いつくことがあった。
これに関してはそのまま放置しておく方が危険なので、少し不自然になっても尋ねておかねばなるまい。
「えーと、俺って、いつもなんて呼んでたっけ? その、あなたのこと」
異様にぎこちない幸村の質問に、案の定、彼女は怪訝な表情を浮かべた。
しかし、冗談で言ったと思ったのか、何か勘違いした様子の彼女はふっと笑って答える。
「二人っきりの時は義姉さんじゃなくて、夕って呼んでいい。そう言ったよね?」
(……マジか)
その言葉の破壊力は凄まじかった。
途端に襲ってきた何か重苦しいものに負け、幸村は思わず彼女から顔を逸らしてしまう。
彼の悪い想像はあいにく最悪の形で正解だったらしい。
今の夕の態度は、ファミレスで店長と不倫をしているパートの女性そのものだった。
ひた隠しながらも、どこかでかすかに漏れているような彼女のその綻び。
つまるところ、幸村が彼女に見出したのは、遠くない先にある崩壊と破綻。
あるいは身の破滅を呼ぶような空気だった。
ここまで過去の話。