二話 過去へ②
幸村一樹。
彼は一年前の時点で、とある地方大の三年生。
そこらを掘ってみればいくらでも出てくるような、時給三桁でバイトをする実家暮らしの大学生だった。
大学に通う傍ら、近所のファミレスでほどほどに働き、たまに店長とパートのおばさんが不倫しているらしいと同僚と笑い合う、そんな生活。酒もタバコもやらない。たまに誘われて、友人宅で麻雀に付き合う程度。
ただそれも『一局終わって誰がカモだか分からない』くらいの腕前なので、特別ハマりもしなかった。
そのため、彼がバイトで稼いだ給料は、最低限の生活費を抜いたほとんどが彼の持つ趣味の方面へ注ぎ込まれることになる。
今では全体として数が減っていても、それでもなお、有り余る暇を壮大な無駄に使って過ごす大学生は少なくない。そして彼らは良くも悪くも、一度矛先を向けると急速にその深みへとハマっていく。
幸村の場合は、そこに旅行が当てはまった。
それも友人と行くのではない、言葉通りの一人旅。
さらに彼が見て回るのは、各地に残る“城”が中心だった。
関東近隣の県を軸に長期休暇はもちろん、三日程度の連休の際にも懐に余裕があれば遠出する。
あるいは、ここで幸村がネトゲを趣味に選ばなかったのは、彼とその家族にとって幸運だっただろう。彼の有り余る暇と類まれなる執着心がそちら方面で発揮されては、もはや異世界にでも飛ばされない限り、彼自身が精神的な意味で救われることはなかった。
……いや、とにかく。
元から歴史、特に戦国時代には興味のあった彼である。
旅行中に一度、面白半分で城を見て回ってからというもの、幸村は各地に残る戦国時代の城跡巡りにどっぷりとハマってしまったのだ。
それは彼の両親が「幸村」という苗字を背負う割にほとんど歴史に興味を持たなかったことからすると、なんとなく家筋に――もちろんかの有名な武将と血縁などは無いが――立ち返った感じがする。
さて。そんな彼の趣味への浸り具合とはいかばかりのものであったか。
具体的には、わざわざ面倒な手続きを踏んでまで衛星放送が自宅に映るよう取り計らい、一日中ずっと歴史コンテンツを放映し続ける専門チャンネルと契約した程度である。
さらには何種類もの歴史系雑誌を毎号欠かさず購入。ネットのアーカイブス及び、古書店を巡って時代ものの資料を読み込み、そこから城の構造を学んではその攻め方、守り方を考える。あるいはどのように現実の戦が行われたかを妄想して、まるで自分が一部隊を率いているかの如くに楽しんでみる。
そして頭で考えるだけではよくないと気付いてからというもの、彼は実際に現地に赴くと、自らの足で土地を踏みしめ、眺めて、それまでの認識とのずれを、楽しみながら修正するようになった。
そしてたまにその感想を SNSにポストしたりする。
まあその手間の割に、特に誰からの反応もなかったりするけれど。
ちなみに彼の両親は、それほど意欲があるなら、それ相応の道に進んだらいいんじゃ? と一人息子に厚意で説いたりしたが、その辺り、彼は提案を一切相手にしなかった。この息子にとって趣味は趣味以外の何物でもなく、この点、彼は存分に時代の影響を受けている。
そのうち両親も、息子が買ってくる土地土地の土産物に負けたのか、それとも自分たちの老後は一安心だと思ったのか、ついには声をかけるのを諦めたようだった。
と、そうして毎日を送ってきた幸村も、三年の夏頃になると、そろそろ就職の問題が目に見えて迫ってくる。
そこで彼は、これを学生最後の旅行にするつもりで奮発し、一週間の日程を組んで中国地方を見て回ることを決めた。かの有名な姫路城を皮切りに、毛利家由来の各城跡を通して見学しようと考えたのだ。
(姫路、上月、鳥取、月山富田、と!)
旅行当日、新幹線の車内で幸村は、心のなかでこれから巡る城の名を順に挙げ、その期待に胸を躍らせていた。
なにせ、彼が今回巡ろうとしている城跡は、姫路城を始めとして歴史の教科書にも出てくるような名の知られたものが多いのだ。たとえば姫路城であれば、豊臣秀吉の名前はすぐに浮かぶだろう。ないしは池田輝政、黒田官兵衛であるとか。
そのように城の名が著名であれば、その近隣に美術館やら博物館もあったりして、幸村としてはことさら見学のしがいがある。
(それで最後はやっぱり、吉田郡山で〆かな)
ここで言う郡山城とは、山全体が巨大な要塞と化した毛利氏の居城のことだ。
そこには三本の矢はもちろん、百万一心の石碑もあるとか。
彼の顔が自然とほころぶのも無理はない。
だがしかし、あまり行き過ぎた趣味というのも容易に人には受け入れられないものだった。
それこそ、表情を加減できずにいたのもいっそう拍車をかけたらしい。
幸村の隣の席に座っていたサラリーマンはそのようにニヤニヤする彼に気付いて、先ほどからちらちらと訝しげな視線を送っていた。
そして一人我に返った幸村がおもむろに八角の弁当箱を広げ出すと、サラリーマンはようやく息を吐いて目を離し、懐から出したスマートフォンを弄り始める。“なんか横に変な奴がいる”と、どこかに書き込んでいるのだった。
もちろん、そんなことに幸村は気づかない。
というか、そんなサラリーマンの態度など、彼にとってはまったくどうでもいい話だ。
彼は彼でホクホク顔で駅弁を食べ終えると、さきほど写真を挙げておいた SNS を確認する。
「美味しそー!」
「土産ちゃんと買ってこいよー」
そんなふうに、バイト先の同僚が反応をくれていた。
その内の片方、日頃バンドの追っかけに忙しいらしい女子高校生の方は、今仕事中のはずだったが……。
幸村は笑って目を逸らして、見事に大学生らしい対処をする。
というか、それより。
彼らにかぎらず、城の石組みの写真を挙げた時は皆薄い反応しか寄越さないくせに、それが駅弁だったり、その土地独特の料理だったりすると簡単に反応が返ってくる。そりゃ誰もかれもが朝昼晩と食事の写真を挙げるはずだと幸村は思う。
彼にしても「共感のしやすさ」が結構重要、と気付いたのは結局大学の終わりが見えてきた時のことで、その時にはすでに後の祭りな雰囲気が漂っていた。二十歳も過ぎて、容易に人の気質とは変わるものではない。悲しいことに異性との関係でそれは顕著な傾向を見せた。
ともすれば、水は一段低い所に流れとどまるという。
こと SNS を触っていると、たまに幸村は無自覚に同意を求める自分に気付いて恥ずかしくなる瞬間があるのだが――しかし、とある友人に言わせると、そこが特に幸村のモテない原因であるらしい。
「お前のそれ、時代の要求に合ってない」
その友人の言い方がひどく達観した様子であったから、幸村もその場ではつい納得して頷いてしまった。あとで考えてみると、その友人だって言葉ほどモテているわけではなかったのだが。いったいどんな立場からあんなことが言えたのか、幸村は次の機会にまた問い詰めてみるつもりである。
そう変な方向に頭を働かせているうちに、目的の駅に程なく到着すると放送が流れた。
姫路駅。駅を出るとすぐに姫路城の天守閣が目に入るという。
朝早く出発する新幹線に乗ったこともあり、姫路城は午前のうちからでも見学できそうだった。
あるいは時間に余裕があるから、どこかで先に昼食を取ってもいいかもしれない。
いや、午前午後いっぱいかけて姫路城を見学するなら、まずは充分腹を満たしたほうがいいだろうか。
そう無駄に意気込みながら、幸村は新幹線のホームに降り立った。
それから彼は駅中で有名だというえきそばをすすり、普段食べないような和菓子を食べ、勇んで姫路城に向かったのだが――。
(あの時はこんなことになるなんて全然思わなかったな)
ようやく現実に思考が戻ってきた。幸村はゆっくりと泥のついた体を起こしながら考える。
あの日あの時。
天守閣の写真をあらゆる角度から撮ってやろうと歩きまわっていた幸村は、ほんの一瞬よそ見をした隙に、何の変哲もない階段から足を滑らせて転げ落ちてしまった。
そして特に気を失ったつもりもないのに、その落ちた先で目を開いてみれば。
幸村の目の前には、彼の全く見覚えのない世界が広がっていた。
■
「痛ったた……」
地面に強く打ち付けた肩を手でおさえながら、幸村は薄く目を開いた。
頭はまだ混乱している。
急に体が沈んだかとおもえば、次の瞬間にはぐるぐると世界が回りだしたのだ。
なんというか、気分が悪い。それに身体中にじんじんとした痛みがある。
少しして混乱が収まり、自分が階段から落ちたらしいと気付くと、彼は痛みをこらえながら体を起こした。そして周囲を見回す。何より他人を巻き込んでいないかどうか確かめるためだ。
しかし、キョロキョロと辺りを見回しても、彼の目に映ったのは木と木と、木。
そこはどう考えても人の手の入っていない林の中だった。
もちろん観光客など周囲に一人も見当たらない。
「……は?」
幸村の口から思わず声が漏れた。
そして彼が遅れて驚いたのは、一瞬のうちに自分の格好が替わっていたこと。
お馴染みの清潔感だけを全面に出した無地のシャツとジーンズは、いつの間にか上下とも土で汚れた木綿の服になっている。
おまけに股間がやけにスースーすると触ってみれば、下着がなんとふんどしになっていた。
足元もスニーカーではなく、草鞋だ。
「……え?」
わけもわからず、幸村はその場で立ち上がる。まるで起きながら夢を見ているような感覚。
(白昼夢?)
そんな単語が頭に浮かんだ。
しかし、これほどはっきり意識があるのにそんな事態に陥るものなのか?
幸村が呆然としていると、その後ろでこれまた彼と同じ格好をした男が、ぬっと木々の隙間から姿を現した。
そして幸村がその男に気付いたのは、彼に乱暴に腕を引っ張られた後のことだ。
「おい、なんだ。こんなトコで怠けてるんじゃねーよ」
「……はい!?」
とっさのことで恐怖を感じる暇もなかった。
振り向くと、髭面が幸村の目の前にあった。
見覚えのない顔。男は幸村と同じくらいの背の高さをしている。
「ほら、帰んぞ、まったく。ダメなお前が怠けてる間に俺が取れるだけ山菜取ってやったからな、感謝しろよ? これで足りなきゃ今度は一人で取りに来いっつうことだ」
「……帰る?」
男の言っている言葉がまるで理解できない。
幸村はろくな反応を返すことができなかった。
しかし、男は幸村の態度を気にすることなく話し続ける。
「ったく。ただでさえ、細っこい体してんだから人の倍は働かないと人並みの仕事にならねーだろうが。その歳で怠け癖がついてるようじゃ、これから本当につまんねえ暮らししかできねーぞ」
「……あの」
「分かったか? 分かったらこれ持て、ほら」
ようやく口を付いて出た言葉は、完全に男に無視されてしまう。
代わりに幸村は竹籠を一つ押し付けられた。
その中身は……キノコだ。
スーパーに並べられる前、木の葉や土が付いたままのもの。
男は腰に四つほど同じ籠をくっつけている。
「すくねえけど、ちょっとくらいはお前も働いたことにしとけよ?」
よくわからないが厚意でしてくれたことのようだった。
ならば礼は言うべきなのか? などとわけの分からないことを考えている間に、男は次々と太い声を飛ばしてくる。
「だいたいなあ、お前は普段からしてーー」
それらの内容をよくよく踏まえると、目の前にいる男は自分の実の叔父に当たると自称する人であった。彼は今日、山に山菜を取りに来ていたとのこと。しかし、一緒に連れて来たはずの幸村が急に側からいなくなり、今まで探していたらしい。
「……」
(山菜採り?)
幸村は何度も叔父、から聞いた言葉を頭の中で繰り返した。
いやそもそも、叔父と言われても全く覚えはない。
というか、こんな野性的な知り合いがいたら、忘れられるわけがない。
ということは、これは夢の出来事なのだろうか。幸村はそんな風にも思ったりする。
本当の自分は今、実は姫路城の地面で横たわっているのではないかと。
とりあえず、自分の頬を幸村は叩いてみた。
すると、ぺしっ、と音が鳴り、すぐにじんとした痛みが走る。
おそらく、自分の体は正常だ。
そうであれば。
(……一度黙って全てをのみ込んでみたほうが良い、のか?)
半信半疑のまま、幸村は思う。
彼は目の前の光景を信じないほど年寄りではないし、頭が堅いわけでもない。
なにより、虚構だとするには目の前の現実があまりに出来すぎている。
だからひとまずは、現状を受け止めるしかないのだろう。
そして幸村はいったん目をつぶり、静かに頭を巡らせる。
一瞬で見知らぬ場所に移動したかと思えば、これまた一瞬で変わってしまった自分の服装。
知らない男に見知ったように話しかけられ、向こうは自分のことを甥と呼ぶ。
まさか親類が自分の甥を別人と間違えるということはないだろう。
わざと呆けているような様子もない。
また『帰る』ということは自分の家が近くにあるということで。
すなわち、これらを総じて浮かび上がってくるのは……。
(俺じゃない俺がこの場にいるってこと?)
自分で言っておいてよく分からない。
自分自身ではない、自分?
(えーと……)
考えても答えは出ない気がした。
結局、幸村が理解しなければならなかったのはこの事実。
今自分の置かれた状況がまるで物語で読むようなお話であるということだ。
それは俗に言えば『成り代わりもの』。
この世界の誰かの存在を、幸村が乗っ取ってしまったのか。
そこまで考えたところで、この不真面目野郎が、と叔父である男が呆けている幸村の肩を叩いた。
言葉ほど乱暴な叩き方ではない。黒く日に焼けた顔も笑っている。
それで自分と叔父が割と友好的な関係であるとわかる。
(とりあえず、味方っぽい人はいるわけで)
そう確信できたことは唯一の救いだった。
幸村はそう考え、ふとしたきっかけで溢れ出てきそうな悪い考えに蓋をする。
もっと楽観的に物事を考えるべきだ。
最近読み始めた自己啓発書にもそう書いてあったような気がする。
とにかく現状を詳しく理解しなくてはならない。
とすると、この叔父に付いて村に向かえば少しは事態も進展するだろうか。
(とりあえず今は)
流されるままに動くしかないか。
最終的に幸村はそう決めた。
そう極まってみると、案外覚悟を決められる自分に内心驚いてもいた。
いや本当はまだ、ただ混乱していたのかもしれないが。
(あとは野となれ、山となれ、なんて)
そんなふざけたことを考えているうちに、すでに叔父はこちらに背中を向けて歩き始めている。
それを追うようにして幸村は一歩、前に足を踏み出した。
少し過去話が続きます。