二十三話 悪い夢③
「二郎。今日の仕事の後、ちょっと行くところがあるからな」
その日の朝、家族揃っての食事が終わり、皆が一和みしていたところでのこと。一郎がそう改まって二郎に話しかけるのを幸村は初めて見た気がした。
当の二郎もずいぶん意外そうな表情を浮かべている。というのも、日頃、二人の間には丁度良い距離感というものがあり、特に用事がなければ彼らが話をすることはないからだ。
それは以心伝心と言うには少し違う感じもするが、二人が朝仕事に出かける時はどちらがどちらに声をかけることもなく、自然な感じで家から出て行く。その振る舞いには、二人が家族としてこれまで積み重ねてきた年月を感じさせるものがあった。
「……ああ、はい」
二郎はそう曖昧な返事を返した。用事の中身が思いつかなかったのだろう。ただそこで理由を尋ねないのはやはり人間関係の為せる技なのか。
幸村はそんなことを考えながら、連れ立って家から出て行く二人を見送った。だからその日の夜、二人が顔中を腫らして帰ってきた時には、幸村はひどく驚く羽目になったのである。
「どうしたの!?」
母親のさちは帰ってきた二人を見ると、たいそう驚いて彼らに尋ねた。夕も幸村も同じく動揺を隠せていない。二人が帰ってきたので、ようやく夕食をというところだったのだ。
だが、どちらもさちの質問には答えず、一郎の方は「俺はもう寝る」と言って家の奥に引っ込んでしまう。
一方、二郎の方はと言えば囲炉裏の前にどっかりと胡座をかいて座り込み、ひたすら渋い顔をしていた。
二郎のそんな顔を見るのは初めての事だったので、そのすぐ近く、囲炉裏にあたっていた幸村もどうしたらいいかわからない。
そんな家の中の緊張状態を破ったのは、やはりというか、夕だった。
「なにがあったんですか?」
その丁寧でありながら、どこか迫るところがある口調。二郎も無視しがたかったのだろう。ひどくぶっきらぼうな態度で彼は返事をした。
「……あれです、義姉さん。フギリです、フギリ」
一瞬置いて、幸村は二郎が『不義理』と言っているのだと理解する。
「不義理ってどういうことなの?」
今度はさちが二郎に尋ねた。
「……この前の。蓮介さんのところの話だよ」
「ああ、この前亡くなった。今になってあの人がどうしたっていうの」
「蓮介さんのところの家や畑をどうするかって話が今日の寄り合いで出たんだ。その場で兄貴が……」
「一郎が?」
「ろくでもない、無理な筋を通そうとしたんだ。だから俺は止めようとしたんだけど、兄貴はお前は黙ってろの一点張りでさ。でも、どうにか黙らせようとしたら、つい手が出て」
そこまでを聞いたさちは、自分の息子たちがしでかしたことを知って、呆れ返ってしまったらしい。
「そんな、いい歳をした二人が他所様の目の届くところで何をやっているの。まさか人の家でどたばたとやり始めたんではないだろうね」
「さすがにそりゃないよ。兄貴を外に引っ張りだしてからやったさ。何人か止めに入ってくれたけど、そっちに怪我はさせてないし」
「あたりまえだよそんなのは。それで? あんたたちは両方とも大丈夫なの」
「俺は丈夫だから。兄貴も一晩寝りゃあたいがい問題ないって。ずいぶん手加減してやったから」
どことなく言葉遣いが荒くなっていることに幸村は違和感を覚えた。
なのでそれとなく二郎の顔を見つめる。すると幸村は、やけに二郎の顔が赤くなっていることに気づいた。
どうやら二郎は酒を飲んでいるようだった。寄り合いの最中にでも振る舞われたのかもしれない。この二番目の兄は酒で人格が変わってしまうタイプなのか。
そしてひとまず自分のできそうなことが見つかった幸村は、立ち上がると土間まで降りて瓶から水を汲む。そして水が一杯に入った柄杓を持って元の場所に戻ってくると、彼はそれをおもむろに二郎に差し出した。
すると、二郎はおッと言って受け取り、そのまま一息に中身を飲み干す。
「っと、三郎は気が利くじゃないか。やっぱり山に連れて行ったことが良かったんだろう?」
うんうんと適当に返事をして、幸村は空になった柄杓を受け取った。二郎のその態度を見ていると、二度山に登った時のあの頼りがいのあった雰囲気がどこかに霧散していくようであった。
「まだ、水いる?」
「いや、もういいや」
「私はちょっと一郎さんを見てきます。三郎、一郎さんの分をお願いしていいかしら」
夕の声に頷き、幸村はまた土間に降りていって水を汲む。夕方になる前に川から汲んできたばかりなので瓶の中身にはまだ余裕があった。そういえば、いつの間にかこの水汲みも幸村の仕事のひとつになっている。
「じゃあこれを」
「ありがとう」
柄杓を渡すと、それを持って夕は一郎のいる家の奥の方に向かって行った。
その様子を眺めていた二郎はふんと鼻を鳴らして独り言を漏らす。
「はあ、兄貴も幸せだねえ。機嫌が悪い時にゃ、ああやって気遣ってくれる義姉さんが居るんだもの。昔さんざん口説き落として最後にゃ土下座までして嫁さんにもらったわりに、最近はそれが当たり前みたいに振る舞ってんだから、まったくろくなもんじゃねえな」
「二郎!」
さちが叱ったが、二郎の愚痴のようなものは止まらない。
「母さんも思わないか? あの馬鹿兄貴は変に調子に乗ってるんだ。何があったかは知らないけどさ」
それには答えず、さちは無理矢理でも話を変えることにしたようだ。
「それでその、不義理ってなんのことなの」
「……俺をその家に突っ込もうとしたんだ」
「え?」
「だから、俺が蓮介さんの家に住むようにしたいと寄り合いで言い出したんだよ」
さちはどうしてそういうことになったのか、分からないらしい。
「なんでそんなこと」
「俺が死んでいる蓮介さんを見つけたからだろうさ。家族もいないから、家やら財産を継ぐ人間がいないと思ったんだろ。空けたままにしておくのももったいないからって」
「……皆はなんて言ってたの」
「なんて言ってたのじゃないよ。『こいつは何言い出すんだ』ってなもんさ。なんたって俺と蓮介さんなんかほとんど交流も何もなかったんだし。それに」
そこで一度大きく息を吐いてから二郎は続ける。
「もう寄り合いの前から、だいたいのことは決まってたんだよ。家族がいない蓮介さんを気にして、これまで何かと面倒を見てたのはその近所に住んでる人たちだったんだから。本当なら、その人たちだけでちょっとしたやりとりがあって決まるはずだったんだ。知り合いに聞いたところじゃ、今日の寄り合いは形だけのものだったってのに」
「何でそれを一郎に教えてあげなかったの」
「まさかそんなことを言い出すなんて思いもしないだろ?」
話を聞いただけの幸村には想像しかできないが、一郎の発言でその場の空気がとてつもなく冷えたことは想像できた。
「いや何よりさ。当事者になる俺に前もって何の説明もなく、そういうことを言い出したのが頭に来るんだ。『私はこのように考えているんだけど、あなたはどのように思いますか』って尋ねてくるのが道理だろうに」
「それはそうだけど、一郎だってあんたの将来を考えて」
「本当に余計なお世話だよ、あんなのは」
そこまで聞いたところで、限界を迎えたらしい。さちはもう話を打ち切ることにしたようだった。
「あんたももう今日は寝なさい。酔っ払ってるみたいだし、それでまともに話が進むわけがないじゃないの。明日また落ち着いてからなら話す機会もあるだろうから」
その言葉を聞いた二郎は鼻を鳴らして立ち上がる。
「確かにそうさ。でも今日はよそのところで世話になるよ。兄貴の近くで寝る気分にはなれないから」
そう言ってさちが止めるのも振り切ると、二郎は家の外に出て行ってしまった。誰か知り合いのところにでも行くつもりなのだろう。そうして居間にはさちと幸村だけが残されることになる。
「まったくもう、なんだっていうの今日は」
さちはそうつぶやいて、唯一その場に残った幸村の方に視線を向けた。一瞬のうちに彼女はひどく疲れた表情になっていた。
「飯、どうしようか」
幸村は場の雰囲気を変えるため、そうさちに向かって尋ねた。
「……どうせ食べるとしても私達だけでしょう。用意だけはしてあるけど」
「んーと、じゃあ今日は俺が作るよ。なんていうか、うん」
そう言って幸村は再び居間の上から土間に降りた。さちはまた驚いたらしい。
「作るって、三郎。あんた料理なんかできたの」
「用意してあるんだし、簡単なものなら多分。そこまで味は保証できないけど」
今日はそこで座っててよ。幸村が告げると、さちはそれで動く気力もなくなったようだ。
「……いいわ。今日はあんたに任せる。疲れちゃったもの」
そう言ってさちは囲炉裏の近くに腰掛ける。
その後は結局夕も家の奥から出てこなかったので、その日の夕飯はさちと幸村の二人だけで食べることになった。
「本当に、まったくもう」
そして幸村は、自分が作った美味くもない食事を取りながら、その日さちが話し疲れるまでその相手をすることになったのだった。




